「我慢」と「受け入れる」の違い
今日は久しぶりに言葉の定義系のお題。
「我慢」と「受け入れる」の違いについて書いてみる。
外から見ると、一見大した違いがなさそうに見えるこれらの反応。
しかし、当人からすると「我慢」は非常に辛いものである一方、「受け入れる」は心が楽になるような対処の仕方だと思う。
最近こんなことがあった。
僕が、周囲の環境や人に悩み、我慢が限界に達して友人に相談していたときのこと。
その友人が「環境や人は残念だけど変わらないよ。外部の人間だから言えるのかもしれないけど、それを受け入れられると楽になるかもしれないね。」と言ってくれた。
でも、「なるほど!」と納得する一方で「受け入れる」のはなかなか難しく、どうしても「我慢」になってしまう自分がいた。
「我慢」と「受け入れる」の違いはなんだろう?
どうすれば「我慢」ではなく、「受け入れる」ことができるんだろう?
今日はこの2つの問いについて考えてみたい。
「我慢」と「受け入れる」の違い
まず、「我慢」と「受け入れる」の言葉の定義を、僕なりに書いてみる。
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- 「我慢」
…目の前の現実に不満を持ちながらも、その気持ちを押し殺している状態。その状態を自己認識していない場合は「抑圧」という状態に知覚、「我慢」はその状態は自己認識している点で「抑圧」とは異なる。 - 「受け入れる」
…目の前の現実をありのまま認めて、特定の方向に変わることを期待していない状態。そもそも、目の前の現実に「こうなってほしい」、「こうでないと嫌だ」という欲求や期待を持っていない。
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この2つを読んで、両者の違いはどこにあると思うだろう。
結論から言うと、僕は「我慢」と「受け入れる」の違いは、「周囲への期待をするか、しないか」だと思う。
「周囲への期待」の内容は、環境に対する期待、人に対する期待など様々。
周囲に期待する結果生まれるのが「我慢」という反応、
期待しない結果できるようになるのが「受け入れる」という反応なんじゃないか。
先に書いたように、「我慢」は辛い。
「こうであってほしい」「こうなってほしい」と期待しているのに叶わない状態は辛い。
そもそも期待をしなければ、裏切られることもない。
ただ、「そうなんだ」と現実を認めて「受け入れる」ことができる。
ここまで読むと、理屈の上では納得できるんじゃないかと思う。
どうすれば、「我慢」ではなく「受け入れる」ことができるのか?
この問いに対する答えは「周囲に期待しないこと」なんだけど、いきなりそれができるなら誰も悩まない。
問題はその一歩先、
①どうすれば、周囲に期待しないでいられるのか?
②そもそも、「周囲に期待しなくなる」状態を目指す必要はあるのか?
という2つの問いにあると思う。
まず、①の問いについて考えてみる。
周囲に期待せずにありのまま現実を認めるためには、自分の心の中を見つめ、それを癒やす必要があると思う。
そもそも自分は、周囲にどんな期待をもっていたんだろう。
相手に、環境に、どうなってもらえれば満足だったんだろう。
満たされなくて悲しかった気持ちは、言葉にするとどんなものだろう。
たとえば、上司から自分の仕事を評価されず、マイナスの叱責しか受けないのを我慢して耐えるとき。
本当は、自分という存在や自分の努力が認められていないようで悲しくて、「よくやってくれているよ」の一言でその悲しみは癒える。
それでも上司は、そうやって部下を認めたり評価したりするタイプではない…
この場合は、自分自身が、自分という存在や自分の努力を認めて癒やすか、上司以外の他の人を見つけて、認めて癒やしてもらうかしかない。
究極的には、自分自身で自分を認めるしかないのだと思う。
他人は、詰まるところ自分の期待通りの反応を返してくれるとは限らないから。
そうやって自分が自分自身の根源的欲求を知り、認め、癒せるようになると、周囲からの承認をそれほど必要としなくなる。
周囲の人に過度な期待をかけることもなくなるんじゃないかと思う。
そもそも、「周囲に期待しなくなる」状態を目指す必要があるのか?
ただ、その一方で「周囲の環境や人に期待してしまうのは、人間である以上、一定仕方がない」と思うのが僕の本音だ。
周囲への期待は少なければ少ないほど自分が楽になれると思うけど、周囲への期待をゼロにすることはできないんじゃないだろうか。
これは、まさに②の問いのお話。
人は皆、「自分を認めてほしい」とか「自分の気持ちに共感してほしい」とかいう根源的な欲求を持っているし、その欲求は突き詰めれば生存本能に近いものがあると思う。
こうした欲求はゼロになることはないし、する必要もない。
問題はこの生存本能・防衛本能からくる欲求が強すぎて、「我慢」の量が増えすぎることだと思う。
「我慢」の量はできるだけ減らし、極力「受け入れる」ことができる領域を増やしていくほうが楽に生きることができる。
そんなときに必要なのが、先に挙げた問いのように、自分の心の中を見つめる作業じゃないだろうか。
自分の心を見つめていくと、時に、生存本能からくる期待ではなく、自分が大切にしている考え方や価値観が見えてくることもあると思う。
先の上司の例で言えば、「上司たるもの、部下の仕事を承認するなどして部下の自信やモチベーションを育て、最高のパフォーマンスを発揮させるべきだ」という価値観を持っていることに気づくかもしれない。
そうした自分なりの価値観はとても大切なものだし、なくす必要はない。
大切にしている価値観に合わない人がいるという事実があるだけで、その先は「この人に私の価値観を求めても無駄だな」と思うもよし、可能ならその人と離れるもよしだと思う。
まとめ
ここまでの話をまとめると、過度な「我慢」をしないために以下を意識しておくことが大切だと思う。
- すべての「我慢」が悪ではないが、周囲への過度な期待から生まれる「我慢」は減らす方向に努力するとよさそう
- 何が「過度な期待」かを見極め、それを減らしていくためには、自分の心の中(何を期待していて、その心の底にはどんな欲求があるのか)を見つめること
- その欲求が生存本能レベルのものなのか、価値観レベルのものなのか。譲れないものか、緩める余地があるものかを見極めること
- 譲れないものであるならば、その環境や人から離れるなどの選択肢がある
- 緩める余地があるものであれば、「価値観の違い」として多様性を受け入れるか、他の人や自分自身で満たせないか考えてみるなどの選択肢がある
我慢の根底にある「周囲への期待」、その背景を掘っていく作業は難しいし、一人だと結構しんどい。
意外と根が深そうな、自分自身の根っこの心理的問題に気づくこともあるかもしれない。
それでも、そうした内省を深めていくことでわかる新たな自分というのは確実にあるし、その先に、人や環境と折り合いを付けながら楽に生きていける世界があるんじゃないかと思う。