ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を乗り越えた筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

「自分には人一倍細く見えている世界」が人生をより豊かにする

 「仕事がつまらない」と感じる要因は、分解してみる実に色々なものがあります。

中でも「そもそも仕事内容に興味が持てない」というのは大きな要因でしょう。
自動車に全く興味のない人が自動車の営業職に就いたら、入り口の部分でかなり辛いと思います。

僕も社会人最初のキャリアは全く興味の持てない「法律」と「半導体」の世界からスタートし、それは辛いものがありました。


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自分が興味を持っていることに気づく

逆に言うと、「自分が興味を持っていること」というのは、自然と周囲の人より詳しくなります。自然とその世界が細かく、深く見えています。

自動車で言えば、車好きの人は車に興味のない人よりも車の構造、仕組み、メーカー、車種、グレード、価格……あらゆる知識が自然と身につき、「自動車」を構成する世界が細かく見えているはずです。

「どれだけその世界が細く見えているか」は、「どれだけ自分がその世界に興味を持っているか」に比例します。

では、自分に人一倍細かく見えている世界は何でしょうか?
「自分に人一倍細かく見えている世界」は人によって全く違うはず。同じ仕事をしていても、その仕事のどの部分に詳しくなるかは人によって違います。
他人との比較ではなく、自分自身の感覚を観察して見つけたいところです。

ちなみに僕の場合、こんな世界が細く見えています。
・人の気持ちや心理
・言葉のニュアンスや温度
・樹木や草花の種類
・複雑な情報(人の頭の中から社会問題など広く)の整理・分析
・自動車の車種、スペック
・カフェ

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「興味」と「仕事」との関係

ただ、自分に細かく見えている世界が、そのまま仕事になるとは限りません。
そういう世界が見つかっても、趣味にとどめておいたほうが幸せなケースもあります。

現に僕の「細かく見えている世界」の半分以上は、今の仕事に直接生かされてはいません。

それでも、「自分がその世界に興味がある」ということは確実です。
ということは、どんな形であれその世界に触れる時間を増やしていくことで、生きている時間はより豊かになるはずです。


自動車の例で言えば、車に関係する仕事に就かなかったとしても、趣味として色々な車に乗ったり、車を好きにカスタマイズすることで「楽しい」と感じる時間は増えるでしょう。

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本物の興味と偽物の興味

(ここから先は、僕の私見であり持論ですが)
一つだけ頭に留めておきたいのは、「自分が興味を持っていること」の中には、偽物も紛れているということです。

「偽物の興味」は、自分が不安や苦しみから脱するために、いわばマイナスの心理状態からプラスマイナスゼロの心理状態になるために興味を持っていることです。

それに対して、「本物の興味」は、自分が楽しいと感じ、より人生が彩り豊かになるような❝ワクワク❞に包まれた興味です。
「本物の興味」を辿って行動していくと、不安のない、プラスマイナスゼロの心理状態から、「楽しい」「嬉しい」「充実している」などのプラスの心理状態になることができます。

「偽物の興味」の具体例を挙げてみます。
たとえば、人間の内面や心理に興味を持っている人がいるとします。
その人は色々な人の深い悩みを聞き、その相談に乗って力になることに充実感を感じるとします。

ではなぜその人は人間の心理に興味があるのか?
それを探っていくと、「自分自身が内面的な問題で苦しんできた。そこから自分自身が抜け出したい。救われたい。」という気持ちが根底にある場合があります。

自分自身が心理的に救われたいのに、同じ分野で人を救おうとする。
本当は自分がやってほしいことを、人にやってしまう。
こうした反動形成的な行動で自分自身が満たされるのは難しいです。
最終的には「自分が救われるために、人を救おうとする」という状態が生まれ、相手に特定の反応を期待したりして、お互いに傷つく結果になる場合があります。

実際に僕は、カウンセラー志望の人や一部のカウンセラーでこういう人に会ったことがあります。
そして何を隠そう僕自身も、このような心理構造で人の内面に向き合う仕事を選び、「転職に出会えていない自分」を救うために人の仕事選びに関わる仕事に就きました。

どんな動機であれ、行動を起こすエネルギーが湧くのは素晴らしいことだと思います。
ですが、「最終的に自分自身は満たされるのか?」という観点で考えると、偽物の興味の先にそれは手に入らないような気がしてなりません。

このことに気づくのに、僕は5年の歳月が必要でした。
ここで書いていることは、正しいかもしれないし間違っているかもしれません。

ですがもし正しいとしても、僕は身近な人が「偽物の興味」を原動力に人生を歩もうとしているのを見ても止めることはしないと思います。

僕がここに書いたのはあくまで「自分なりの答え」に過ぎないし、仮に相手にとって的を射たことを言っていたとしても、「その人自身が考え、決めて、行動した結果から学ぶ」という重要な機会を奪いたくないからです。
「偽物の興味」に突き進み、最終的に自分自身が満たされなかったとしても、人生で最も大切なことは「自分で考え、自分で決めること」だと思うからです。

色々言いましたが、
・あくまで僕の私見であること
・どんな動機の興味であれ、その方向に進んでいくことが良いと思っていること
を最後に書き添えておきたいと思います。

 

自分に必要な"ミニマム睡眠時間"を知る

30歳を迎えて、最近ようやくわかったことがあります。

それは「自分に最低限必要な睡眠時間」です。

気づくのが遅い気もしますが、実は、自分の"ミニマム睡眠時間"をはっきり把握している人は意外と少ないような気がします。

きっと、
・◯時間は寝るという明確な基準はない
・慢性的に睡眠不足がちだけど、仕事や付き合いで帰りが遅くなるときもあるし仕方ないと思っている
・仕事が休みの日は遅くまで寝てしまう
という人が多いんじゃないでしょうか。

 

 

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"ミニマム睡眠時間"に気づいてからの変化

僕の場合は7時間を切るとガクンと回復度合いが落ちることに気づきました。 

これまでは周囲の真似をして短時間睡眠のハードワーカーになろうとしてみた時期もありました。
でも結局、日に日に疲れが溜まり、少し休んだくらいでは心身が回復できないほどまで疲弊しきっただけでした。 

3度目の休職で睡眠の重要性と、「自分は思っていたより長く寝ないと持たないタイプだ!」という事実に気づき、9月に復職した後、毎日必ず7時間以上は寝るようになってからは土日の疲労感がかなり違います。

以前は土日に全く動けないくらい疲弊しきっていて、どんなに工夫して回復に努めても翌週に疲れを持ち越してしまっていたのが、この1ヶ月は週単位で比較的疲れを清算できている感覚があります。

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自分に必要な"ミニマム睡眠時間"を見つけるためのポイント

とはいっても、自分に必要な"ミニマム睡眠時間"を見つけるのは意外と難しいです。

それは、心身の調子は睡眠だけでなく精神的ストレスや体内のバイオリズム等、他の様々な要素に影響を受けて左右されるものだからです。

そんな中でも、僕は2つのことに気をつけて「7時間」という水準に気がつくことができました。

①他人の睡眠時間と自分の睡眠時間を比較しない

 一つは、他人との比較をやめることです。
誰の身の回りにも、毎日寝る間も惜しんで働いていながらエネルギッシュな人がいると思います。
彼らに生活リズムを尋ねてみると、「よくそれで体が持つな」と思いつつも、「この人を見習ってもっと仕事に打ち込まなければいけないんじゃないか」と不安に駆られることもあるかもしれません。

ですが、"ミニマム睡眠時間"は一人ひとりまったく違います。
一日2,3時間しか寝なくても働ける「ショートスリーパー」と呼ばれる人もいますが、それはごくごく稀なケースです。

睡眠時間を長く取らないと回復できない人ほど、損をしている気持ちになったり、寝ている時間をもったいなく感じてしまったりするかもしれませんが、

いざ体を壊してみると、それがまったく的はずれな考えであることに気づくと思います。笑

周りは気にせず、自分自身のことだけを知ろうと心がけたいところです。

 

②体の感覚に神経を集中して、自分の疲れ度合いと睡眠時間の関係を知る

僕たち現代人は、起きている時間の中で体の感覚に集中している時間が極めて少ないです。

ほとんどの時間は、何かの情報に触れ、それを処理したり思考を巡らせたりすることで忙しくしていて、常に気が散っています。
そんな状態では、体の疲れ度合いを正確に知ることは難しくなります。
疲れて何もする気が起きなくなったり、体調を崩したりして初めて、「思っていたより疲れていたんだな…」と悟なんてことも…。

そうなる前に一度、TVやスマホ、人との会話などの情報を中断して、ベッドに横になってみてください。
その状態で目を閉じ、全身の力を抜いて、自分の体の感覚に耳を済ませてみます。
そうすると、大抵の場合「あれ?思っていた以上に疲れているな」と感じるはずです。

日中の活動量や睡眠時間は、そのとき感じた疲れ度合いに合わせて組み立ててみると無理がないと思います。

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まとめ

残念ながら十分な睡眠をとることで心身の健康は保てる!というほどシンプルではないのですが、
「睡眠時間」というコントロールが可能な要素を改善していくことで、確実に心と体にはプラスの影響があるはずです。

若いうちは多少寝不足でも無理がきくかもしれませんが、無理のしすぎは何一つ良いことがありません。(ホントに)

健康が手元にあるときだからこそ、ぜひ自分の体に質問してみてください。

「この体に最低限必要な、"ミニマム睡眠時間"は何時間ですか?」

四季の移ろいを感じる

今日は「四季を感じること」がもたらす豊かさについて書いてみます。

以前にも書いたように僕は2年半ほど東京都中央区に住んでいたのですが、
都内の暮らしで意外と辛かったのは四季の移ろいを感じられなかったこでした。

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(当時住んでいたマンションからはビルしか見えず)

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(自宅の目の前も車の往来が激しい大通り)

正確に言えば、自然の風景、樹木・草花を見て四季の変化を感じることが少なかったんですね。

毎朝家を出て仕事に行って、
オフィスの中でパソコンとにらめっこして一日を過ごし、
家に帰ってまた屋内で過ごして、翌朝になる。

休日も、電車に乗るか車を借るかしない限り、木々が生い茂るような風景に触れることはできませんでした。

その点、都内から引っ越してからは毎日四季の移ろいを感じることができます。

道端に咲いている花。
樹木の葉の色。
木になる果物の熟し具合。
畑になっている野菜の種類や育ち具合。
駅に行く途中に見える山の色。
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(秋の代名詞、コスモス(秋桜))

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ミズナラの木にはまだ青いドングリが)

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(ミカンもまだ青くて熟していない)


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(秋ナスは食べ頃)


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(山の色はまだ盛夏の名残を残しています)

こうした色々なものが、季節の移り変わりを感じさせてくれます。

都内で寝る間も惜しんで働いていたときは、こうしたものに意識を向ける心の余裕もなかったけど、
「四季を感じる」という体験を失ってみて、取り戻してみて、やっぱり自然の流れの中で生きていることを感じるって大事だなと思います。

都内で働き詰めの生活に不自然さを感じていたときと比べると、今は少しだけ人間の自然な生活に戻ったような気がします。

僕のように感じる人がすべてではないかもしれませんが、「四季を感じることで心が癒される」と感じる方は、意識的にそういう時間を作ってみてはどうでしょうか。

答えが出せない問題もある

悩み事があって、考えても考えても答えが出ないときってありませんか?

悩みの中身が深刻なものであるほど、答えが出ないストレスは大きくなります。

数ヶ月前、僕自身がそうでした。
「今の会社にはもう耐えられない。転職したい。でも、休職中のまま退職すると転職活動に不利と専門家からアドバイスを受けた。自分が次に何をやりたいのかもわからない。どうすりゃいいんだ…」

今は結果的にその苦しい状況を抜け出せたのですが、今日はその経験から学んだことについて書いてみます。

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「考える→答えが出ない→また考える」の末路

「結果的に」抜け出せた、と書きましたが、僕は最後まで考え続けることしかできませんでした。。

結局、休職期限という時間切れを迎えて、転職せずに復職することになりました。(その選択肢を選びました、とは言えない…)

振り返ると、考えすぎた結果不必要にストレスが溜まったり、「答えが出ないこと」で不安が雪だるま式に増幅したり、いいことは何一つありませんでした。

「じゃあ、考えるのをやめればいいじゃないか」という話なのですが、そう思うだけで実践できるほど、事は簡単ではありません。

それは、「考える」という行動の背景には「間違いのない結論を出さなければ」という焦りや不安があるからです。表面の行動だけ変えようとしたところで、深層にある焦りや不安はなくならず、また別の行動に形を変えて表出してしまうだけです。

悩み事を抱えているときというのは、大抵の場合、経験したことのない未知の問題にぶつかっているときです。

「選択を誤った結果、自分の身に良くないことが起きたらどうしよう」という防衛本能が、不安な気持ちとなり、「考える」という行動の動機になる。
それ自体は生物としてとても自然な反応なのですが、考えることで不安が増幅して不幸になってしまったらなんだかもったいないですよね。

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結論:「答えが出せない問題もある」ことを知って、待つこと

「じゃあどうすればいいの?」という質問への僕の答えがこれです。

僕たちが悩むようなことというのは、多くの場合答えがすぐに導き出せない複雑な問題ばかりです。

「一つの問題に、一つの答え」というシンプルな構図であればいいのですが、残念ながら僕たちが直面する問題のほとんどは様々な要因が複雑に絡み合ってできたもの。「すべてうまくいく、100%の答え」は存在せず、どんな選択をしても何かを捨てなくてはならないので、みんな悩むんだと思います。

だから、「どうしたらいいと思う?」と問われたら、胸を張ってこう答えていいんだと思います。

「わからない!!」

だって、考えたってわからないんだから。

大人の発想だと、「わからない」という答えは答えになっていない、とみなされます。
きっと、「ちゃんと質問に答えろ」とか、「考えてないだけだろ」なんて言われてしまうでしょう。

でも、「わからない」だって立派な答えです。
「考えたけど、わからない」って、ちゃんと質問には答えています。

大切なのは、「”今は”考えてもわからない、答えが出せない」と思うこと。
「今は」というのがミソです。

今すぐに決断しなければならい切羽詰まった状況でない限り、大抵の問題はこうやって自然と答えが出るまで焦らず待つことも一つです。
その場で考え尽くして答えを出す、だけが選択肢だと苦しいですが、答えが出るまで待つ、という選択肢が加わるとだいぶ心が楽になるはずです。

よくよく考えてみると、本当に「今すぐ」決断しなければいけない問題なんて、実はすごく少ないと思うんです。
でも僕たちは焦ったり不安を抱えたりしているときほど、「今すぐじゃなきゃダメなんだ!」って思い込んでしまうような気がします。

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焦らなくて大丈夫。何があっても、ちゃんと生きていける。 

大きな悩み事を抱えているときほど、問題を自分の生死に関わるくらいの大きさに感じるものです。

でも実際は、どんな選択をしようと、生きていくことはできるはずです。

仮に自分の選択がマイナスの方向に働いたとしても、命まではなくなりません。
少しお金を損したって、人が離れていったって、時間が経てばちゃんと戻ってくるはずです。

だから、「ちゃんと生きていけるから大丈夫」と自分に言い聞かせましょう。

もしそこまでは思えなくても、悩み事で行き詰まったときには
「今は考えてもわからない!」
「考えるのやめた!ちょっと横に置いておく!」
という”答え”を出して、待ってみてはどうでしょうか。

僕もまだまだ実践できないことばかりですが、少しずつでも、不安にコントロールされるのではなく、不安をコントロールできるようになっていきたいと思っています。

 

何のために生きるのか

今日は抽象度の高いお話。

世の中にはありとあらゆる情報が出回っていて、色々な人が本当に色々なことを考えて生きているけど、「結局のところ、人は何のために生きるのか?」とよく思います。

誰もが一度はぶつかるであろうこのお題、今のあなたはどう答えるでしょうか。

ちなみに僕自身は、この問いに最初にぶつかったのが中学2年生の進路決めのときです。

それ以降、何度も何度も同じテーマについて考え続けていますが、齢30になってようやく、ある程度の「答えの形」が固まってきたこともあり、一度言葉にしてみたいと思います。

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答えはない。「自分がどう思うか」がすべて。

先程の問いにはきっと人の数だけ答えがあって、それらは一人一人の「あり方」や価値観に支えられているでしょう。

「幸せになるため」
「世界から貧困をなくすため」
「人の命を救うため」
「お金持ちになるため」
どんな答えでも、その答えが本人の人生をより彩り豊かに、より濃いものにしている限り、それは正解なんだと思います。

他人と自分の答えを比較する必要はないし、どんな生き方でも等しく尊いと僕は思います。
何のために生きても自由です。
どんな生き方をしても自由だと思います。

ただ、1つだけ思うことは「自分なりの答え」を持っていたほうが間違いなく、自分の人生は豊かになるということです。

人生に限らず、仕事も、プライベートも、すべての時間は「自分なりの目的や目標を持つこと」で格段に濃くなります。
仕事で言えば、他人から与えられた無味乾燥でつまらない仕事も、自分なりの意味・意義や目標を見出した時点で、有意義な楽しい仕事に変わるはずです。

 

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「何のために生きるのか」への僕なりの答え

ちなみに僕は、「何のために生きるのか」という問いに今ならこう答えます。

「沢山のものを見て、沢山のことを経験して、それらについて深く考えて、多くのことに気づき、学ぶため。言い換えると、生まれつき持っていた精神の水準より一段高い水準まで精神を高めて死んでいくため。」

死ぬときには、少なくとも形あるものをあの世に持っていくことができません。
最後に「自分の人生がよいものだった」と思えるかどうかは、自分が過ごしてきた時間の質によるでしょう。

  • 自分が本当に大切にしたいものを大切にしたか。
  • 見たいと思うものを見て、経験したいと思うものを経験したか。
  • 悔いのないくらい、自分自身や家族、人と向き合ったか。
  • 物事を深く考え、洞察し、沢山の本質を見出すことができたか。
  • 自分の死んだ後のことを考え、一つでも多く遺したいものを遺すことができたか。

こうして「死ぬ瞬間」をリアルに想像し、自分の人生を意識的に意味付けてから、僕の関心の対象は明らかに変わりました。

恋愛、結婚、趣味、仕事、ファッション、テレビ、家、車、人付き合い。
人生を形作る要素の中で、身に纏うもの、お金といった形あるもの、流行、社会を形作る情報といった形のないもの。

いずれにせよ、「時代によって価値が変わるもの」に相対的に興味がなくなっていきました。

それよりも、時代が変わっても不変の価値を持つ「どんな状況にも対処できる自分を作ること」を目的に、本当の知識や賢さを身につけることに価値を置くようになりました。

このブログのテーマを「心を自由にする」と置いたのも、心の囚われをなくし、自分と他人を自由にすることが精神性を高めることにつながると考えたからです。

このブログでも僕が直面した人付き合いの悩みや心の問題など、一見ミクロに見える問題も沢山取り扱っていますが、そのすべての根底に流れているのは「どんな状況にも対処できる、しなやかで強い自分を作りたい」という目的意識です。

 

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答えが見つからずに悩んでいる人に共有したい言葉

色々書きましたが、最初に言ったように、何に価値を感じるかも何のために生きるかも自由です。

そんな中、色々考え思考錯誤した結果、僕という一人の人間が辿り着いた結論らしきものがこれ、ということを書いてみました。

思えば、僕が真剣にこの問いと本当の意味で向き合ったのは高校生3年生のときでした。
僕はなんとなく無意味な毎日を過ごしていた18歳の秋に、最愛の親友を亡くしました。

人生に目標を持ち、目的を見出そうとしていた親友が死に、何も考えずに無為に生きている自分が生き残る。

そんな現実に直面したときから、僕はずっとこの記事のタイトルと向き合っています。
考え始めた出発点は自分が生き残ってしまった罪悪感でしたが、いつしか、人生の意味を考えることで自分自身の人生が濃密になり始めました。

きっとこれからも、その友達の死を無駄にしないために、自分の人生をより有意義なものにするために向き合い続けていく問いなんだと思います。

最後に、中学2年生のとき、進路に悩み人生の目的が見出せずに苦しんでいた僕に、その友達がかけてくれた言葉を共有したいと思います。 

「"何のために生きるのか" を考えて、逃げずに向き合っているお前は本当にすごいと思うよ。

周りを見て見なよ。みんな、そんな深い問いにぶつかることなく、なんとなく目の前の好き嫌いで自分の人生を決めてるんだよ。

そんな中、こんなに大切な問いに真剣に悩んでるお前の姿勢は本当に尊いと思う。

その問いに対する答えは俺自身もわからないし、いいことは言えないけど、今のお前が素晴らしいってことだけは忘れないでいてほしい。」

 

ここでも、何より尊いのは「自分の人生にどう向き合っているか」という"あり方"だと、僕は思います。

全身の力を、意識的に抜いてみる

今日は短めのお話。

日常生活で、無意識のうちに体に力が入ってることってありませんか?

少なくとも僕は、特に仕事中などは全身に力が入っています。
きっと多くの人はそうなんじゃないかと思います。

情報に敏感にアンテナを立てて、常に情報処理モードで頭が思考している状態は、一種の緊張状態です。

呼吸が浅くなり、思考に影響を与えやすい視覚・聴覚が過敏に働いている現代人の状態は、原始の時代に外敵から身を守ろうと緊張状態に置かれていた人間に近いものを感じます。

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最近つくづく感じるのですが、この「自己防衛」とも言える緊張状態、ものすごく疲れるなあと。

特に、すぐ身近に攻撃的で苦手なタイプの人がいたりすると、この緊張状態は強くなり、時間が経つほど消耗も激しくなります。

仕事中に限らず、ネットやTV、スマホを通じて絶えず情報に触れ続けている現代人はきっと、無自覚なだけで、四六時中緊張状態にあるのではないかと思います。


意識的に、緊張状態を解く

そんな緊張状態から来るストレスを解消する方法を、最近見つけました。

シンプルですが、「呼吸に合わせて、意識的に全身の力を抜いてみる」という方法です。

僕はこれを、
・寝る前
・シャワーを浴びているとき
・食事中
などにやっています。

やってみて感じたのは、
①何もしていないときでも、体は無意識に緊張していること
②思考を回しているときほど、体に力が入っていること
③意識して力を抜くと、それだけで休まる感覚があること
の3つです。

特に③はその効果に驚きました。
おかげで、寝る前に実践すると驚くほど寝付きがよくなります。
体と心はやっぱりつながっていて、こうして体を先に緩めることで、自然と心もリラックスできるんですね。

また別の記事で書こうと思いますが、この方法は「自律訓練法」という、自律神経の働きを回復させるトレーニングとも通じるところがあるそうです。

簡単な方法ですが、効果は絶大なのでぜひ試してみてください。

「ストレス対処法」の全体像を整理してみた

今日はストレス対処法のお話です。

過度なストレスは体や心を蝕みます。

昔は僕も「ストレスなんて目に見えないんだから、溜めても問題ないだろう」なんて考えていましたが、実際に心身を病んでみて初めてその怖さに気づきました。

じゃあ、ストレスが体や心を蝕ばないように何ができるんだろう?

という根本的な問いから、今日は考えてみたいと思います。

 
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問題は、ストレスが許容量を超えること

出発点として考えてみたいのが、
どうなるとストレスが体や心を蝕んでしまうのか?
という問いです。

誰でも皆、ある程度はストレスが溜まっても目に見える影響はなく日常生活を送ることができます。
ストレスゼロで生きている人なんて、いないでしょう。

なので問題は、「ストレスが許容量を超えること」なんだと思います。

器からストレスがあふれると、自分か他人の両方を傷つけてしまいます。
ある人は、体調が悪くなったり気持ちが落ち込んで抑うつ状態になり、
またある人は、他人を攻撃することで自分の身を守ろうとします。
サラッと書いていますが、これが現実のものになると非常にしんどい。。

とすると、問題は「いかにストレスが自分の器を溢れないようにするか」ということになります。

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ストレスの溜まりやすさに関する3つの「個人差」

この問いを考える上で、ポイントが3つあります。

それは
・「ストレスの許容量(=ストレスをを溜められる器の大きさ)」は人によって違う
・「何をストレスと感じるか」も人によって違う
・「ストレスの感じやすさ」も、人によって違う
ということです。

同じ環境に置かれてもストレスで倒れてしまう人もいれば平気な人もいるのは、この個人差があるからです。

ストレスが許容量を超えてしまいやすい人は、幅広い刺激に対してストレスを感じやすく、またストレスを感じる度合いも強く、感じたストレスを溜めておく容量も少ない、ということになります。

このポイントから、ある一時点におけるストレスの総量は、以下の式で表すことができます。

ストレスの総量
= ストレッサー(ストレスのもととなる刺激)の量・質・・・①
✕ ストレスの感じやすさ係数・・・②
- ストレス解消による軽減分・・・③

これを言葉で表すと、
・ストレッサー(刺激)の多い環境にいて、
・ストレスを感じやすく、
・ストレス発散がうまくできていない
人ほど、ストレス総量は大きくなり、ストレスが許容量を超えやすいと言えます。

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ストレスが許容量を超えないようにするには3つの方法がある

この式から、ストレス総量を減らし、ストレスが許容量を超えないようにする方法は3つあることがわかります。
(下記の①~③は、式の中の番号に対応しています。)

①ストレッサー(刺激)を減らす

まずは ストレッサー(刺激)を減らすことです。

以前の記事にも書いたように、僕たちは高度情報化社会を生き、四六時中情報に触れています。
人間は無意識のうちに「身の危険につながる情報はないか?」とアンテナを立てているので、情報それ自体がストレッサーになっています。

なので、「ストレッサーを減らす」方法の一つとして、この記事に書いたように「音や情報(TV、スマホ…)を シャットアウトする」という手段があるわけです。

yudaism.hatenablog.com

 

②ストレスを感じにくくする

 これは、人によって生まれ持ったものもあり、難易度の高いアプローチではあります。
ですが、後天的に考え方や物事の捉え方を変えることで、同じ刺激に対して感じるストレスを減らすことはできます。

時間軸を延ばして考える、目標を持つ…など色々な方法がありますが、詳細は別記事で随時アップしていきたいと思います。

個人的には、自分自身試行錯誤した中でかなり効果を感じる、画期的なアプローチだと思っています。

 

③溜まったストレスを解消する

 これは説明不要だと思います。
よくいう、「ストレス発散法」や「ストレス解消法」は、このアプローチのことを指しています。

ここでも、「何によってストレスが解消できるのか」は人によって違います。
同じ方法でも、ストレスが解消できる度合いには個人差があるので、自分に合ったストレス解消法を見つけることが大切です。

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まとめ

今日は、「ストレス対処法には」実は3つのアプローチがある、ということを書きました。
「ストレス対処」というとついストレスを解消することばかり考えがちですが、「そもそも溜めにくくする」というアプローチの重要性を共有したくてこの記事を書きました。

3つのアプローチそれぞれの詳細な方法のうち、汎用性の高そうなものは随時記事にしていきたいと思います。

また、記事を読む前に概要を掴んだり、後から検索しやすくするために、ストレス対処法のカテゴリーもさらに3つに分けました。
3つのアプローチに対応したカテゴリー分けをしたので、引き続き読んでいただけるとうれしいです。

「ココロを自由にする」とは何か?を構造的に整理してみた

このブログを書き始めてから、ずーっとモヤモヤしていることがあります。

それは記事のカテゴリー分けです。

気づいている方がいたらとても嬉しいが、ちょこちょこ変えては、しっくり来なくてまた変える、ということを繰り返して今に至ります。。

思えば、ブログのタイトルはパッと直感的に決めてしまったので、
”どうすればココロを自由にできるか”を一生懸命考えてみたものの、
”ココロを自由にするってそもそもどういうことか”をちゃんと考えたことはありませんでした。

ということで、今日は「ココロを自由にする」を構造的に整理してみたいと思います。
(これできっとカテゴリー分けもスッキリするはず・・)

 

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まず、「心が不自由な状態」を定義してみる

思い返せば、「ココロを自由にする」という表現を思いついたのは、自分の心に不自由さを感じていて苦しんでいたからでした。

では、「心が不自由な状態」とは何か。

ズバリ、「思い通りに人生が進まず、ストレスを抱えている状態」と言えるんじゃないかと思います。

これは言い換えると、心のどこかに不安・悩み・恐怖・苛立ち・恨みなどのネガティブ感情があることを意味します。

こうした感情が生まれる原因を辿っていくと、
-人間関係のストレス
-仕事のストレス
-お金のストレス
-それ以外のストレス
などがあるでしょう。

ネガティブな感情が心に渦巻いている状態は、意識が「今」にない状態を生みます。
過去に起きた出来事を思い出して悩んだり、未来のことを心配したり。

そうして脳がネガティブな感情を感じ、「今」から心が離れていくほど、目の前でどんなに素晴らしい起きようともそれを味わうことができなくなってしまいます。
脳は、外部の危険から身を守るためにネガティブな感情を意識することを最優先にするからです。

言ってみれば、ネガティブな感情が簡単にはなくならないのは、生物として自分の生命を守るための当然の反応なのですが、ネガティブな感情が肥大化しすぎて、生きていても不安ばかりでは悲しすぎると僕は思います。

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「心をどういう状態にしたいか」は、自分で自由に決められる

社会に生きている以上、僕たちは常に外部からの刺激にさらされます。

仕事でのストレス、環境の変化、ライフイベントなど、自分が望まなくても次々に起きる出来事に、対処していかなければいけません。

しかし、そうした出来事を前にネガティブな感情が発生するかどうか、どれくらいの度合いのネガティブな感情が生まれるかは、自分自身で選ぶことができます。

ある意味、ネガティブな感情を全開にして、人に愚痴をこぼし、人を恨む生き方も一つだとは思います。そういう生き方も、脳の中には一種の快楽ホルモンが分泌され、心地よい側面があるからです。

一方で、僕は次のような生き方を目指したいと思っています。

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「心を自由にする」という生き方

 それは、「何が起きても脳が安心している状態を保って生きていくこと」です。

言い換えれば、「どんなことがあってもネガティブな感情に支配されず、安心感を持って生きることができる自分を作る」という生き方です。

安心感を感じることができると、意識は過去や未来に持って行かれません。
「今、この瞬間」に100%集中することができます。

食事は一段と味が濃く、美味しく感じられ、
いつも吸っている空気は一層澄んでいて、吸い込むたびに体にエネルギーが満ちるような気がして、
美しい風景はより美しく見え、自分の心に刻み込まれるようなものになります。

こうして目の前にある素晴らしいものを100%味わえるようになることが、僕は一つの「豊かな人生」ではないかと思います。

そしてこの状態を実現するために必要なのが、考え方を変えること。
すなわち、意識を磨くことです。

そうすることで外部からどんな刺激を受けてもネガティブな感情を抱きにくい自分を作り、「外部環境に左右されない、しなやかな安定感を作りたい」というのが僕の目指している生き方です。

さらに付け加えるなら、その先にある、「脳よりももっと深い、魂レベルで満たされるような"快”の状態」も沢山味わって生涯を終えたいと思っています。

「ネガティブな感情をなくす」「常に安心感を持って生きる」だけではマイナスをプラスマイナスゼロにしただけ。
その先に、プラスを沢山感じながら時間を重ねていくことが出来たら、人生はより豊かで充実した物になるのではないか。そんな気がしています。

まとめると、「心を自由にする」とは
・何が起きても心(≒脳)が安心している状態を保って生きていくこと
・その先の、魂レベルで喜びを感じるような時間を味わうこと
という2つではないかと、僕は考えています。

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では、どうやって「心の自由」を手に入れるのか?

では、「心の自由」を手に入れるためにどうすればいいのか。
具体的な考え方の変え方、意識の磨き方を以下に大別してみました。
この分類をそのまま、このブログのカテゴリー分けに適用してみようと思います。

〈①"脳が安心した状態"を作るための4つの各論+2つの総論〉

  1. 人間関係から自由になる
  2. 仕事から自由になる
  3. お金から自由になる
  4. 自信の無さから自由になる
  5. ストレスから自由になる
  6. 心の囚われから自由になる
  7. 自分の軸をつくる

1~4は、僕たちの中にネガティブな感情を生みやすい4つの刺激です。
この4つの悩みから解放されるだけでも、大半の苦しみから離れることができそうです。
ここに分類できない意識の磨き方を、5~7に分けて記事にしていきます。

〈②"魂レベルで喜びを感じる状態"を作るための3つのアプローチ〉

  1. 感情を解放する
  2. 自分を知る
  3. 心が喜ぶことをする

「魂レベルで喜びを感じる」の前提となるのは、自分自身を100%表現することです。
感情というエネルギーが自分の内部に溜めず、外に発散して、エネルギーがきちんと循環する状態を作るのが第一歩だと思います。

その次に、自分自身を知ることです。
自分は何が好きなのか、どういうときに楽しいと感じるのか、心満たされるのか、何が得意で、何が不得意なのか。
などなど、様々な経験を積み重ねながら本来の自分を取り戻していく作業です。

これが進むと、次第に「心が喜ぶこと」が自然とわかり、実践できる段階が訪れるような気がしています。

作家・写真家の星野道夫さんが、慶應義塾大学在学中に見た一枚のアラスカの写真に心奪われ、やがて人生の大半をアラスカで過ごすことになったのは、まさに自分の「心が喜ぶこと」を知っていたからではないでしょうか。

 

まとめ

というわけで、概ねこのような7+3=10個のカテゴリーを中心に記事を書き溜めていきたいと思います。

とはいえ、「ココロを自由にする方法」以外のことを書きたいときもあるので、
・最近読んだ本
・休職経験の振り返り
・人を育てるための関わり方
・徒然(ノンジャンル)
などなど、他のジャンルも随時書いていきます。

貴重な時間を使って読んでいただいている方にも、
少しでも楽しんでもらえる記事を目指していきたいと思います。

 

「休職」に関する素朴な疑問に答えてみる①:そもそも、なぜ働けなくなるのか?

今週も一週間終わりました。(お疲れ様でした)

3度目の復帰でも、数ヶ月ぶりの仕事は信じられないくらい疲れます。

この疲れ度合いは第三者から想像しづらい部分だと思いますが、これまで働き続けて来られた人にとって、そもそも「働けなくなる」という状態自体が想像しづらい気がします。

聞きたいけど、聞けない。
今日はそんな「休職」に関する素朴な疑問に、僕の経験から答えてみたいと思います。
(残念ですが僕は専門家ではないので、サンプル数=1の経験者の考えだと思ってください)

このテーマは、5回に分けて書いていきます。
今日は第一回、「疑問①:そもそも、なぜ働けなくなるのか?」です。

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疑問①:そもそも、なぜ働けなくなるのか?(←今回)
疑問②:「病気以外の休職=うつ病」なのか?
疑問③:休職中の人は、毎日何をして過ごしているのか?
疑問④:精神的要因から来る休職の場合、治療方法にはどんなものがあるのか?
疑問⑤:休職明けの人に、休職期間中のことは聞かないほうがいいのか?
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今年6月に撮ったバラと空

 

まず、「働けなくなるに相当する理由がある」ということ

 「会社に来れなくなる、ってそもそもどういうこと?」
と、誰もが一度は思うのではないでしょうか。

多少のことならば、皆無理してでも仕事に行きますよね。
「多少のこと」でないから仕事に行けないわけですが、この中身が気になると思います。

僕の場合ですが、1~3回目の休職で、それぞれ働けなくなった理由は異なります。

1回目の休職:働きすぎで体を壊す

 1回目の休職の際は、「過度な長時間労働によって体調を崩した」ことが一番大きな原因でした。

7時に出社して1時過ぎに帰る、土日も仕事、という仕事を数ヶ月続けたことが僕には無理だったようで、2ヶ月を過ぎた頃から毎日微熱を出しながら仕事に行っていました。

その状態がしばらく続くと、他の症状が上乗せされてきました。
・食欲不振
・不眠(寝付きが悪くなり、寝ても朝までに何度も目が覚める)
・嘔吐・吐き気
・疲労による?全身の痛み
などです。

ある日、これらの症状が全部重なり、あまりの具合の悪さにベッドから起き上がれなくなった日がありました。

そこから先は、無理をするだけこれらの症状が重くなり、最終的には物理的に会社に行けない(というか、起き上がることすら難しい)状態が訪れました。
無理ができないくらい体が悲鳴を上げました。

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2回目の休職:転職先の慣れない仕事に、自責100%の心の癖。心理的ストレスでパンクする。

2回目の休職は、1回目の休職の際所属していた会社をあまりの激務で退職し、転職してから3ヶ月後です。

当時、転職したばかりの僕は「こんな自分を受け入れてくれた会社だから、きちんと仕事で恩返しをしなければ」と気負っていました。

転職先が僕を含めて3人のベンチャー企業だったこともあり、不慣れな仕事に大きな責任を負って、期待に応えようと心理的なストレスを溜めすぎてしまいます。

完璧に期待に応えなくては、と最大限努力をしたものの100点満点が取れない。
そんな現実を前に、自分で自分を許すことができず、「こんな自分では組織に必要とされなくなってしまう」などという不安で死にそうでした。
お察しの通り考え方の癖が出まくってます。。

また、この頃は、心理的なストレスでパンクすると、体の不調となって跳ね返ってくる」というパターンができてしまっていました。(以前の記事にも書いたとおりです)

そして、結果、1回目の休職の際とまったく同じような体調不良に陥りました。
「会社に行かなければ」と思いながら、無理をしても体が言うことを聞かない状態。
そして、「会社に行かなければ」と思いながら、一方で「会社に行きたくない」とも思っている自己矛盾の状態は、非常につらいものがありました。

yudaism.hatenablog.com


振り返ると、外部環境がハードだったというよりは、自分自身の思考の癖によって過度にストレスを溜め、勝手にパンクしてしまった、というのが率直な感想です。


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3回目の休職:理不尽な外部環境に、他責100%の心の癖。これまた心理的ストレスでパンクする。

3度目の休職は、少し過去2回と毛色が異なります。

それまでは、仕事上の問題の原因を100%自分にあると考え、自分を責めては完璧な自分になろうと無理をしてパンクするパターンでした。

しかし今回は、そんな僕でも「今回はさすがに会社がおかしい」と思うような理不尽な環境に追い込まれていました。
詳しくは書けませんが、身の回りの友達、家族、前職の先輩、10人に聞いたら10人が「それは会社がおかしい。辞めたほうがいい」と口を揃えるようなブラックな状態でした。

加えて、当時上司から心が折れるような毎日言葉を浴びせられており、ある日、決定的な暴言を吐かれます。
それをうまく受け流せなかった僕はまたしてもパンク。
ストレスは一定の体調不良と、転職活動へのエネルギーになって返ってきました。

当時は、相変わらずの体調不良もさることながら、気持ちの面では「あんな会社は絶対に間違っている。自分は正しい。だから、会社に行く必要はない。」と思っていました。

でも結局、相手(会社)が変わらない以上、この考えを持っている限りは仕事に復帰できないんですよね。。
どちらが正しいとか、間違っているとかは置いておいて、この他責的な考えを手放せなければ自分がストレスを感じ続けることは間違いありません。


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そして復職した今、思うこと

結果的には、数ヶ月悩み抜き、転職の判断は先送りにし、もう一度同じ職場に戻ることを決意しました。(詳細は機会があればまた書きます)

そんな今思うのは、3つのこと。

一つ目は、休職の原因を一つに特定するのは難しいということ。
色々な要因が複雑に絡み合っていて、これ!と決めるのは非常に難しい。

もし「なんで休職しちゃったの?」と問われたら、
「うーん、いろいろありすぎてわからない」と答えるのが正解な気がします。

今回は、話をわかりやすくするために究極にシンプル化してみましたが、本当はここには書ききれない様々な要素があったと思います。

二つ目は、どんな場合でも休職の原因が100%自分にあるとか、100%外部環境にあるとかいうことはなく、50:50からそれほど離れていないバランスで、自分と外部環境の両方に原因があるということ。

これは、3度の休職を通じてしみじみと実感します。
どちらかが100%悪ければ、そこを取り除くのは簡単ですよね。
でも現実はそうではないから、みんな苦しむし、僕のように休職を繰り返す人がいるのだと思います。

最後に、僕のような心理的な要因が絡む休職の場合、「考え方や認知の癖が強いと、環境に過度にストレスを感じる」ということ。
そして、「人によってはそのストレスが生活もままならないほどの体調不良を引き起こしてしまう」ということです。

同じ環境下でも、考え方や認知の偏りが少なければ感じるストレスは少なくて済みますし、
仮に休職してしまう人と同じくらいストレスを溜めた人でも、それが体調不良以外の方向に現れる(例えば他者を攻撃する等)ことで、物理的には働き続けられる人もいます。

そこには、人の数だけ多様性があるように思います。

なので、僕の体験を普遍化するつもりはありませんし、あくまで1つのサンプルとして考えてください。

このシリーズの次回は、
疑問②:「病気以外の休職=うつ病」なのか?
です。

おそらく間に別の記事を差し挟むと思いますが、5回シリーズは書き切りたいと思っています。 

3度目の社会からのリタイア。でもまた復活しました。

またしても久しぶりの更新。

実はまた心身のバランスを崩して仕事を休んでいました。
休職は今回で3回目。
復職するたびに、「今度こそもう大丈夫!もう休職しない!」と思うけど、その気持ちが先走ってる感が逆に危ういな…と今では思います。

9月からまた復職しましたが、またいつ心か体の電源が切れるかわからない、くらいに思いながら、無理のないペースで日々を積み重ねて行こうと思うこの頃。

今日はこれと言ったテーマではなく、ちょっと今思っていることを書いてみます。

 

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休職は、ネガティブなことばかりではない

今回のリタイアも会社で心理的ストレスを溜めすぎたことが原因でしたが、
フラットに見て当時非常に理不尽な状況に置かれており、一方的に傷つけられ、「こんな会社でやっていられるか!!」と堪忍袋の緒が切れたのが始まりでした。

我慢の限界が訪れて、6月あたりは仕事を休んで転職活動に精を出していました。

でも、待っていたのは厳しい現実。
複数の転職エージェントは口を揃えて、「休職経験のある人は書類選考で落ちる可能性がとても高い」、「特に休職したまま転職活動をするのは見え方がよくない」などと言うわけです。

まあ採用する企業側の立場からすれば、当然気持ちはわかるんだけど…

こうやって、社会的に見れば「社会に適合できない人」のイメージが強い休職という経験。でも、僕は自分の経験を通して、「休職の経験はネガティブなことばかりではない」と心底思っています。

なぜか。

仕事に行けなくなるまで追い詰められて初めてわかること、初めて学べることが沢山あるからです。

僕の場合、学べたことは

  • 自分の考え方の癖や偏り
  • 自分の性格のどの部分が、どのように問題か
  • その性格が形成された背景
  • 心を楽にする考え方
  • 自分に合うストレス対処法
  • 同じ仕事環境に戻ったときの、人や仕事への対処の仕方

などなど…書き出したらキリがないくらいです。

中には向き合うのが辛いものも沢山あったけど、「向き合って、乗り越えなければ社会に適応できない」という状況になったからこそ、向き合い切ることができたような気がしています。

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失敗したっていい。人生の価値は、「何を学んで死んでいくか」次第。

体調を崩して、働けなくなって、
働いているはずの平日の昼間、
外に出れば、自分とは違ってきちんと働いてお金を得て自活している人がいる。

かたや自分は…と考えては自信を失った日々も相当長かったですし、
一生懸命守ってきたピカピカの経歴に、「休職」という傷が何度もついてしまったような気がして、将来が不安になったときもありました。

それでも今思うのは、こんな経験をできてよかったなあ、ということ。

たぶん自分くらい辛い思いをしている人は少数派だし、その経験の中でしか考えなかったこと、感じなかったこと、気づけなかったことがたくさんあるはず。

同級生には、順調に出世して、結婚して、家を買って、僕よりもライフステージを何段も早く駆け上っている人も多いけど、

お金や家や地位みたいな目に見えるものは、あの世に持っていけない。
最後に人生に充実感をもたらすのは、「たくさんのものを見て、たくさんのことを考えて、気づいて、一生懸命成長した」という実感なんじゃないかと思います。

ただ、これは、あくまで僕の価値観です。
その価値観に基づけば、今のところいい人生を歩んでいるなあ…と、やっと思えるようになってきました、というお話。


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今後の更新予定 

書きたいテーマは山ほど溜まっているのですが、
今の僕の中での優先順位は「毎日仕事に行くこと」「心身の健康を保つこと」なので、それを保てる範囲で更新していこうと思っています。

「このブログについて」のカテゴリにある記事では色々暑苦しいことを書いていますが、
日々を通して気づいた、なんだかフッと心が楽になる考え方のヒントみたいなものを気楽に書き溜めていくつもりです。

今日はこのへんでおしまい。
ではでは。

 

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