小田急線の駅員さんから学んだ、「人と人のコミュニケーション」
昨日0時過ぎの終電で最寄駅に着いたときのこと。
ややこしい乗り継ぎをして窓口でSuicaの処理をしてもらうとき、笑顔で対応してくれた駅員さん(30代前半くらいの若い男性)にふとこんな疑問を持って、その場でぶつけてみた。
「この時間まで勤務したときはどうやって家に帰るんですか?」
すると、駅員さんからこんな答えが返ってきた。
「終電まで駅にいるときは、そのまま泊まりなんですよ。
ちゃんと奥にベッドがあって泊まれるようになっているので、朝までそこで仮眠します。
泊まりの日は基本的に24時間勤務なんです。
ここに表札を置いてもいいくらいですね(笑)」
小田急線だけなのかはわからないけど、終電まで勤務した駅員さんが泊まりだとは知らず、思わず僕はこう言った。
「泊まりなんですか…!大変ですね。いつもありがとうございます。
すみませんでした、変なこと聞いちゃって。」
すると駅員さん。
「そんなことないですよ(照れくさそうにニコニコ)
おやすみなさい」
最後の「おやすみなさい」で、じんわり心が温まって昨日は家路につくことができた。
言葉で表現するのは難しいけど、とにかく優しさのあふれる駅員さんだった。
小田急線の駅員さんとのやり取りから感じたこと
このやり取りで、僕は2つのことを感じた。
①僕たちは日々、誰かの仕事によって支えられている
一つは、僕たちが普段何気なく利用しているサービスは、すべて人の仕事によって支えられていること。
朝食に食べるパンには作り手がいて、通勤電車は電鉄会社の人々によって支えられ、昼食を提供してくれる飲食店があって、家路につく途中に立ち寄るスーパーやコンビニには店員さんだけでなく、仕入れ担当者や製造者が関わっている。
僕たちはそうした関係者と直接顔を合わせたり会話したりする機会がないだけで、そのサービスが当たり前に提供されるものだと思ってしまうけど、
「0時を過ぎても電車で家に帰ること」を可能にしてくれているのは、人だった。
その人自身が家に帰れない代わりに、僕が家に帰ることができているのだと思うと、自然と感謝の気持ちが湧いてきた。
②仕事を「無味乾燥なもの」から「血の通ったもの」にすることの大切さ
もう一つは、仕事を「無味乾燥なもの」から「血の通ったもの」にすることの大切さ。
昨日は普段会話することのない「駅員さん」という存在が、乗車サービス以外の会話をすることで何かこう、生き生きとした「ヒト」に感じられた経験だった。
コンビニやスーパーの店員さん然り、
僕たちは日頃何かのサービスを受けたり提供したりするとき、「そのサービスの提供者と受益者」という関係性を超えてコミュニケーションをとることは少ない。
それは当たり前なのかもしれないけど、無味乾燥なやり取り(コンビニ店員さんで言えば、レジを通して合計金額を伝え、お金を受け取ってお釣りと商品を渡すだけのやり取り)だけで無難に事が終わってしまったとき、僕はちょっとした寂しさを覚える。
人が目の前に「いる」はずなのに、何かロボットとやり取りしたかのような無機質さ。無味乾燥さ。少なくともそのやり取りで心が温まることはない。
それが、昨日みたいに自分から駅員さんに話しかけるだけで「サービスの提供者と受益者」の関係から「人と人」の関係に変わり、「人と人」としてお互いの思ったこと・感じたことを率直に伝え合ったことで、そこに本当のコミュニケーションが成立した気がした。
でも、僕が駅員さん話しかけることができたのは、彼がとてもにこやかに対応してくれたからだ。「Suicaの処理」という無味乾燥になりがちな仕事を、彼は気持ちのいい笑顔と誠実さで快く引き受けてくれた。
だからこそ、僕もその場で気になった疑問を投げかけてみよう、きっと話しかければ気持ちよく会話に応じてくれるだろう、と思ったのだと思う。
まとめ
どんな仕事に就いてでも、作業的な業務になるとどうしてもやり取りが無味乾燥で、無機質なものになりがち。
コンビニのレジ対応、飲食店での注文取りや配膳など、BtoCのビジネスだけでなく、
オフィスワーカーの社内でのやり取り、法人顧客とのやり取りでも、
無味乾燥なやり取りに偏ってしまう場面は多い。
僕の感覚でしかないけど、大企業で働いている人は特に心で感じたことを表現しない人が多いし、そもそも「心が感じていること」を自覚しているのかどうかも怪しいような気がする。
でも、きっとコミュニケーションはお互いが率直に感じたことを言葉にし合って、お互いの世界を交換することで初めて成立するんだと思う。
そういった対話には、有機的で人間らしい温度がある。
そしてその温度によって初めて、人の心の深いところが満たされうるような気がする。
僕は一駅員さんの対応を見て、自分自身も「機械的な仕事ロボット」になっていると客観視できたときは「人間」に戻れるよう意識したいと思った。
「人間」に戻って、感じたことをきちんと感じて、なるべくそれを言葉にして相手に伝える。
時と場合によってそれができないとき、やらないほうがいいときがあるのも現実だけど、その我慢の度合が自分の限界を超えるようなら、その仕事を続けることはきっと難しいんだろうと思う。
ビジネスマン、企業人、仕事人である前にまずは人間をやること。
自分自身もよく忘れそうになるので、今日は改めてその大切さを書いてみました。
体を鍛えることで、人にもやさしくなれる
今日はライトめのお話。
以前の記事で、「体は心の住み家であり、心を健康に保つためにも体を鍛えると良い」ということを書いた。
今日は、それに付随した一つの気づきのお話。
(道端の畑に大量のさやえんどうが…↑)
人にやさしくするために必要なモノ
「自分にも、人にもやさしくありたい」と日々思っていても、心理的距離の近い人には特に、ついつい厳しく当たってしまうときがある。
そんなとき、僕たちに不足しているモノの一つは「心の余裕」だと思う。
やっぱり、自分の気持ちに余裕がなければ、人にやさしくすることは難しい。
では、自分の気持ちの余裕はどうすれば生まれるのか?
そもそもなぜ、自分の気持ちに余裕がなくなるんだろうか?
そんな問いを立てたとき、僕の中に「自分の体の調子が良くないからだ」という一つの答えが浮かんだ。
もちろん他にも色々な答えがあると思うけど、一見無関係な「体の調子」が「心の調子」に影響を与え、人にやさしくできなくなっていることがあるんじゃないだろうか。
平たく言えば、病気でめちゃくちゃ体調が悪いときに人にやさしくするのは難しいよね、ということでしかないんだけども。
体調が悪いときに、人にやさしく接しろと言うのはなんとも酷な気がする。
(逆に言うと、誰かからきつく当たられたとき、その人はもしかしたら体調が悪いのかもしれない)
体を鍛えることは、自分のためにも人のためにもなる
ということは、体力と免疫力があり、体調が常に安定していれば、体の不調が原因で気持ちが落ち込んだりすることはないはず。
気持ちが体に悪影響を受けない分、受けていたときと比べると心理的安定を保てる可能性も高いと思う。
僕自身はわりと思考偏重タイプで、体を動かしたり鍛えることを軽視しているところがあるので偉そうなことは言えないけど…
体を鍛えることは、自分自身の心身の健康だけでなく、人にやさしくできる(結果、人と良好な関係を保つ)ことにもつながるんじゃないかと思う。
だとすると、体を鍛えることはまさに一石二鳥。
以前、別の記事で「意識を内と外にバランスよく向けることが大切」と書いたけど、心と体も、どちらかに偏ることなくバランスよく使っていくことが大切なんだろうな。
体を鍛えることのもう一つのメリット
さらに、体を鍛えることのメリットをもう一つ。
月並みかもしれないけど、僕の担当カウンセラーによると「怒りの感情は、自責的な(自分自身に向く)ものにしても、他責的(他人や環境など、外に向く)ものにしても、運動などで体を動かすことである程度発散できる」ということ。
僕は、怒りなどのネガティブな感情を発散する方法として、「自分のネガティブな感情とトコトン向き合って、沢山考えて、物事の意味付けをしたり解釈を変えたりしながらネガティブな感情が湧いてこなくなるまで消化を試みる」というプログラムしか持っていなかったのだけど、「体を動かす」という一見関係のないアプローチで一定ストレスの発散になることを学んだ。
少し話が広がるけど、会社組織の上司が部下のタイプに応じてあらゆるマネジメント手法の引き出しを持つ(この部下は懇切丁寧に指導しながら褒めて伸ばそう、この部下はある程度放置して仕事を任せよう…等)と強いのと同じように、ストレス解消法も、自分のストレスの種類や度合いによってたくさんの引き出しをもっておくと強いと思う。
と書きつつ、「体を動かしてネガティブ感情を減らす」はまだ実践していない…。
なので、実践した結果はまた改めて、違う形でまとめて記事にしたいと思います。
身近な人にほど多くを求めてしまうという問題
以前の記事で、「人間の心の成長には3つのステップがある」ということを書いた。
その1ステップ目、「人と自分に"同一性"や"同質性"を求める段階」について、最近「自分と心理的距離の近い身近な人ほど自分との違いを認め、受け入れるのが難しい(≒同質性を求めがち)」ということに改めて気がついた。
今日はこのテーマについて問題点を整理をしたうえで、身近な人に過度に同質性を求めないために
- 身近な人に関わるうえで何に注意するか
- 自分自身の心をどう変えるか
という2つの視点から対処法を考えてみたい。
身近な人に同質性を求めることで起きる問題
最近あった出来事
「身近な人にほど同質性を求めがち」というのは、家族との関係を思い浮かべれば「確かにそうだよね〜」とすぐ理解できる話かもしれないけど、友人などでも同じことが起きることを最近体感する出来事があった。
親しい友人とお茶をしながらお互いの恋愛観・結婚観について話していたときのこと。
テーマは「恋人と結婚相手、それぞれにどこまで自分との共通点を求めるか」という話で、僕が相手に求める基準が彼よりも高くて、考え方がすり合わなかった。
その友人と僕は元々性格があまり似ていないこともあって、ある程度考え方の違いは予測していたものの、会話が進んで恋愛観・結婚観の違いが明確になってくるほどストレスを感じている自分がいた。
きっとそれは僕の態度に出ていて彼にもストレスを与えていたと思うし、その結果会話も散漫になってしまった気がする。
僕がストレスを感じていたポイントはきっと、「自分の考えや価値観に共感してもらえなかったこと」なんだと思う。
他の友人や、もう少し心理的距離の遠い相手であればそれをストレスに感じなかったんだろうし、こちらも「あなたはそう思うんだね。俺たちは違うね。」と相手の考えを認められたような気がする。
でも、10年以上の付き合いになる親しい友人だからこそ、自分の考えに共感してもらえないことが寂しく、自分の考えの正しさを主張して相手の考えをこちらに合わせるように会話を展開してしまった。
多くを求めすぎることは、相手との関係性を冷やす
自分と共通点の多い人や、他の人よりも人一倍対話を積み重ねてきた人は、そうでない人と比べて、話していて自分の考えに共感し自分を受容してもらえたような安心感を与えてくれる。
そうして「あれも共感できる」「これも共感できる」と共感ポイントが増えていくと、相手に求めるものは次第にエスカレートし、相手が共感してくれないことがあると「どうしてわかってくれないの?」と悲しくなったり、相手が自分の期待通りに動いてくれないと「どうして気持ちを察してくれないの!?」と腹を立ててしまったりする。
(結婚相手や恋人なんかは特に、こういうことが起こりやすい気がする)
どんなに分かり合えそうな気がしても、最後まで別々の人間である以上、共感しあえないことがあるのは仕方がない。
その事実を受け入れずに相手に求めすぎることは、相手を尊重していないことそのもの。
相手を尊重しなければ、自分だけが一方的に尊重され続けることは難しい。
こうして、自分起点で相手との関係性を冷やす例は身近に沢山ある。
度合いの差はあれ、きっと多くの人が経験したことがあるんじゃないだろうか。
対処法①:心理的距離が近い相手こそ、自分との違いを意識する
先に挙げた過去記事のステップ2、「人と自分の"多様性"や"違い"を知り、受け入れようとする段階」は、こうした心理的距離の近い相手にこそ意識的にやらなければいけないと(自戒を込めて)思う。
僕自身、先の経験を踏まえて身近な人ほど
- まず、自分が相手に共感を求めすぎて腹を立てているときを自覚する
- 何かの議論になったら、「両者が合意できる一つの結論にたどり着くこと」や「相手に自分と同じ考えを持ってもらうこと」をゴールにしてしまっていないかを自問する
- 相手の考えを、自分の考えとの共通点・相違点を意識しながら理解しようとする
の3点を意識して関わっていきたい。
実際に、先に挙げた友人とのやり取りでも途中から「あなたはそう思うんだね。僕とあなたはココが違うね。」とお互いの違いを明確にして、認めようと心がけたことで議論は穏やかに収束した。(と僕は思っている、、)
対処法②:一番の原因は、自分の心の中にあると知る
と、ここまで「自分視点で、心理的に距離の近い相手とどう関わるか」を中心に話をしてきたんだけど、
実のところ、身近な人に多くを求めてしまう一番の原因は、自分自身の心の満たされなさにあるんだと思う。
自分の考えを自分自身が認め、受け入れられているか?
もしそうであれば、他人の共感や承認などなくても、心の平穏は乱されないんじゃないか。
自分の考えにどこか自信がなかったり不安があったりして、そうした気持ちを他者に埋めてもらおうとする弱さを、少なくとも僕は僕自身の中に感じた。
その一つの証拠に、先の友人は「自分の考えに共感してもらいたい」という気持ちを他者に対してあまり抱かないのだそう。笑
彼には安定した自己肯定感の高さを感じるし、その言葉を聞いていて僕も「本当にそうなんだろうなあ」と感じたので、きっと真実なんだと思う。
だとすると、自分自身の弱さとの向き合い方次第で、彼のように他者の共感を得られなかったとしても心が安定している状態は作れるんじゃないか?
僕自身の心の満たされなさに気がつくと同時に、満たされた後に待っている平穏な心の世界も垣間見ることができて、友人には改めて感謝…。
あまりまとまっていないけど、今日はこのへんでおしまいです。
「自然」と「人間」の関係
人・モノ・金がますます都市部に集中していく現代。
そんな時代に生きながら、たまにふと「自然と人間の関係」に思いを巡らせることがある。
このテーマではいつも、心の奥底の、言葉にならないような深いところで感じている感覚がありながら、言葉にしたことはほとんどない。
通勤電車の中、都内に近づくに従って減ってゆく自然を見ながら感じている感覚の言語化を、今日は試みてみたいと思う。
※なお、この記事でいう「自然」は、人間の手が加えられなくても自生する木々や植物などを指します。
本来、人間は「自然」の一部
今の都市部の風景を見てみると、自然に存在しているものは限りなく少なく、ほとんどが人間の手によって作られた人工物。
ビルも、道路も、住宅も。
道端の木々でさえも、後から人間が植えたものになっている。
都市からどんどん離れていくと、この風景は対象的なものになる。
人の姿はまばらで、高い建物はなく、ひたすら田んぼや畑が広がっている。
夜は街灯の明かりも少なく、星空や月明かりの明るさしかない世界。
その2つの光景を対比すると、
人間の中に自然があるのか?自然の中に人間が暮らしているのか?一体そのどっちなんだろう?
という素朴な疑問が湧いてくる。
きっとその答えは後者で、本来、人間は自然の中の一部であるべき存在なんだろうと思う。
太陽の光や水、農作物を始め、自然の恵みがなければ人間は生きていけないし、それは人間がどんな経済システムの下で生きようと変わらない構造だと思う。
人間が自然の上位に立ち、自然をコントロールする立場なのではなく、「自然」という大きな枠組みの中に「人間」という一つの生物が存在している。
「自然」がなければ「人間」は存在できないということが、当たり前なようで僕たちが忘れている、大切な本質なんじゃないだろうか。
都市部の人工的自然を見て感じることを言葉にしてみる
自然を必要とする人間の心理を紐解く
首都圏、特に東京23区の住宅地を見ると、所狭しと住宅が立ち並んでいて、自然は申し訳程度に植えられている。
街路樹や各住宅のベランダに置かれている植木など、人工的に植えられた自然は、僕の目からすると、都市一極集中の流れへの人間の心の抗いのようであり、なにか切り崩した自然への贖罪のようにも感じる。
少なくとも都市部では、(経済合理性の要請があるとはいえ)必要以上に自然を切り崩しすぎて人々の心は渇ききっていて、そこに暮らす人々はもう一度その心を潤すために自然を求めているような気がする。
人工的に植えた自然から直接農作物などの恵みは受けなくとも、自然を求め、必要とする気持ちは、人間にとって極めて自然な反応のように思う。
僕たちは資本主義経済の檻の中で貨幣がなければ生活していけない存在である前に、人間という一つの生物なんだろう。
自然の目線から人間社会を見てみる
反対に、都市部に人工的に植えられていく木々の立場から見てみると、彼らはどんな目的で、どこに植えられようと、置かれた場所で懸命に生を全うしようとする。
文句を言うこともふてくされることもなく置かれた場所で咲くそのあり方は、僕にはなんだかとても健気に思えて、「どうして人間はこんなに文句ばかり言って生きているんだろう」と、少し恥ずかしいような気持ちになる。
確かに木々や草花は、人間と違って心や感情を持たないのかもしれない。
それでも本能的に生きようとしている点は人間と変わらないし、仮にその本能が満たされなくても、ただ枯れて生涯を全うする。
人間には良くも悪くも心があり、感情がある。
だからこそ、自己保全のために「恐怖心」や「欲」が生まれ、そうした感情が複数の人間関係の中で複雑に絡み合って、恨んだり恨まれたり、腹を立てたりする。
「生きている」という意味では木々や草花と人間は同じ存在でありながら、「自分以外の存在に何かを求めているか・いないか」という点でこの両者はあまりにも違う。
この2つを同列に語るのがあまりに粗いことは確かだけど、少なくとも僕は、人間でいながらも自然の「あり方」に学び、それに自分の生き方やあり方を近づけていきたいと思う。
一人の人間として、自然との共生関係をどう築いていくか
資本主義経済の中で、今は人間の不安や欲に自然が飲み込まれていっている構図は、都市部に近づくほど顕著だ。
でも、本来のあり方は「自然の一部として人間が存在する」という構図であって、このパラダイムが崩れるほど自然が損なわれたとき、人間が自分の生を保つことができなくなるような反動が、自然の側からもたらされるような気がする。
温暖化は最たる例だろうけど、それ以外にも、確実に見えないところである種の"反動の蓄積"が進んでいるような気がしてならない。
そんな中、一人の人間として自然との共生関係をどう築いていくか。
「人類」を主語にして、資本主義に抗い、自然を増やしたり保全しようとしたりするのも一つ。
「会社組織」を主語にして、CSR活動等で資本主義の流れに自然を飲み込もうとする動きを抑制しようとするあり方も一つ。
「自分という人間」を主語にして、自らの生活のバランスを取るために生活の中に自然を取り入れていくのも一つ。
色々な自然との向き合い方がある中で、自分自身はどんな向き合い方を選びたいだろう。
「人類」を主語にするのが立派だとか、そうあるべきだとか言うつもりは全くない。
それでも、あくまで人間は自然という大きな恵みの一部で生かしてもらっている存在であることを自覚し、自然への感謝と敬意を持って生きていくことが、人間としての最低限の勤めであるような気がする。
性格の「弱み」は「強み」
性格に良し悪しはあるんだろうか?
「あの人は性格が良い」とか「あの人は性格が悪いから付き合わないほうがいい」とかいう言葉はよく耳にするけど、それは「良い性格」や「悪い性格」というのが存在するということなんだろうか。
今日はそんなふとした疑問から始まった考察の記録。
性格に良し悪しはない
結論から言うと、冒頭の問いへの僕なりの答えは"NO"。
僕は、性格に絶対的な良し悪しはないと思う。
どんな性格も「よく働く場面」と「悪く働く場面」があって、そのどちらかを切り取って、性格が良いとか悪いとか言われるだけの話。
たとえば、「飽きっぽい」という性格の表現は一般的にマイナスの言葉で使われるけど、「一つのことにこだわらず、次々に新しいものにチャレンジできる」というプラスの側面にもなりうる。
同じように、他にもこんなに沢山マイナスからプラスに変換できる例がある。
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繊細で傷つきやすい → 人の気持ちがよくわかる
話下手 → 話すのが苦手な人の気持ちがわかる
慎重で行動が遅い → 事前に思考を巡らせ、丁寧に物事に取り組む
マイペース → 周囲に左右されずに自分のペースを保つことができる
気分屋 → 自分の気持ちに正直に行動できる
集団行動が苦手 → 単独行動が苦にならない
人に興味がない → 人の気持ちや言動に左右されすぎない
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日本人は特に、特定の事実を挙げて一つの性格にあたかも絶対的な良し悪しがあるかのように裁定を下し、悪い性格は改めさせようとする傾向がある気がする。
元々自己肯定感の高い人ならまだしも、ありのままの自分に自信が持てていない人にとって、ありのままの自分の性格について絶対的な良し悪しを判断されるのはとても辛い。
しかし、自己肯定感の人ほど他人の評価をまともに受け止めて落ち込みやすいという悩ましい構造があるような気がする。
そんなとき、上の例に示したように自分自身で性格がプラスに働く側面を発見したり、周囲にそういう発見をしてくれる人を持っておくと、性格を一面的に捉えて苦しくなることが少なく済む。
性格に良し悪しの意味付けをする危うさ
元々生まれ持った自分の性格で、「嫌だ」「直したい」と思うことは誰しも一つくらいあるだろう。
でも、そう思うのはなぜ?
自分の内部から発するポジティブな動機ならいいけど、周囲から言われた言葉で問題意識をもったり、ありのままの自分ではダメだと感じて「嫌だ」「直したい」と感じてはいないだろうか?
後者のように、周囲が性格に良し悪しの意味付けをすることで、本人「ありのまま」の自分の性格にOKを出せない(≒受け入れることができない、認めることができない)ようになるケースは往々にしてあり、これが本人の人生に与える影響は計り知れないほど大きい。
特に親が子どもの性格に「良し悪し」の意味付けを与えると、子どもは「ありのまま」の自分の性格、ひいては「ありのままの自分」を受け入れることができなくなり、自己肯定感は十分に育たない。
子ども自身の中に「親から褒められ、受け入れられるOKな自分」と、「親から叱責され、直さなければいけないNGな自分」が生まれると、後者の自分を見せて叱られることが怖くて自分の内側に抑圧するようになりかねない。
自分の中に「NGな自分」がいるということは、「100%ありのままの自分」を受け入れることができていない、「100%ありのままの自分」に自信を持てていないということ。
子どもの自己肯定感を育みたいのなら、子どもがこのように感じないように細心の注意を払い、叱る場合でも叱る対象を「子どもの性格」ではなく「子どもの行動」に絞らなければいけない。
子ども自身にも、「性格ではなく行動について叱られているんだな」と伝わるような叱り方を心がけなければいけない。
仕事で部下を育てる場合も同じこと。
部下に自信を持って生き生きと働いてもらうためには、同じように叱り方に注意しなければいけないと思う。
まとめ
日本に生まれ日本で育った人は「周囲からどう見えるか」を非常に気にする。
それ自体は悪いことではなくても、度合いが強すぎると意識が外に外に向き、自分自身の中から育つはずの何かを失うような気がする。
その一つが「自信」や「自己肯定感」だと、僕は思う。
これまでの生い立ちの中で周囲からの見え方を過度に気にする癖がついている場合、それを手放すのは容易ではないかもしれない。
それでも、周囲からの「性格」へのマイナス評価を受けて落ち込みそうになったときには
- 性格に絶対的な良し悪しはないこと
- 今、目の前の相手は「特定の場面(仕事など)において」「相手の価値観のフィルターを通して」「一面的な」意味付けをしているにすぎないこと
- 今、マイナスの評価を受けている自分の性格は、かならずプラスに働くときがあること
の3点は忘れないようにして、自分自身の心を守っていけるといいと思う。
「癒される」のはどんなとき?
最近「癒された~」と思ったのはいつだろうか?
心地良い音楽を聴いたとき。
かわいい動物と触れ合ったとき。
子どもと遊んだとき。
色々な場面で感じる「癒される感じ」は、自分たちが思っている以上に大切なものなのかも…と最近思う。
今日は、そんな「癒やし」で生活を豊かにするヒントについて考えてみた。
「癒される」は「楽しい」よりも深い感覚
僕たちが「癒される」と思うとき、心の中にはどんな変化が起きているんだろう?
どうも、「楽しいとき」と「癒やされるとき」は性質が違うような気がする。
何か肩の力が抜けるような、心が温まるような、緩むような、心が何かで満たされるようなあの感じ。
「癒される」と感じるときは、何か自分にとって大切なものを思い出したような感覚になる。
「楽しい」と感じるのが、「脳が快感を感じているとき」だとすれば、
「癒される」は、「心のもっと深いところで、自分の存在が満たされているように感じるとき」のような気がする。
心の奥深いところで感じるものだけあって、僕たちという存在にとって「癒される」という感覚はとても大事なものなんだと思う。
自分が「癒されるなあ…」と思ったときを思い出してみる
きっと、どんなときに癒されるかは人によって違うと思う。
僕は、散歩をして季節の変化を感じるときや、子ども(自分の子はいないけど)と遊んでいるとき、晴れた日の空を見上げているときに「癒されるなあ…」と思う。
でも、僕たちは自分がどんなときに癒やされるのかをよくわかっていないし、「癒されるとき」を自分の生活に意識に取り入れようとはあまりしない。
大切なのは、まず自分がどんなときに癒やされるのかを知ること、そしてそんな瞬間を自分の生活の中に少しでも多く取り入れていくことなんじゃないだろうか。
僕の実体験を話すと、都内に3年弱一人暮らしをしていて(当時仕事も大変で)心の渇きが限界に達したとき、気がつくと頻繁に緑の多い公園に行くようになっていた。
その頻度が高くなるにつれて、僕は自分の心が明確に自然豊かな環境を求めていることに気がついて、都心から離れてはいるけど自然の多く残る環境に引っ越すことに決めた。
引っ越してから毎日のように家の近辺を散歩しているけど、散歩しながら自然の風景を眺めていると、都内でするどんな遊びや娯楽よりも深く心が満たされる感覚がある。
心になんとも言えない充足感が広がって、「なんかいい感じ」になれる。
「癒やされる時間」を生活に取り入れる上での一番のハードルは…?
美味しいご飯を食べているとき、
熱いお風呂に使っているとき、
仮に自分が癒やされるときを見つけられたとしても、意外と生活の中にその瞬間を増やそうとする人は多くないような気がする。
「癒される時間」よりも、皆仕事の時間であったり、人と会う約束であったり、何か他の時間を優先してしまう。
理由は「癒される時間」をそれほど大切に思っていないか、それ以外の時間の優先順位が必要以上に高くなっているかのどちらかだけど、感覚的に「他にもっと大切なことがある」という錯覚に陥っていることが多い。
その焦りにも似た錯覚は、大抵の場合何かの不安感情に根ざしていることが多いんじゃないか。
「仕事をしないと、必要とされなくなってしまうんじゃないか」
「前から約束していた予定だから、キャンセルしたら相手に嫌われるんじゃないか」
そんな不安を解消するために、いわばマイナスに触れている心の状態をプラスマイナスゼロにするために、僕たちは日々色々なことに追われているような気がする。
でも実際、恐れていることは9割方実現しないんだよね。
だったら、心をプラスの状態にする「癒される時間」の優先順位を上げてみたらどうだろう?と思うわけです。
僕もまだまだ試行錯誤を繰り返している最中だけど、仕事も仕事以外の時間も、起きている時間のうちなるべく多くを心満たされる時間にしていけたらいいなあ。
情報をシャットアウトしてみよう
こちらは最近行った埼玉県秩父市のカフェ、「空&閑」。
このカフェで素敵なお話を聞いたので、今日はその共有をしたい。
カフェ「空&閑」との出会い
日帰り旅行で秩父を訪ねた際、友人との待ち合わせまでに時間があったのでカフェを探していたときのこと。
その日は仕事でひどく疲れていて、心も体もヘロヘロ。
ネットで適当なカフェを探して秩父駅から歩いてみる。
そして、見事に迷って「ここどこだ…」と立ち止まっていたとき、たまたま僕のすぐ横に「空&閑」はあった。
時間が早かったこともあってか、二階に案内されるとお客さんは自分だけ。
店内はとにかく静かで、カフェにしては珍しくBGMが一切かかっていない。
消化器・循環器にやさしいという中国茶をいただきながら、スタッフさんがお湯を沸かす音だけが聞こえてくる静かな空間を楽しむ。
本を読もうと思っていたけど、なぜかそんな気が起こらず、持ってきた本を机に伏せてひたすらボーッと過ごした。
現代人は情報過多のストレスにさらされ続けている
「素敵な空間ですね」とスタッフさんに声をかけてみた。
すると40代くらい?清楚なスタッフのお姉さんがこんな話を聞かせてくれた。
「うちのカフェは、オーナーが"お客さんにとにかくくつろいでもらいたい"という想いで作ったんです。
色々な方にくつろいでいただけるように、置いてある家具はあえてテイストを統一せず、幅広く多様なものを揃えています。そうして、お客さんには自分の好きなデザインの席でくつろいでもらいたいからです。
BGMをかけていないのは、オーナーの"現代人は情報にさらされ過ぎて疲れている。音楽や音も一つの情報だから、耳に入ると処理しようとしてエネルギーを使う。だから、なるべくくつろいで休んでもらうために、BGMは一切かけない空間にしたい。"という考えからです。
ぜひ、家のようにゆっくりくつろいでいってください。」
この言葉を聞いて、オーナーさんやスタッフさんの心遣いという栄養が、疲れ切っていた僕の心に染みていくような気がした。
と同時に、「確かに、自分も含めて現代人は情報にさらされ過ぎているし、自分自身でも自覚できないほどそれによって疲弊しているのかもしれない」という気づきがあった。
僕たちは生活の中でスマートフォンなどを通じてインターネット情報、メールやLINEなどのコミュニケーション情報にひっきりなしに触れている。
電車に乗れば中吊り広告があり、テレビをつければCMや番組から一方的に情報が流されていて、それとは別に日常の人との関わりでも情報に触れ続けている。
僕たちの脳は、情報をキャッチした時点で「自分の身に危険が及ばないかな?」とか、「自分はどう行動するべきか?」とか、無意識に情報処理を始める。
無意識にやっている情報処理でもエネルギーは使うし、疲労は着実に溜まっていく。
情報の種類によっては反射的に何かの感情が発生することもあるだろうけど、その感情を自覚する間もなく、次の情報がまた流れてくるような時代。
そんな中、僕たちはただ気づいていないだけで、きっと自分が思っている以上に疲れているんだと思う。
情報を断つことで、心と体は休まる
現代は無意識に生活しているとかなりの情報を受け取ってしまうので、意識的に「入ってくる情報量」を減らしてみたらどうだろう。
断捨離でいう、「断」をやってみたらどうなるだろう。
「空&閑」に行ってからそんな疑問を持って、意識的にこんな行動をとってみた。
- 家にいるとき、BGMをかけるのをやめる
- 散歩をするときはスマホをオフラインにする
- なんとなくテレビをつけるのをやめる
- なんとなく本を読むのをやめる
- なんとなくネットニュースを見るのをやめる
試してみた結果。
以前より確実に疲れにくい。
余計なことに頭を使わなくなって、頭がスッキリしている気がする。
今までなんとなく受け取っていた情報の大半は、まったく必要がないことに気がついた。
音楽も含め、ついつい情報を受け取り「ながら」何か別のことをやってしまいがちになるけど、意識的に情報を遮断することで意識は目の前の一つのことに集中することができ、それによって心身は過度に疲れなくて済むんだと思う。
どんな風に情報を遮断するかは人それぞれ適した方法があると思うし、それを見つける作業もきっと楽しい。
もしそこに何かのヒントを投げかけられるとすれば、
情報収集をする前に
「なんでこの情報を得ようとしてるんだろう?」
「この情報って、本当に必要?ないと困る?」
と自分に問いかけてみてはどうだろう。
それか、騙されたと思って
・一日音楽を聞かない日
・一日ネットニュースを見ない日
なんかを作ってみてほしい。
まとめ
僕たちの活動エネルギーには一人ひとり限りがあって、その限られたエネルギーを使って僕たちは必要な情報を得、活動して一日一日を生きている。
情報の多い世の中だからこそ、限られたエネルギーを「自分にとって価値の高いもの」に投入して、価値の低いもので自分を疲れさせないようにしたい。
体は心の住処であり、体が疲れると心も疲れる。
幸せは心で感じるもの。
心を疲れさせないためにも、自分を疲れさせるものからは意識的に離れたい。
ここ10年ほどで「携帯を持ち歩くのをやめよう」とか「インターネットから離れよう」なんて話もよく聞くようになったけど、その意味するところを今回こういったカタチで理解することができて、僕にはとても有意義だった。
あらためて、「空&閑」との出会いと、オーナーさん、スタッフさんに感謝!
「自分をわかってもらいたい」気持ちの向けどころ
人とのコミュニケーションで孤独を感じるのはどんなときだろう。
きっと、自分が辛い状況の中で相手が自分のことをわかってくれていない、自分のことを受け入れてくれていないと感じたときは孤独を感じるんじゃないだろうか。
今日は、そんな風に孤独を感じたり、理解されない苦しみを感じなくて済むような対処法について考えてみたい。
他人に自分を100%理解してもらうのは難しい
以前のエントリーに書いたように、そもそも他人に自分を100%理解してもらうのはとても難しい。
ただ、「他人の痛みへの共感・理解ができる度合い」は人それぞれ異なっていて、100%は難しくても60%は共感できる人もいれば、10%しか共感できない人もいる。
その共感・理解度合いの違いは聞き手の資質だけでなく、
- 話し手との相性の良さ(感覚や感性、性格の共通度など)
- そもそも話し手の話に共感・理解をしようとするかという「姿勢」
によっても左右されると思う。
聞き手がこの3要素のいずれも持ち合わせていないとすると、その人に共感や受容を求めても満たされない可能性が高い。
共感・受容を求めるこちらの気持ちが強いほど、その気持ちは裏切られて、傷ついたり孤独を感じることになりかねない。
重要なのは、相手を選んで受容と共感を求めること
重要なのは、先の3要素の観点で「相手が自分の話に共感・理解をしてくれそうかどうか」を見極めようとすることだと思う。
「見極めること」とせずに「見極めようとすること」としたのは、見極めること自体がとても難しいから。
完璧に見極めることは無理でも「この人に話してわかってもらえるかな…」と一瞬立ち止まって考えることが大切なんじゃないだろうか。
ただ、ここで悩ましい問題が1つある。
それは、「誰かに話を聞いて受容・共感してほしい」という気持ちになっているときは自分の心の状態が良くないときが多く、相手がその期待に応えてくれるかどうかを見極める心理的余裕が持ちづらいこと。
この問題に関しては、「とにかく、自分の話を聞いて、受容・共感をしてくれる人を最低1人持っておく」という対処法に尽きると思う。
少し粗い考えかもしれないけど、1人だけでも信頼できる話し相手がいれば相手の見極めをする必要はないし、見極めに失敗して傷付くこともない。
最も重要なのは、誰かから全受容してもらった経験をすること
ここまで書いてみて思うのは、そもそも「誰かに理解してほしい、共感してほしい」と思うかどうか、どれくらいそう思うか自体、人によって千差万別だということ。
その期待の大きさは自己肯定感の強さと相関があって、自己肯定感の低い人ほど他者に受容と共感を求める気持ちは強くなるのではないかという気がする。
それでも、一度誰かに弱った自分を見せて受け入れてもらった経験を積んでいくことで、少しずつ自己肯定感は育っていくんじゃないかと思う。
そんな経験の積み重ねで、身の回りのあらゆる人に理解と共感を求めてしまっていた状態から、人を選んで理解と共感を求めることができる状態に徐々に変わっていけると僕は思う。
自己肯定感はあらゆる問題に共通するテーマだと思うので、それ単体でもどこかで記事にしたい。
ではでは今回はこの辺で。
「我慢」と「受け入れる」の違い
今日は久しぶりに言葉の定義系のお題。
「我慢」と「受け入れる」の違いについて書いてみる。
外から見ると、一見大した違いがなさそうに見えるこれらの反応。
しかし、当人からすると「我慢」は非常に辛いものである一方、「受け入れる」は心が楽になるような対処の仕方だと思う。
最近こんなことがあった。
僕が、周囲の環境や人に悩み、我慢が限界に達して友人に相談していたときのこと。
その友人が「環境や人は残念だけど変わらないよ。外部の人間だから言えるのかもしれないけど、それを受け入れられると楽になるかもしれないね。」と言ってくれた。
でも、「なるほど!」と納得する一方で「受け入れる」のはなかなか難しく、どうしても「我慢」になってしまう自分がいた。
「我慢」と「受け入れる」の違いはなんだろう?
どうすれば「我慢」ではなく、「受け入れる」ことができるんだろう?
今日はこの2つの問いについて考えてみたい。
「我慢」と「受け入れる」の違い
まず、「我慢」と「受け入れる」の言葉の定義を、僕なりに書いてみる。
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- 「我慢」
…目の前の現実に不満を持ちながらも、その気持ちを押し殺している状態。その状態を自己認識していない場合は「抑圧」という状態に知覚、「我慢」はその状態は自己認識している点で「抑圧」とは異なる。 - 「受け入れる」
…目の前の現実をありのまま認めて、特定の方向に変わることを期待していない状態。そもそも、目の前の現実に「こうなってほしい」、「こうでないと嫌だ」という欲求や期待を持っていない。
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この2つを読んで、両者の違いはどこにあると思うだろう。
結論から言うと、僕は「我慢」と「受け入れる」の違いは、「周囲への期待をするか、しないか」だと思う。
「周囲への期待」の内容は、環境に対する期待、人に対する期待など様々。
周囲に期待する結果生まれるのが「我慢」という反応、
期待しない結果できるようになるのが「受け入れる」という反応なんじゃないか。
先に書いたように、「我慢」は辛い。
「こうであってほしい」「こうなってほしい」と期待しているのに叶わない状態は辛い。
そもそも期待をしなければ、裏切られることもない。
ただ、「そうなんだ」と現実を認めて「受け入れる」ことができる。
ここまで読むと、理屈の上では納得できるんじゃないかと思う。
どうすれば、「我慢」ではなく「受け入れる」ことができるのか?
この問いに対する答えは「周囲に期待しないこと」なんだけど、いきなりそれができるなら誰も悩まない。
問題はその一歩先、
①どうすれば、周囲に期待しないでいられるのか?
②そもそも、「周囲に期待しなくなる」状態を目指す必要はあるのか?
という2つの問いにあると思う。
まず、①の問いについて考えてみる。
周囲に期待せずにありのまま現実を認めるためには、自分の心の中を見つめ、それを癒やす必要があると思う。
そもそも自分は、周囲にどんな期待をもっていたんだろう。
相手に、環境に、どうなってもらえれば満足だったんだろう。
満たされなくて悲しかった気持ちは、言葉にするとどんなものだろう。
たとえば、上司から自分の仕事を評価されず、マイナスの叱責しか受けないのを我慢して耐えるとき。
本当は、自分という存在や自分の努力が認められていないようで悲しくて、「よくやってくれているよ」の一言でその悲しみは癒える。
それでも上司は、そうやって部下を認めたり評価したりするタイプではない…
この場合は、自分自身が、自分という存在や自分の努力を認めて癒やすか、上司以外の他の人を見つけて、認めて癒やしてもらうかしかない。
究極的には、自分自身で自分を認めるしかないのだと思う。
他人は、詰まるところ自分の期待通りの反応を返してくれるとは限らないから。
そうやって自分が自分自身の根源的欲求を知り、認め、癒せるようになると、周囲からの承認をそれほど必要としなくなる。
周囲の人に過度な期待をかけることもなくなるんじゃないかと思う。
そもそも、「周囲に期待しなくなる」状態を目指す必要があるのか?
ただ、その一方で「周囲の環境や人に期待してしまうのは、人間である以上、一定仕方がない」と思うのが僕の本音だ。
周囲への期待は少なければ少ないほど自分が楽になれると思うけど、周囲への期待をゼロにすることはできないんじゃないだろうか。
これは、まさに②の問いのお話。
人は皆、「自分を認めてほしい」とか「自分の気持ちに共感してほしい」とかいう根源的な欲求を持っているし、その欲求は突き詰めれば生存本能に近いものがあると思う。
こうした欲求はゼロになることはないし、する必要もない。
問題はこの生存本能・防衛本能からくる欲求が強すぎて、「我慢」の量が増えすぎることだと思う。
「我慢」の量はできるだけ減らし、極力「受け入れる」ことができる領域を増やしていくほうが楽に生きることができる。
そんなときに必要なのが、先に挙げた問いのように、自分の心の中を見つめる作業じゃないだろうか。
自分の心を見つめていくと、時に、生存本能からくる期待ではなく、自分が大切にしている考え方や価値観が見えてくることもあると思う。
先の上司の例で言えば、「上司たるもの、部下の仕事を承認するなどして部下の自信やモチベーションを育て、最高のパフォーマンスを発揮させるべきだ」という価値観を持っていることに気づくかもしれない。
そうした自分なりの価値観はとても大切なものだし、なくす必要はない。
大切にしている価値観に合わない人がいるという事実があるだけで、その先は「この人に私の価値観を求めても無駄だな」と思うもよし、可能ならその人と離れるもよしだと思う。
まとめ
ここまでの話をまとめると、過度な「我慢」をしないために以下を意識しておくことが大切だと思う。
- すべての「我慢」が悪ではないが、周囲への過度な期待から生まれる「我慢」は減らす方向に努力するとよさそう
- 何が「過度な期待」かを見極め、それを減らしていくためには、自分の心の中(何を期待していて、その心の底にはどんな欲求があるのか)を見つめること
- その欲求が生存本能レベルのものなのか、価値観レベルのものなのか。譲れないものか、緩める余地があるものかを見極めること
- 譲れないものであるならば、その環境や人から離れるなどの選択肢がある
- 緩める余地があるものであれば、「価値観の違い」として多様性を受け入れるか、他の人や自分自身で満たせないか考えてみるなどの選択肢がある
我慢の根底にある「周囲への期待」、その背景を掘っていく作業は難しいし、一人だと結構しんどい。
意外と根が深そうな、自分自身の根っこの心理的問題に気づくこともあるかもしれない。
それでも、そうした内省を深めていくことでわかる新たな自分というのは確実にあるし、その先に、人や環境と折り合いを付けながら楽に生きていける世界があるんじゃないかと思う。
自由になるための問いと言葉の宝庫 ~『自由への扉』(高橋歩 著)~
2年ほど前にタイトルに惹かれて買った、こちらの本。
読み返してみたら、衝撃的なまでに良い本だったのでご紹介。
僕が大学生のときに、高橋歩さんは一つの流行になっていた。
当時「高橋歩信者」と呼ばれる人がいるくらい、彼の本から放たれるエネルギーとメッセージは若者を惹きつけていた。
自分の心の中に以前から自由を求める気持ちがあったことを感じながら、改めて読み返してみた。
こんな人にオススメ
- 人生に、何か言葉で言い表せないような不自由さを感じている人
- 本当はもっと自由に生きてみたい人
- 自分の心理的囚われを外したい人
- 合理ではなく非合理、理性よりも感性や直観を重視している人
- 自分のやりたいことを模索している人
この本の魅力
この本は、一言で言うと「自由人・高橋歩」が紡ぐ、人生という名の旅を楽しむための言葉&写真集。
何度も繰り返し読んでみたけど、僕はこの本には3つの魅力があると思う。
①感情を突き動かす言葉
1ページ1ページに書かれている言葉は、とても短くてシンプルなんだけど、不思議とニュアンスが伝わってくるし、感覚を揺さぶるものがあるし、「なかなか言葉にできなかった、心の奥に潜んでいた気持ち」を代弁してくれたような気がする。
繰り返し読むほど味わい深くて、久しぶりに読んだときには前よりももっと深く意味が理解できたように感じる、奥行きの深い言葉たち。
この本で伝えたいようなメッセージを伝えるために、他に数多の言葉の候補がある中でこれらの言葉がチョイスしている高橋さんの"センス"には純粋に感動する。
②自由を感じる写真
この本の半分は、高橋さんが世界中で撮り溜めた写真で構成されている。
パラパラと見ていると自然と、「世界は広いなあ」とか、「こんなに楽しそうに笑ったこと、自分にはあったっけ?」とか、色々な思いが湧いてくると思う。
この写真たちを心で感じてみて、自分の中に生まれる感情や感覚というのは、なにか「自分」を取り戻したようなとても尊いものに感じる。
③高橋さんオススメの作品たちに触れられる
高橋さんは生まれながらに自由人だと思われがちだけど、実は両親が教員の家庭に育ったこともあり、後天的に色々な足かせを取っていった人なんじゃないかと思う。
その過程で、高橋さん自身が「自由への扉」を開くのに影響を与えた本や映画などがふんだんに紹介されているのも、この本の魅力の一つ。
紹介されている作品もまた、世界観やスケールが大きいものばかりで、きっと何かしら惹かれる作品があるんじゃないかと思う。
この本を読んで僕が得たもの
僕はこの本を、休日の公園のベンチで、広い青空の下でゆっくり読んだ。
読んでみて、僕の中でこんな化学変化が起きたような気がする。
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- 自分より大きな世界観、価値観に触れることで、自分の世界観が押し拡げられるような感覚になる
- 同時に、今の自分がどんな考えや価値観に縛られ、とらわれているかも感じることができる
- 目の前の悩み事が、何かとても小さなもののように思えてくる
- 「どうなったって、今の仕事を辞めたって生きていく手段はいくらでもある」と不思議と思えるようになる
- 「もっと自分に素直に、楽しく生きていってもいいんじゃないか?」と思える。実際にそうやって生きている高橋さんに勇気をもらえる
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この本からより多くのものを得るには2段階の読み方があるような気がしていて、まずは、頭で考えるのではなく、心で感じながら一回し読むことが大事だと思う。
頭であれこれ考えながら読むのは、その次の段階。
そうしないと、所見で読んだときに「そうはいっても、ここに書いてあることって理想論で、現実難しいよね」みたいに、今ある固定観念で良し悪しを裁いてしまうような気がする。
できる・できない、とか
良い・悪い、とか
そういう、頭で考えた二分論でこの本に書かれているものを処理するのはとてももったいなくて、
やりたいか・やりたくないか、とか
ワクワクするか・しないか、とか
まずは心の反応に耳を澄ませると、きっと違う世界が見えてくる。
その結果ワクワクしたり、やりたいと思ったことには、「どうすれはできるんだろう?」と思考を回し始めればいいんだと思う。
印象的だった言葉たち
以下は、僕の心に深く残った言葉たち。
きっと読み手によって心に残る言葉は違うし、ここに取り上げた以外にも沢山の素敵な言葉があることを添えつつ、いくつか紹介したい。
そして最後に一つ。
あとがきの「高橋歩の『自由のカタチ』」があまりに素晴らしすぎるので、ぜひ読んでみてほしい。
「人は、自分ひとりで、自由になるのではない。
素晴らしい人やものに出逢うことを通じて、自由になっていく。」
「好きな場所にいると、身体が喜ぶ。そして、心が解放される。
好きな場所にいるからこそ、湧き上がる感情や見えてくるものがある。」
「あそこに行きたい、あそこに住みたい、そう感じるのは、
ここにおいで、という地球からのサインだ。
人間社会のごちゃごちゃに飲まれることなく。
素直に、地球からのサインに従って生きたほうが、きっと、気持ちいい。」
「オレは、仲間が出来て、より自由になった。
オレは、結婚して、より自由になった。
オレは、子どもが出来て、より自由になった。
愛する人たちの存在が、オレを自由にした。
人は、愛があるから、自由になれるんだ。」