ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を乗り越えた筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

なんでも、ゆっくりやってみよう

何事も、ゆっくりやることで新たに見える世界があると思う。

現代社会の生活では、僕たちは気がつくといつも何かに追われていて、常に急いでいるような気がする。

コンビニ店員のレジ対応が遅かったとき。
エレベーターの扉がなかなか閉まらなかったとき。
前を走る車がノロノロ運転だったりとき。

そんな些細なことで、僕たちは苛立ってしまう。
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「待てない」心理の背景には、何かの不安や恐れを感じる。
僕も含めてみんな、何を恐れているんだろう?
どうすれば、僕たちは穏やかな気持ちで暮らすことができるんだろうか?

この問題の原因を突き止めようとすると、結構問題は根深そうで解決のハードルは高く感じるけど、原因を特定しなくとも解決できる方法があるような気がする。

それが今日のテーマ、「なんでもゆっくりやってみる」という方法。


急ぐことで得られるもの・失うものがある

高速道路を車で走れば、目的地には早くたどり着ける。
でもその一方で、歩いていると気がつく道端の景色に、高速道路を車で走っているときは気づくことができない。

こうやって、僕たちは早く走るほど見えなくなるものが増えていく。

物理的な話だけではなくて、心理的にも何かに急かされて動いているときは、大切なものを見落としたり軽視したりすることがある。

家族のために稼がなければ、と仕事に打ち込み毎日帰宅が遅くなった結果、家族が一自らに番求めていたもの(家族で過ごす時間、など)を見落とす。
出世争いに夢中になって働いていたら、自分の健康を軽視して病気を患ってしまう。

そんな話はそこら中に転がっている。

ここから僕は2つのことを感じる。

一つは、皆、失うまで自分の人生で大切なものに気づくことができないということ。
もう一つは、急いでまで手に入れようとしていたものは、自分が人生で本当に大切にしたいものではないのでは?という疑問だ。

急いだり、待てなかったりする心理の背景にある恐れは、何か(お金や地位、人からの認知賞賛…)を失うことへの恐れなんじゃないか。

恐れは恐れであって、そこに感じるのは「こうなりたい」というポジティブなエネルギーではなく、「こうはなりたくない」というネガティブなエネルギーだ。
多くの場合、そのネガティブエネルギーは自己防衛本能や、生存本能につながっているような気がする。


「ゆっくり物事に取り組むこと」によって得られるもの

先の2つの感想が正しいとすれば、自分のポジティブな欲求に気づくためにはどうすればいいんだろう。

その問いへの僕なりの答えが、「ゆっくり取り組むこと」。

仕事はなかなかゆっくり取り組めなくても、仕事以外の時間ならあらゆる場面でゆっくり取り組むことができる。

駅から家までの道を、いつもよりゆっくり歩いてみる。
そうすると、道端に昨日までは咲いていなかった花が咲いていて、季節の移ろいを感じられた。

ご飯をゆっくり食べてみる。
すると、いつもよりしっかり味が感じられ、使っている素材そのものの味や、作り手の想いまで伝わってきて心が満たされたような気がした。

こんな風に、ゆっくり取り組んで目の前のことに意識を集中すると、普段五感のどこかでキャッチしているのに流れていってしまう情報が、しっかりと感じられる。
意識が「今」という瞬間に戻ってくる。

そうしてゆっくり取り組み、意識を今に集中することで、自分がどんなときに心満たされるのかがわかるようになる気がする。

その後にすることは簡単。
その「自分の心を満たしてくれるもの」を意識的に生活に多く取り入れていくだけ。
家族と会話する時間、一人でボーっとする時間、季節の移ろいを感じる時間、心地よいそよ風が顔を撫でる時間、晴れた空を見上げる時間…
そうしたものの割合を高めていって、少しずつ豊かさを自分の手元に取り戻していきたい。


おまけ

最後に、最近ゆっくり散歩をしながら撮った写真をいくつか。

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季節は冬から春へ。
山の景色は、枯れ色から青々とした新緑の色に変わってきた。

そうやって四季の移ろいを感じられる時間が、僕にはとても幸せ。

大切なのは、「あり方」

今日はちょっと閑話休題を。

最近色々な記事を書きながら感じた気づきを3つ、文章にしてみようと思う。


①意識を内と外にバランスよく向けることは、常に大事 

このブログを開設した当初、一番のモチベーションは「自分の感覚や思索の内容を文章にしたい」という純粋な欲求だった。

巷でよく聞く「書くネタがない」というブロガーの悩みは当時の僕にはちょっと不思議で、「そもそも書ききれないほど書きたいことをテーマにして、ブログを書くんじゃないの?」と思っていた記憶がある。

実際、毎日の更新はできないけど「心を自由にする」というテーマでは毎日湧き出るようにネタを思いつくし、溜まりに溜まった下書きを少しずつ完成させていくのは楽しい。

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一方で、最近気づいたのは、書いているテーマが一定期間内面的なものに偏ると、自分自身の気持ちも内に内に向いていくこと。

自分の感情や人との関係性について、感性を全開モードにして感じたいまま感じたり、それを文章にまとめたりすると、気づきも多いけど精神的な消耗も大きい。
記事を書いた後は充実感やスッキリ感とともに、ちょっとグッタリするのが実際のところ。

そんなとき、自然と書きたくなるのは本や映画の紹介、少し大きな視界での考え方など、「外」に意識の向いた話。

こうして「内」と「外」に交互に意識を向け、バランス良く考え事をすると、どちらの世界もより生き生きしたものに感じられ、その時間は充実したものになる。

同じように、人付き合いにおいても、誰かと一緒に過ごす時間も大切だし、一人で過ごす時間も同じくらい大切だと思う。
誰かと一緒に過ごす時間でしか得られないものもあれば、一人で過ごす時間でしか育まれないものもあるような気がする。

この「内」と「外」のバランスはこれからも意識して、バランス良く色々な記事を書いていきたいなと思ったのが一点目のおはなし。


②書いているのは、僕がこれまでの経験から見出した"一つの"考え方でしかない

こうして記事を書いていると、その内容が自分の辛い経験に裏打ちされたものであるほど、断定的な表現を使ってしまうことがある。

でも僕としては、「記事に書いていることは正解ではなく、あくまでyudaiという一人の人間がこれまでの経験から見出した"一つの"考え方でしかない」という姿勢を保ち続けたい。
断定的な物言いや他の考え方を受容しないような頑なさは、言葉だけでなく、自分の心からもなるべく排除していきたいと思っている。

「絶対に正しい考え」など存在しないし、仮に「正しい可能性がかなり高い考え」があったとしても、僕はそれを人に押し付けたくない。
一番大切なのは、一人ひとりが自分の経験の中で自分なりの学びを見出し、それを尊重しながら納得感をもって歩んでいくことなんじゃないかと僕は思う。

自分の考えの押しつけは、「自分で考え、決め、経験して、体と心で学ぶ」という学びのプロセスを奪い、そして進みたい方向に進もうとする本人の意思を軽視することになりかねないんじゃないだろうか。

「人生」という単位で考えれば、一人ひとり大切にしている考え方があって、一人ひとりがそれに納得しているのなら、何か一つの考え方に統一する必要なんてない。

そんな風に自分も自分以外の人も尊重する姿勢を、ブログだけでなく人生を通して保っていきたいなと思う。
これが二点目のおはなし。

③もっとも大切なのは、「あり方」

これが、今日一番言いたいこと。

②で書いたような話がこのブログには多く登場するけど、「結局のところ、自分が大切にしたいのは"あり方"なんだな」ということを最近つくづく実感する。

仕事で言えば、成果に直結するような知識やスキル、
生活で言えば、暮らしの質に直結するような生活の知恵やお金のIQ,EQなど、

どれも興味がないわけではないけど、一番興味があるのは、

「仕事は、自分の人生においてどんな存在なんだろう」
「その仕事の中で、自分は相手にどんな向き合い方をしたいのかな」
「僕の暮らしの中で、いちばん大切にしたいことはなんだろう」
といった、もう一段手前で、抽象度の高いテーマなんです。

こうした問いは全部「あり方」という言葉で束ねられる気がしていて、どんな場面でも「あり方」を大切にしたい、というのが僕の一つの人生観なんだと思う。
先の②で書いた話も、まさに「このブログを読んでくれる人にどう向き合うか」、「どんな立ち位置でブログを通じてメッセージを発信するか」というあり方の話。

今思えば、「この人はすごいなあ」と湧き上がるような尊敬の念が湧いてくる相手というのは、皆自分なりの確固たる「あり方」を持っていて、それが僕にとって共感できるものだったように思う。
そんな「あり方」の要素を言葉にすると「謙虚」「やさしい」「愛がある」「多様性を受容できる」など安っぽくなってしまうんだけど、体と心は間違いなくその「あり方」に言い表せない魅力で惹きつけられていた記憶がある。

「あり方」は目には見えないし、言葉にするのも難しくて、「あり方」を言語化して意識的に人と交換し合うことも少ないけど、仕事で言えば知識やスキルよりももっと根底の深いところで、確実に仕事の質に影響を与えていると思う。

「人生」という単位で考えても、人生に対する「あり方」に向き合い続けて、それが固まってブレない人は、人生そのものも間違いなく本人にとって豊かなものになると思う。
その生き方が結果として、周囲の人に影響を与えたりするんじゃないか。

僕はこのブログを通じて、「自分がどうありたいか」を様々なテーマや場面で自問自答し、一つずつ作り上げていくのだと思う。

判断に迷ったときほど、一番大切なのは「あり方」。
どうするか、ではなく、どうあるか。

それを見つけるために、対人関係、仕事、人生の3つの分野で自分の「あり方」を問う質問例を載せて、この記事の終わりにしたい。

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〈対人関係での「あり方」〉
「自分は、目の前の相手に対してどんな存在でありたいんだろう?」
「自分は、相手をどんな存在だととらえているのだろう?」

〈仕事での「あり方」〉
「この場面において、自分がいちばん大切にしたいことはなんだろう?」

〈人生での「あり方」〉
「自分は、自分の人生に対してどんな風に向き合いたいだろう?」
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自分の「定点観測」で、心に栄養を。

以前、「"ないもの"ではなく"あるもの"に目を向けよう」という記事を書いた。

叱られたときや物事がうまくいかなかったときに、必要以上に落ち込まないために
・できなかったことより、できたこと
・苦手なことより、得意なこと
と言った具合に、「あるもの」に目を向けることをオススメした。

yudaism.hatenablog.com


今日はそれをより実践的にした、「セルフ定点観測」という方法を紹介したいと思う。


もともとの問題意識

大人になると、周囲から褒められることは少ない。
周囲からのフィードバックはマイナスのものに偏り、「できたこと」より「できなかったこと」、「得意なこと」より「不得意なこと」について指摘される機会が圧倒的に多いんじゃないかと思う。

元から自己肯定感の高い人はまだしも、周囲からこんな関わりが続けば誰でも自信を失う方向に向かってしまう。
「私はあれもできないんだ、これもできないんだ」と数を数えていくほど、「私は価値のある人間なんだ」と思うことは難しくなって当然だと思う。

そんな負のスパイラルを抜け出すための一つのアプローチが、自分で自分を褒めること。
実は僕自身、最初に「自分で自分を褒める」という考え方を聞いたときは「そんなの効果があるわけないじゃん。」と思っていたんだけど、やり方を工夫すれば、子供だましなどではなくちゃんと効果のある方法になる。
その方法が、今日紹介する「自分の定点観測」です。

「自分の定点観測」のやり方 

「自分の定点観測」は、一言で言うと「定期的に自分のプラス面だけを書き留める習慣をつけて、書きながら、読みながらニンマリしましょう」という方法。

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やり方のポイントは3つ。
①定期的に書く
②プラスのことだけ書き留める
③内容を整理しようとしすぎない

この3つが守られていれば、やり方は正直なんでもいい。

ちなみに僕は毎週末1時間位の時間をとって自分の定点観測をしていて、こんな運用にしている。

〈yudai流運用〉
・毎週1回書く。調子がいいときほどサボりがちだけど、そんなときこそ余計に書く。
・「心理面」、「仕事面」、「生活面」の3つの観点でプラスのことを書く。
・書くのは、主に「以前はできなかったのにできるようになったこと」。
スマホからEvernoteに書き込んで、タグ付けをして後々見返せるようにしている
・ファイルのタイトルは「yyymmdd_yudaiの最近の成長」。これで自分の変化が時系列でわかる
・たまに、タグでノートを検索して何週間分かをまとめて見る。1ヶ月分も見返すと、かなりの変化や成長が感じられてニンマリする。 

要は「自分のプラスの側面に目が向き、褒められて脳が喜ぶこと」が大切で、カッチリやり続けること自体が目的ではない。
頻度や書き方は個人個人に合ったものがあると思うので、試行錯誤してみると良いと思う。


「自分の定点観測」を実践するメリット

この3ヶ月ほど実践してみて、僕はこんな効果を感じている。

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・自分のプラスの変化を感じて、前に進んでいる実感が持てる
・頑張っている自分を認めることができ、少しずつ自信が持てるようになる
・それによってモチベーションが上がる
・精神的に苦しいときほど、見返したときに心に栄養が渡って少し回復できる
・叱責やマイナスのフィードバックばかりしてくる人を、「マイナス面しか見ない、視点が偏っている人」だと認識することができる。その結果、以前ほど叱責等によるダメージを受けなくなる
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以前は、受けた叱責の内容を自分自身の頭の中でもリピート再生しており、「俺はこんなこともできないんだ…」と言い聞かせていたんだから、そりゃあ自信が育つはずもない。

プラス面だけ書き出そうとすると、書こうとする時点で一生懸命プラスの事実を探そうとするので、そのプロセス自体が、「"ないもの"ではなく"あるもの"に目を向ける」ための良いトレーニングになる。

慣れないうちはプラスの事実を見つけるのが難しいし、書いていてもこっ恥ずかしい気持ちになるのだが、続けているうちに自然とできるようになるので一度試してみてほしい。

まとめ 

そもそも、大人になるとなぜ褒められることが減るのだろう。
褒められないだけならまだしも、「叱る」という関わりだけが残ってしまうのはなんでだろう。

「大人なんだから褒められなくて当たり前だろう」みたいな最もらしい意見も聞こえてきそうだけど、僕は大人だって人間で、褒められたいものだと思う。
褒められたり認められたりすれば人間の本能的に嬉しくて当たり前。
幼少期に褒められ足りた大人なんてほとんどいないと思うし、「大人なんだから」は理由になっていないような気がする。

この問いを僕なりに考えてみると、叱る側の心にある
・「相手がこれをできないと~(ネガティブな結果)~が起こってしまう」という恐怖心
・人のできないことを指摘して、心理的に優位に立つことで満たされようとする虚栄心
の2つが褒めるアプローチではなく、できていないことを見つけて叱責するアプローチにつながっているような気がする。

逆に言えば、褒めるアプローチは自分自身の心が満たされていないとできないものだと思う。
自分自身が自分を認め、心理的安全が確保されているからこそ、人のこともフラットに認めることができるんじゃないだろうか。

そう考えると、自分自身に心理的な問題(虚栄心や恐怖心)を抱えている人から必要以上の叱責を受けることでダメージを負うのはとても勿体無い。
だからこそ、自分で自分を保ち、必要以上のダメージを負わなくて済むような対処法が必要だと思うし、「自分の定点観測」はその対処法の一つなんだと思う。

自分の心に、いつも優しさと栄養を。

人と「適切な距離感」で付き合う

付き合う相手に応じた、「適切な距離感」というものがあると思う。

誰でも他人に触れられたくない絶対領域(悩み、内面の問題、過去の体験など)を持っていて、そこに足を踏み入れられないように自分を守っている。

その絶対領域の広さは人によって様々で、またその人が付き合う相手によって絶対領域の広さ(どこまでなら足を踏み入れられてOKか)は変動するような気がする。

たとえば、世の中には「この人は自分のことを随分オープンに話すなあ」と感じる人もいれば、「なかなか本音を見せてくれないな」とか「自分のことを話してくれないなあ」と壁を感じる人もいる。
でも、一見他人との間に壁を作りがちな人でも、心許せる友達には自分の内面的な悩みを話せたりする。

こうした絶対領域を侵害し合わないように付き合うのが、「適切な距離感」を保つということだと思う。

人間関係の問題の中には、「適切な距離感」を保てなかったことによって起こるものがあって、それらはたいてい、距離感が遠すぎることではなく、近すぎることによって起きることが多いんじゃないだろうか。

今日は、相手と自分の絶対領域を知り、人と適切な距離感で付き合うためのヒントについて2つの視点から書いてみたい。


視点①:人から距離を詰められすぎないための方法

必要以上に人から距離を詰められたり、こちらの気持ちを理解しないまま乱暴なことを言われたりして傷ついた経験はないだろうか。

もし思い当たる経験がありそうなら、次の問いについて考えてみてほしい。
「過去に戻れるとしたら、その人と適切な距離を取り、傷つけられないためにどんなことができただろうか?」

あくまで僕の考えだけど、そんなときの対処法は2つあると思う。
(どちらの方法も、実際に試してみて効果があった)

一つは、その人とあまり付き合わないこと。
もう一つは、「あなたに○○と言われたことで私は傷ついた。本当はもっと○○してほしい。」など、距離が近すぎたことで自分が不快に感じた事実を率直に伝えて相手に距離を取ってもらうこと。

個人的には、まずは後者を試してそれでも解決しないようなら前者を取るのが良いと思う。

ただ、後者の方法はとてもエネルギーがいるし、第一非常に難しい。
まずは自分が感じたことを把握できないといけないし、それを言語化する作業も必要。
言語化したものは相手に伝わりやすい形に整理・変換する必要もあるし、実際に面と向かって相手に伝えるための勇気もいる。
そう考えると、いきなり前者の方法を取るのもいいと思う。

悩ましいのは、相手が仕事の上司など、付き合わざるを得ない立場にいる場合。
こうした場合は、(完璧でなくとも)後者の方法を取らないと自分が苦しくなってしまうと思うけど、相手にどこまで伝わってどこまで行動を変えてもらえるかわからないのが苦しいところ。
そもそも距離感をわきまえずに接してくる相手である時点で、言葉で伝えても伝わりきらない可能性が(経験上)高いような気がする。

「何を言われても受け流す(聞く耳を持たない)」という最終手段もあるが、これはできる人・できない人がいそうなのでなんとも言えない…
周囲の人に傷ついた体験を話すなどして傷を癒やしながら、なんとかその人と距離を取れるといいのだけど。。


視点②:人に踏み込み過ぎないための方法

逆に、人の絶対領域に足を踏み入れないためにはどうすればいいのだろう。

現実の場面でも、仕事上の関係などで相手に踏み込んだ言葉をかけなければいけないときは非常に難しい。

 

マインドセット寄りの話になってしまうけど、僕は

・まだよく知らない相手に対しては、基本的には相手からの自己開示を待つこと。相手を知ろうとする動き(踏み込んだ質問など)は、相手の不快感を感じ取ったら引っ込めること。

・付き合いのある相手に対しては、他人の心情や考え方・価値観を想像するものの、どこまでいっても100%想像しきることはできないと限界をわきまえること(相手を理解していると傲慢になる程、決めつけで的外れかつ相手を傷つけることを言いかねない)

・踏み込んだ言葉をかけなければいけないときも、相手が傷つかないよう、言葉のチョイスや言い回し、タイミングに最大限配慮する

の3点に尽きると思う。

 

それでも相手が傷ついてしまうこともあるだろうけど、そんなときこそ相手に真摯に向き合いきって、その後同じことを繰り返さないようにしたい。

 

まとめ

「適切な距離感」の観点でいうと、傷つくのはいつだって繊細な心を持った人だと思うし、その点は非常に理不尽だと思う。
でも他人の気持ちに鈍感な人は、傷つきにくい分、知らないうちに誰かを傷つけているかもしれない。

そう考えると、ときに傷つきやすさにつながる繊細な心は、「他人の気持ちがわかる」という強みとして現れるときがあることは、忘れずにいたい。

「適切な距離感」という一側面を切り取ってもそこには色々なタイプの人がいる。
その多様さを受け入れ、一つ一つの多様性を尊重しながら、自分と相手にとってベストな距離感で関係性を作れると素敵だなと思う。

直観が呼び起こされるDVD、『はじまりの記憶』

5年ほど前に友人の紹介で知った映画、『はじまりの記憶』。
今日はその紹介です。

『はじまりの記憶』は杉本博司さんという現代美術家の半生を描いたドキュメンタリー映画で、杉本さんの人生と世界観が実に豊かに伝わってきます。

杉本さんは日本ではそれほど名を知られていないものの、ニューヨークを始めとしたアメリカのアート業界では非常に名の知れた人気美術家。

『はじまりの記憶』は言葉では言い表せないほど素晴らしい映画で、観た後に残るものはいわゆる「映画」という媒体から受け取れるもののレベルをはるかに超えています。

はじまりの記憶  杉本博司 [DVD]

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この映画を最初に観たときの率直な感想

渋谷の小さな映画館で初めて観て以降、強烈に惹かれるものがあり、結局僕は映画館に計3回足を運びました。

初めてこの映画を観たときの僕には、この映画や杉本さんが発しているメッセージがスムーズに理解できず、それでも「なにか、人生においてものすごく重要なことを言っている」という感覚だけあって、とにかくメッセージをきちんと受け取りたい一心で何度も観に行きました。

よく、本を読んだり映画を観たりした後に「深い学びがあったな」と思うことがあると思います。。うまく言葉にはできないけど、少なくともその本を読んでよかった、その映画を観てよかったとは断言できる…、そんな言いようのない良い後味。

この映画は、その後味だけで終わらせるには、あまりにもったいないものです。
「感じ取った学びを自分なりの言葉にできるくらい、きちんと消化したい」と強烈に僕に感じさせる何かが、この映画にはありました。

 

映画の見どころは、宝物のような言葉の数々

映画は基本的に、杉本さんが作品の製作に向っている場面やインタビュー取材、ナレーションで構成されています。

近年の杉本さんが作るアート作品はすべて、「人間一人一人の個人史を超えた先にある、人類共通の記憶」をテーマにしていて、他のアート作品にはない独自の世界の切り取り方があります。
作品自体の面白さもさることながら、そのテーマを見出すまでに杉本さんが踏んだ思考や興味関心、学びの変遷が、とにかく深くて面白い。

一番の見どころはなんといっても、随所に散りばめられている杉本さん本人の言葉、そしてナレーションの言葉です。
ボーっと聞いていたら消化できず流れていってしまうような深い言葉の数々は、ハッとするものが多く、普段の生活では刺激されない感性を刺激されるような感覚があります。
中でも僕の印象に残った杉本さんの言葉を、いくつか紹介します。

 

「アートとは、目には見えない精神を物質化するための技術」

「資本主義というのは、ある意味では動物界における人間の特権的エゴが特に強調される、自然との関係の中ではこれは“食い尽くさなければ生き残れない”という過酷なシステム。これから人類が自然との関係の中でどうなっていくのか、という問題は非常に危機的な状況になって、誰もこうしたらいいんじゃないか、という世界の人々が合意できるような美しい理想というのはどこにもなくなっちゃった。」

アートというのが人間に残されている最後のインスピレーションのソースではないかと思うんですよね。ですから、これからますます重要さが増す。政治的な意味でも、科学的な意味でも、宗教的な意味でも。人間の考える力が一番保持されているものがアートであって、そういう力をまだ保っている人がアーティストと呼ばれるんじゃないかと思うわけですよね。」

「昔、日本人が自然との共生関係にあったような、そういうようなその関係性をもう一回こう、資本主義のなかで再構築できるのかどうか。こういう形で日本的な感受性というものを感じてもらえるような装置を作るのが僕のアートかもしれない。」

招かれるがままというか、呼び寄せられるっていうか、お前がやれって言われてるような気がすることをずっとやってきているわけなんですよね。やるべき程のことが あるのかっていうことですよね。」

「見るべきものは見つ、っていう感覚を、僕は死ぬときにそう思いたいですよね。」

「絶対に究明できない状況の中に我々は産み落とされてしまってると思うんですね。わからないのに、探求装置だけつけられて、答えは絶対にわからないっていうシステムが埋め込まれてるっていうような気がするんですよ。そういう人生を与えられてるわけですよ。」


こうした言葉に触れて、僕は長年疑問に思ってきた「なぜ人々はアートに惹きつけられるのか」の一つの答えが見えたような気がしました

本来、人間には元々「考える力」が備わっていて、それに従って生きるときに人間はより豊かで、本質的な「生」を生きることができるんだと思います。

ここで言う「考える力」とは思考力ではなくてインスピレーション(直観力)。
インスピレーションの力と、それを形にする技術を保持する人がアーティストと呼ばれ、人々はアーティストの作品に触れることで、アーティストの得たインスピレーションを疑似体験するとともに、自らがインスピレーションを得るための刺激を得る、ということなのかもしれません。

アートに触れる人の心には、単に「美しいものに触れたい」だけではなく、もっと深いものにアクセスしたいという欲求があるような気がします。
人間は皆根っこでは「より良い“生”を生きたい」と願っていて、より生きる方向に向かうためにアートに触れようとするのではないでしょうか。


『はじまりの記憶』を観て得られるもの 

なぜ飽きもせずこの映画に惹かれ続けるのか、その理由を考えながらこの5年間を過ごしてきました。見るたびに新たな気づきを得、それをノートに書き溜めてきました。最後にそれを共有して終わりたいと思います。

僕というサンプル数1人の感想でしかないのですべての人に共感してもらえるとは思いません。ですが少なくとも僕は観終わった後にこのようなものを得ることができ、これが『はじまりの記憶』に強く惹かれた理由でもあります。

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  • 杉本さんの大きな世界観に触れて、自分の知覚が拡張したような、自分の世界の境界線が押し拡げられたような不思議な感覚を覚え、心理的な囚われが外れる気がする。これは、「自分が気を向けている日常の問題がいかに非本質的で小さなものかを自覚することができる」というレベルの感覚ではない。言葉にするのが難しいが、「自分の人生の中で最も重要なものにアクセスできる」くらいの強烈な感覚がある。
  • 後期資本主義経済の中で、一人の人間としてどのように生きていくか、どのように自然が共生していくかを再考する機会を得ることができる
  • 杉本博司さんという一人の人が、自分の興味関心を、自由に解放している生き方に感銘を受ける。楽しそうに、ひたむきに自分の興味関心を深めていき、それが結果としてアーティストとしての仕事となり、充実した人生を送る杉本さんを見て、何か勇気付けられるものがあった。
  • 自分という人間が今生(こんせい)で果たすべき使命・役割は何なのかをキャッチしようとするアンテナが立った
  • 自分自身が生まれ持ってきた「人生の設計図」を思い出せるような気がする
  • 自分の無意識、さらには人類共通の集合的無意識のようなものにアクセスできたような不思議な感覚がある

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アートのように言葉で価値を表現することが特に難しい領域があるのは感じていましたが、今回これだけの字数を費やしてもこの映画の内容や魅力、僕が受け取ったものは100%言語化することができていない感覚があり、非常にもどかしく感じています。
(杉本さん、映画監督をはじめ制作スタッフの皆さんの凄味を感じます)

人によって好き・嫌いや興味関心のある・なしや相性はあると思いますし、一概にすべての人にお薦めはできませんが、僕の感性で「この人は興味を持つかも?」と思った人には直接薦めることにしています。

レンタルビデオ店などでは入手できないかもしれませんが、機会があればぜひ手にとってみてください。

「自分に自信が持てる仕事」をしよう

世の中には2種類の仕事があると思う。

自分に自信を持てるようになる仕事と、自分に自信を失っていく仕事。

僕の肌感覚でしかないが、(僕も含め)自分に自信を失っていくような仕事から離れられないでいる人がとても多い気がする。
自分に自信が持てるような仕事に就いている人は少数派じゃないかと思うけど、確実にそういう人は存在する。

今日は、仕事というものをこの2つの側面から眺めてみたい。


自分に自信を持てるような仕事に就くこと

仕事は、自分を表現して「最高の自分」に近づくための一つの手段だと僕は思う。

自分の強みが生かされ、それを人に分かち合うことで人から喜ばれ、その結果として生活の糧も得られる活動が本来の「仕事」。

天職に就き、仕事を通じて眩しいくらいに輝いている人はよく「私は“お前がやれ”と言われている気がするようなことをやっているだけ」と言う。
「天の配材」とも呼べるような場所に身を置き、自分の使命と自己表現の場が重なり合う場所で仕事をすることが、どれだけ高額な報酬にも代えられない最高の報酬になるんだと思う。

「そんなのは綺麗事だ!」という批判は何度も聞いてきたけど、その人にとってはある意味それは真実なんだと思う。
「そんな世界なんて存在するわけがない」と思っているから実際にその思考通りの世界が実現しているだけで、「仕事を通じて自分が表現でき、働いていて楽しくて仕方がない世界が存在する」と本気で思っている人にはそうした世界が吸い寄せられる。

仕事という存在を自分の好きなように定義でき、そのマインドセット一つで仕事から得られるものが変わるとしたら、自分はどんな意味を仕事に与えたいだろう。
人生の大半の時間を費やす営みだからこそ素敵な、心満たされる時間にしたいと、僕は思う。


「自分に自信を失っていく仕事」から離れられない構造

しかし現実には、世の中には自分に自信を失っていくような仕事が溢れている。

歴史を遡ると、原始の自給自足生活から、貨幣経済が生まれ文明が発達して仕事が分業体制の色合いを濃くしていく中で、仕事は組織単位で行うものに変わってきた。
個人目線で見ると、仕事は自ら選んだりその中身をデザインするものではなく、パッケージ型で組織から与えられるものへの変遷を遂げていると思う。
そのパッケージは組織の都合で作られたものであり、その中には自分の好まない要素も多く含まれる。

「自分に自信を失っていく仕事」とは、仕事を構成する要素の中で自分の好まないものが多く含まれているものだと思う。
最たるものがこの5つで、これらの要素の含有率が高いほど、仕事の時間はより苦痛を伴うものになる。
-------------
・苦手なこと
・嫌いなこと
・やっていて辛いこと
・価値を感じないこと
・自分の倫理観に反すること
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こうした要素が多く含まれている仕事で、自分自身という一人の人間を表現することは難しい。
「私はこんなこともできるんだ!」
「私にはこんな強みがあったんだ!」
などという前向きな自己発見や、自信の向上もかなりしづらいと言っていい。

このような仕事を通じて報酬を得ても、それはどこか苦しいことをした代わりに支払われる慰謝料のようで、湧き上がるような喜びは少ないような気がする。

皆薄々このことは感じているし、気づいているんじゃないかと思うけど、そんな仕事から離れられないのはどうしてだろう。

理由はいくつか考えられるけど、今の仕事を通じて自分を表現できず、自己評価が下がることによって
「この仕事を辞めたら他の仕事に就けるんだろうか。誰か自分を必要としてくれるんだろうか。」
「自分なんて、仕事を変えたとしても給料がガクッと下がるのが関の山だ。家族を養っていけるんだろうか。」
などの待遇面の不安が大きいんじゃないだろうか。

不安が大きければ大きいほど人は目の前の仕事や環境にのめり込んで、自分の身を守ろうと必死に働く。
目の前の仕事に一生懸命取り組むこと自体はとても良いことだと思うけど、不安から生まれるこの一生懸命さが自分の視野を狭め、
「この職場以外に自分を必要としてくれる場所なんてないんじゃないか」
などと感じさせてしまう側面もあるような気がする。


まとめ

どうすればこうした不安から抜け出せるのか?
このテーマは書き始めると相当なボリュームになりそうなので別記事にまとめたいと思う。

ただ、今回一つだけ言いたいのは、自分の「市場価値」という概念を過度に気にしなくていいということ
人についても「市場価値」という言葉が使われるようになって久しいが、これはマイナスに働くと人の不安感情を煽る危険な言葉だと思う。

人という一つの生物。合理も非合理も、言語も非言語も持ち合わせている多様で流動できな存在である人が、「人材」という名の経営資源だという、極めて一面的な切り取られ方をする。
そこにあるのは経済合理性の追求であり、人という生き物の根源的幸せの追求ではない。人の幸せを願うやさしさや愛は、そこにはない。

「市場価値」という言葉は、どこかの転職支援会社が人々の不安を煽り、自社のサービス発展のために作り出した恣意的な言葉のような気がする。

自身の市場価値を高めることを目的にした自己研鑽の多くは不安を起点にした行動であり、前向きな「ワクワク」や魂の喜びを起点にした行動と違って毒にもなりうる。

市場価値という概念は「自分に自信が持てる仕事」や「仕事を通じて自分が好きになれる、満たされる」といった世界観とまったく別軸の、一面的な考え方に過ぎないことは胸に刻んでおきたい。

 

今回は、どうせ働くなら自分に自信が持てるような仕事をしたほうが幸せだし楽しい、ということが書きたかった。
現在、僕自身が今の仕事を続けていくかどうかの帰路に立っていることもあり、ここでのまとめを実践しながら、また気付きのサイクルを回していきたい。
「どうすればこうした不安から抜け出せるのか?」の続きは、また別記事のお楽しみに。

人の心の成長の3ステップ

2週間ほど前のカウンセリングで、人間の心の成長にまつわる面白い事実を知った。

話のポイントは2つ。
・人間の心には2つの矛盾した欲求がある
・人間の心の成長には大きく3つのステップがある

今日はこの2つのポイントについて書いてみたい。


人間の心の奥にある、2つの矛盾した欲求

カウンセラーから教えてもらったのは、人間は“他人との違いを受け入れたい”と思う一方で、“他人に自分のことをわかってほしい”と思ってしまう生き物だということ。
“多様性”と“同質性”をめぐる矛盾した欲求とも言える。

後者の欲求は簡単に想像できると思う。
「私の話を聞いて」
「私の痛みをわかって」
などと思ったことがありません!なんて人はいないだろう。

前者の欲求は、ある人・ない人がいるかもしれない。
この欲求があるのが良い・悪いではないけど、人は心の成熟が進んでいくと人は“他人との違いを受け入れたい”という欲求をもつものだそうだ。
この段階は、人は他人と自分の違いに敏感に気づき、ある意味でそれが「気になる」状態。
ここからさらに成熟が進んでいくと、“他人と自分の違い”が気にならなくなり、呼吸するように自然と違いを受け入れることができる段階が来るらしい。


人間の心の成長の3ステップ

この話を整理すると、人間の心の成長には大きく3つのステップがあるのだと思う。
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①まず、人と自分に「同一性」「同質性」を求める段階
②次に、人と自分の「多様性」「違い」を知り、受け入れようとする段階
③最後に、人と自分の「多様性」「違い」が当たり前に受け入れられる段階
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先の2つの矛盾した欲求は、②の段階で生じるものなんじゃないかと思う。

僕自身は、大学時代に①の段階におり、社会人になってから②の段階に差しかかった。
当時の自分は、距離の近い家族や恋人に対して「なんで俺のことわかってくれないんだ」という不満を持っていて、その背景には「言葉で言わずとも、相手に自分の気持ちを察してほしい」という期待があった。
他にも「普通はこう考えるでしょ!なんでそうしないの?」という怒りも含んだ押し付けをするなど、相手と自分の考え方や判断の違いを許すことができなかった。

今思えば、「“他人と自分の違い”を受け入れること」ができれば、この種の苛立ちは起きることがなかったと思うけど、これが言うは易し、やるは難し。
この壁を乗り越えられるか否かで人間関係をめぐるストレスは減り豊かさは増すとわかっていながらも、意識するだけでできるようには到底ならない世界。

今も僕はまだ②の途中にいるが、②を乗り越えるためには想像以上にきちんと段階を踏まなければいけないことに最近気がついた。
その詳細はまた別記事に切り出そうと思うが、今の段階で一つだけ言えるのは、「自分自身の心の状態を客観的に俯瞰しようとする姿勢と力」が必要だということ。
①から③の段階に進むためにはまず自分がどの段階にいるのかを把握する必要があるし、自分の内面の弱さを直視するためにもこの要素は必須だと思う。


まとめ

人は皆、自分を理解してもらいたい・受け入れてもらいたいという欲求を持っているけど、それ自体は本能に近い当たり前の欲求なんじゃないかと僕は思う。

「誰にも認められなくたっていい」と思っている(また周りからそう見える)人も、「理解してもらいたい」という気持ちはゼロではなく、比較的その欲求が弱いだけの話ではないだろうか。

理解してもらいたい欲求が強すぎると、他人の同じ欲求に応える余裕がなくなってしまうけど、自分の欲求と他人の欲求の間で揺れ動きながら、人は体験的に「“他人と自分の違い”を受け入れること」の必要性を学ぶものなんじゃないかという気がする。

日本人なら特に「自分の話ばかりするな」とか「人の話も聞け」とか言われた経験があると思うけど、それに縛られすぎることなく、自分を受け入れてほしいときは「ちょっと話を聞いてほしいんだけど」と人を頼ること、そして相手に受け入れられることで安心したり心のつながりを感じたりすることも、人間ならではの尊い営みなんじゃないかと思う。

"自分の器"から溢れない範囲で

以前、心を病んで休職経験のある人から印象的な話を聞いた。
その話は休職経験者だけではなく、働くすべての人に当てはまる普遍的な話だと感じたので、今日はそれについて書いてみたい。

 

休職経験者からもらった言葉(引用)

バイアスがかからないように、その人にもらった言葉を記憶の限りそのまま引用する。

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「私は休職した経験から、今は絶対に自分の器以上のエネルギーを使わないことにしてるんです。
自分の器以上のエネルギーを使うと、その無理は必ず大きなひずみとなって自分に跳ね返ってきて、結局家族や会社に一番迷惑をかけることになる。

私の場合、一番エネルギーを使うのは人との関わり。
人と関わる量や時間のボリュームはが大きすぎると疲れてしまう。だから仕事が終わったらまっすぐ家に帰るし、仕事の飲み会や付き合いは一切断っています。

あと、家に仕事を持ち帰ることもなくなったね。
持ち帰ってまで仕事をすると、自分の器以上のエネルギーを使ってしまう。休みの日に仕事のことを考えたり仕事に手をつけたりすることはやめて、今は100%目の前の余暇に集中しています。

人付き合いも休日の仕事も、やめると決める前は怖かったよ。
人が離れていくんじゃないかとか、仕事がうまく回らなくなるんじゃないかとか。

でも、実際そんなことは起こらない。仕事も人間関係もちゃんと回っているし、むしろ、"あの人は休日の仕事や人付き合いをしないと決めている"と周りが認識してくれて、その範囲内でしかお願い事をしないでいてくれるんだよね。やる気がないとかではなく、休職経験からそういう判断をしているんだというのもわかってくれている。だから、休職前のがむしゃらに働いていたときよりもだいぶ心身ともに楽なんだよ。」
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どの部分が一番印象に残っただろう?
この話から、何を感じただろうか?

 

まずは"自分の器"を知る

僕が一番印象的だったのは、"自分の器"という概念だ。

人にはそれぞれエネルギー保有量のようなものがあって、100%調子が良い状態でも、その絶対量は人によって違うような気がする。
一日20時間活動して平気な人もいれば、10時間で疲れてしまう人もいる。

また、「何をすることでより大きなエネルギーを消費するのか」も人によって違う。
人との関わりで疲れやすい人もいれば、座っているのが苦手でデスクワークで疲労困憊する人もいる。

自分自身について、この
・エネルギーの量
・エネルギーを消費しやすい活動
の二つを把握しておくことは、限界を超えて疲れてしまわないためにとても重要なんじゃないだろうか。

僕の経験上、限度を超えた疲労は積み重なると体そのもののシステムダウンにつながるし、そうなれば心へのダメージも半端ではない。

エネルギー量が多いから良いとか、消費しにくいのが素晴らしいとかいう話ではなくて、どんなエネルギー量、どんなエネルギー消費パターンを持っていたとしても、それを自分の個性として知ってその範囲内で活動することが大事なんじゃないかと思う。
(と言いつつ、本音ではエネルギー量のある人がうらやましいけど。。)

 

"自分の器"を把握した後にやること

「これくらい活動すると疲れすぎてなかなか回復できないなあ」とか、
「休みたいけど休めないような気持ちになってるってこと自体、自分の器以上のエネルギーを使おうとしてるんじゃないか」とか、
まずは、自己対話を深めながら"自分の器"を知っていく。

その後にやることは、「やるべきことの優先順位付け」。
仕事でもプライベートでも、絶対に外してはいけないことと、外しても大事に至らないことを見分けていく。

いくつもの「やらなきゃいけないと思っていることリスト」の中で、
「AとBだったらAが優先、BとCだったらBが優先、だからA,B,Cの順に優先順位が高いな」
などと優先順位をつけて、高いものから順に、自分の器の範囲内のエネルギーで処理していく。

僕自身、この方法を取り入れてかなり生活が改善した。

Beforeの状態は、毎週末は平日の疲れで家を一歩も出られなかったが、Afterでは土曜日の午前中いっぱい眠れば午後は出かけられるくらいになった。笑

僕の場合、エネルギーの絶対量が同僚や上司より少ないことや人一倍エネルギー消費が早いことがわかったのがスタート地点だった。
中でも最もエネルギーを使うのは気を使う人付き合いだということ、エネルギーを週の前半で使い切ってしまい後半はガス欠になることもわかった。

それから、
・週の前半は夜に人と会う予定を入れないこと
・1週間の夜の予定を制限すること
・土日のどちらかは一人で過ごす時間を確保すること
などを実践したことで限度を超えた疲労が溜まることが少なくなった。

今日書いたのは概念的な考え方だけで、具体的なやり方は人それぞれ適した方法があると思うけど、何かの参考になればうれしいです。 

どうすれば人に"やさしく"在れるのか?

以前のエントリーで、「“やさしい”人は相手がありのままで"在ること"を認め、相手を自由にする」と書いた。 

yudaism.hatenablog.com


そんなことを考えていた矢先、人との新しい出会いを通じて新たな気付きがあった。
それは、「どうすれば人に“やさしく”在ることができるのか」
今日は、その方法について書いてみたいと思う。

 

22歳の新社会人から受けた影響

先日、出会った人は僕より7つ年下で、今年新社会人になる男性。
彼は思春期を海外で過ごしたこともあり、ものの考え方に「檻」のようなものがなかった。

彼の発言で最も驚いたのは、
「僕は日本で仕事に疲れたり、日本で行き詰まったら、最悪海外に逃亡すればいいと思うんですよ。たとえばカンボジアなんて、お金がなくても心が豊かな人がたくさんいて、愛情を感じながら幸せに暮らしていけますよ。」
という言葉だった。

これを聞いて、僕の頭は
「海外で仕事に疲れて最悪日本に帰ればいいや、だったらまだわかるけど逆って…」
「そこで国境越えちゃうという発想すごい…」
など、ツッコミで満載だった。
そしてこのツッコミそのものが、僕がどのような「檻」(≒心理的な囚われ)を持っているかを教えてくれた。

「日本でやっていけないなら、海外に行ったら余計難しいだろう」
「日本で仕事に行き詰まったら、日本国内で別の仕事を探すしかない」
など、僕の頭は色々な囚われでいっぱいだったのだ。

 

心理的な囚われのない人は、相手の心を自由にする

彼と話していて、僕は自分の中にあった「檻」や「境界」がググッと押し拡げられるような感覚を覚えた。
心理的に自由になったような、自由であることを許されたような、不思議な感覚。

実際に心理的自由を手にしている(と見える)人と触れ合うことで、「自分自身の心も自由にしていいんだよ」と許可をもらったような感覚があって、それは心地よいものだった。

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ここから学べるのは、人の心を自由にできるような「やさしい」存在であるためには、まず自分自身の心を自由にできなければいけないということ。

それにはまず、自分の持っている心理的な檻(囚われ)に気付かなくちゃいけない。
そして、恐れを乗り越え、その檻を手放す必要がある。

檻はある意味「この中にいればあなたは安全だよ」と自分の安全を確保してくれてきた防衛役なので、実際に手放そうとすると不安や怖れを感じると思う。

それでも、自分の中に心理的な檻が存在する限り、失うのが怖い大切な誰かに対しても、その檻を当てはめようとして
「それをやったら危険だ」
「こうした方がいい」
などと口を出して相手を縛り付けてしまいがち。
(親の子どもに対する叱責を思い浮かべれば、想像しやすいと思う)

これは“相手が傷つくのを見たくない”という自分の恐怖心ゆえであり、ある意味”相手が傷つくまい、失敗するまい”とする優しさなのだけど…
これが結果的に相手の自由を奪ってしまうのだから、なんともやるせない。

真に相手を尊重したいと思うのならば、相手への小手先の言動・行動を変えるのではなく、自分自身の心理的な檻を手放すのが本質的アプローチなんだと思う。

 

自分が「できること」でしか、人には影響を与えることができない

先の通り、人の心を自由にできるような「やさしい」存在であるためには、まず自分自身の心を自由にできている必要がある。

この話は、
人前で講演する講師や、研修講師の話と似ている。

よく言われる話なのだけど、研修講師は、受講者に教えるコンテンツを誰よりも身につけている存在でなければいけない。

受講者が「この人の話を聞こう」とマインドセットできるのは、何より研修講師自身がコンテンツの一番の使い手であり、それを使いこなして成果を出していること。

営業スキルの研修で言えば、その営業スキルを完璧に身につけ、実践して、実際に営業成果を出した経験のある講師は、言葉の重みや醸し出す説得力が全く違う。

何が言いたいかというと、
「自分自身の持っているものしか、人前で表現することができない。」
「自分自身の持っているものでしか、人に影響を与えることができない。」
ということだ。

頭で理解している「知識」を言葉にするだけでは、相手には影響を与えられない。
体に血肉となって身についているものだけが、全身からにじみ出る雰囲気となり、相手に影響を与えるのだと思う。

このブログのタイトルは「心を自由にするブログ」。
そのコンテンツの発信者である僕自身が、まず自分の心を自由にできるよう精進していきたいと改めて思った。

今回、自分の持っている心理的な檻(囚われ)を手放す方法について詳しく考えることはしないけど、それはまた別記事で取り上げたいと思う。

「人の話を聞くこと」は、実はとても難しい

自分の話を、相手が理解してくれたと感じるのはどんなときだろう。
逆に、人の話を聞いて僕たちが「理解できた」と思うときはどんなときなんだろうか。

「ああ、わかった」とか、
「なるほど。~ってことでしょ?」とか、
僕自身も安易にそういう反応を返してしまうことがあるけど、最近そんな反応にふと違和感を感じたので、今日はその感覚を掘り下げてみたい。

 

人とのコミュニケーションでは、言葉の限界が常にある

結論からいうと、他人の痛みを100%理解することができないのと同じような構造で、他人の話からその人が伝えたいことを100%理解することも非常に難しいと思う。

相手の話を僕たちが受け取るまでの過程を整理してみると、

ーーーーーーーーー
①話し手に、伝えたい事象が発生

②話し手がその事象を言葉にして、受信者に伝える

③発信者の言葉を自分(聞き手)なりのフィルターを通して咀嚼する

④聞き手から話し手に、「理解できた」と意思表示をする
ーーーーーーーーー

の4つのステップがある。

この4ステップで起きていることを虫眼鏡で見てみると、
まず①→②の段階で、話し手が言葉にできなかった感覚や想いは言葉上から削ぎ落とされてしまう。

②→③の段階でも、聞き手に伝わるのは「受信者のフィルターを通した」話し手の言葉であって、話し手が言葉に込めた意図や想い、ニュアンスや温度感がそのまま伝わることは難しい。

大抵の場合、この2つの現象は見落とされたまま④の作業にたどり着く。(④が丸ごとナシ、なんてこともよくある)
①→②、②→③で削ぎ落とされてしまったものの存在と大きさに、話し手は④の作業を通じて初めて気付くのだが、大抵それはぼんやりした違和感を残したまま言語化されないうちに通り過ぎていってしまう。

これはどちらが悪いわけでもなく、「言葉」というツールの限界なのだと思う。
僕たちは言葉にできないものは伝えられないし、言葉で表現されないものは理解するのが難しい。
表現しようとしても、自分が持っている言葉の引き出しでは表現しきれずに削ぎ落とされていってしまう想いは、言語化能力を高めるほか、相手に伝える方法がない。

 

ここでも大切なのは、他人の話を聞く上での「あり方」

話し手の伝えたいことが100あるとして、実際に聞き手が受け取れるものは果たしてどれくらいなんだろう?

「そもそも、100全部受け取る必要なんかないんじゃない?」とか、
「ポイントだけ理解できてれば問題ないでょ」とか、
色々なツッコミが聞こえてきそうだけど、

ここで僕が大事にしたいのは「発信者の表現したいものを100%受け取ることができていないことを自覚し、なるべく100%受け取れるように努力すること」だ。

相手が伝えようとしたものを、自分の過去の知識や、他の誰かに聞いた話と結びつけてパターン化し、「ああそういうことね、わかったわかった」と反応するのは、とても勿体無い。

なぜなら、パターン化した瞬間にパターンには当てはめきれないポイントは理解の外に追いやられて学ばれることなく終わってしまうから。
その受け止め方を目の当たりにした相手も、きっと自分の話が受け止めてもらいたいように受け止められなかった虚しさを感じるんじゃないだろうか。

 

「他人の話を聞いて学ぶ」ための具体的ポイント

「あり方」の話だけでは抽象度が高するので、具体的なHowについても僕の考えを書いてみたい。

重要なポイントは2つある。
ひとつは、言葉の奥の背景に耳をすませること。
そしてもうひとつは、「相手の言葉」で理解すること。

一つ目のポイントは、先の4ステップの①の過程に配慮したものだ。
言葉をそのまま受け取ることは誰にでもできるが、その奥にある背景や心情を汲み取ることは意外とできる人が少ない。

「この言葉を発している背景には、どんな背景や心情があるんだろう?」
「自分が相手と同じ状況に置かれてこの言葉を発しているとしたら、そのとき自分はどんな気持ちなんだろうか?」
など、想像力を働かせて相手の気持ちを汲み取ろうと努力すること。

これらの問いの答えには、自分のフィルター(ものの見方)が入っていて問題ない。
「同じ状況に置かれたとしたら自分ならこう感じるけど、どう?」などと、自分なりの想像力を働かせた結果を相手に確認すればいい。

仮にその仮説が芯を外していたとしても、こんな風に質問されたらきっとうれしい。
仮説の内容そのものよりも、あなたの「自分の気持ちを理解しようとしてくれている」という姿勢そのものに、話し手は癒やされるんじゃないだろうか。

さらに注意するとすれば、「相手の言葉」で対話することじゃないかと思う。
たとえば、「理不尽」という言葉について、何を理不尽と感じるかどうかの基準や理不尽の定義は人によって様々だ。

相手の体験談を聞いて「確かに理不尽だな」と思ったとしても、それは自分の「理不尽」の定義を通して感じ取ったものかもしれない。
相手が何を、どのように「理不尽だ」と感じたのかを確認する作業を丁寧に積み上げれば、相手の言う「理不尽」を上手に自分の言葉に組み込んで、相手の気持ちを代弁したり理解を示したりすることができる。

ここまでやろうとすると、人の話をきちんと聞くにはかなりの集中力やエネルギーが必要な気がしてくる。
すべての人にここまで丁寧な向き合い方はできないかもしれないけど、こういう目に見えない気持ちの動きに気づけるような、心のセンサーは持っておきたい。

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