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ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。二度の休職を経験した筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

他人の痛みにどう向き合うか?

-他人の痛みに100%共感することはできるか?-

この問いに、あなたなら何と答えるだろうか。
きっと多くの人が"NO"と答えるんじゃないだろうか。

 

他人の痛みに100%共感することができない理由

人には誰しも心の状態の良いときと悪いときがあって、状態の悪いときは誰かに話を聞いてもらい、「うんうん、わかるよ」とか「あなたの言うことは最もだと思うよ」とか言葉をかけてもらいたいもの。
自分のことをまったく理解されなかったり共感されなかったりしてもへっちゃら、なんて人はきっといないと思う。

逆の立場で、もし目の前に弱っている人がいたら、僕も当然何か力になりたいと思う。
もし相手が求めていることが痛みへの共感なんだとしたら、できるだけ共感しようと努力するだろう。

それでも、残念ながら、どこまでいっても人には他人の痛みを100%理解することはできない。

「自分と他人は違う」とか、「人って多様だよね」なんて使い古された言葉があるけど、その言葉の意味するところは本当に深い。
「多様」の中身を具体的に挙げてみるだけで、
・指向
・価値観(人生観、仕事観、価値観…)
・考え方
・衣食住の好み
・人との距離感
など数えきれないほどあり、その一つ一つについて、さらに幅広く奥深く多様さが存在する。

それだけ何もかもが違う、異なる人のことについて、その人が感じたのとまったく同じように痛みを感じるのは、どうしてもできない。
もちろん相手のためになるなら100%共感したいと思うけど、がんばってもできないものはできない。

 

他人の痛みに100%共感できなくても、「どう在るか」は決めることができる

そこで、ある人は「どうせ100%共感することなんてできないんだから、共感しようとすること自体無駄でしょ」と諦める。
でもまたある人は、「100%は無理でも、できるだけ共感できるように努力したい」と考える。

何が言いたいかというと、他人の痛みに100%共感できないとしても、相手に対して「どう在るか」は自分で決めることができるということ。

「どう在るか」の選択肢をざっと挙げてみるだけで、

  1. 「どうせ100%共感することなんてできないんだから、共感しようとすること自体無駄でしょ」と諦めて、相手の話を聞くことすらおざなりにする
  2. 「100%は無理でも、相手のためになるならできるだけ共感できるように努力したい」と考え、相手の話に耳を傾ける
  3. 「共感するのは無理だけど、相手が感じたことを緻密に理解して、受け止めたい」と考え、相手の話に耳を傾ける

など、色々なものがある。
そこには正解はないし、僕は「こうあるべき」と自分の考え方を押し付けるつもりもない。
あるのは「自分はこうありたい」という自分の軸だけで、僕の場合それは2や3に近い。

前提として、僕は「他人の痛みに100%共感することはできないこと」や、「他人の痛みに100%共感することができない自分という人間」を認めて、受け入れている。
相手がこちらになるべく強い共感を求めているのであれば、相手の性格や考え方・感じ方をできる限り想像して共感しようと努めるけど、きちんと限界をわきまえて「100%共感できる」などと嘘をつかないでいようと思う。
それが、相手という存在に対しての誠実な在り方だと思っている。

ところが、100%自分の痛みに共感してもらえないとわかったときに、寂しさや孤独を感じてしまう人もいる。
そんな人に対峙したとき、僕は相手の期待に応えられないことを申し訳なく思いながらも「ただ、そばにいて話を聞くこと」をしたい。
「心の痛みに苦しんでいる相手という存在」をまるごと受け入れて、「そのままでいいんだよ」と心の中で唱えながらそばにいること。
それが自分にできる、相手の力になれそうな唯一の行動なんじゃないか。

 

「あなたの気持ちはわかる」と軽々しく口にする人たち

 他人の痛みに100%共感できないことが真理だとすれば、「自分は他人の痛みに100%共感することができる」と思い込むことはただの傲慢でしかない。

「あなたの痛みはわかるよ」などと軽々しく声をかけることは、相手や相手の気持ちに対して失礼だし、本気でそう思い込んでいるのだとしたら思い上がりも甚だしい。
それでも、「あー、わかるわかる」と口にする人、「あー俺も似たような経験があるよ。俺のときなんてさ…」と自分の話を始めてしまう人はとても多い。

その言葉は、心を痛めて苦しんでいる張本人を置き去りにするとても冷たいもので、そんな言葉を発する人は「他人の痛みに100%共感できている自分」という過大評価した自分像に酔っているように、僕には思える。

こんな言葉をかけられた相手は、
・自分の痛みに共感してもらえなかったこと
・自分の痛みを過小評価されているように感じること
・自分が話を聞いてほしい状態なのに、相手の自己満足の相手をさせられること
・何より、自分という存在に目を向けてもらえていないこと
に深い悲しみを感じるに違いない。
その残酷さたるや、言葉にしがたいものがある。

僕自身こういう言葉に幾度となく傷ついてきた人の一人だし、また一方で、傷つく側になって初めて、自分がこれまで他人に同じことをしていたことに気付いて言い表せぬほど後悔した人の一人だ。

自分のできること・できないことをフラットにとらえ、できないことは謙虚に受け止めて、どんな相手にも虚勢を張らずに誠実に向き合いたい。

他人の痛みに共感しきれないからこそ対話を深めようとするところに、人と人のかかわりの難しさと尊さがあるように僕は思う。

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