ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を乗り越えた筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

直観が呼び起こされるDVD、『はじまりの記憶』

5年ほど前に友人の紹介で知った映画、『はじまりの記憶』。
今日はその紹介です。

『はじまりの記憶』は杉本博司さんという現代美術家の半生を描いたドキュメンタリー映画で、杉本さんの人生と世界観が実に豊かに伝わってきます。

杉本さんは日本ではそれほど名を知られていないものの、ニューヨークを始めとしたアメリカのアート業界では非常に名の知れた人気美術家。

『はじまりの記憶』は言葉では言い表せないほど素晴らしい映画で、観た後に残るものはいわゆる「映画」という媒体から受け取れるもののレベルをはるかに超えています。

はじまりの記憶  杉本博司 [DVD]

はじまりの記憶 杉本博司 [DVD]

 

 

 

この映画を最初に観たときの率直な感想

渋谷の小さな映画館で初めて観て以降、強烈に惹かれるものがあり、結局僕は映画館に計3回足を運びました。

初めてこの映画を観たときの僕には、この映画や杉本さんが発しているメッセージがスムーズに理解できず、それでも「なにか、人生においてものすごく重要なことを言っている」という感覚だけあって、とにかくメッセージをきちんと受け取りたい一心で何度も観に行きました。

よく、本を読んだり映画を観たりした後に「深い学びがあったな」と思うことがあると思います。。うまく言葉にはできないけど、少なくともその本を読んでよかった、その映画を観てよかったとは断言できる…、そんな言いようのない良い後味。

この映画は、その後味だけで終わらせるには、あまりにもったいないものです。
「感じ取った学びを自分なりの言葉にできるくらい、きちんと消化したい」と強烈に僕に感じさせる何かが、この映画にはありました。

 

映画の見どころは、宝物のような言葉の数々

映画は基本的に、杉本さんが作品の製作に向っている場面やインタビュー取材、ナレーションで構成されています。

近年の杉本さんが作るアート作品はすべて、「人間一人一人の個人史を超えた先にある、人類共通の記憶」をテーマにしていて、他のアート作品にはない独自の世界の切り取り方があります。
作品自体の面白さもさることながら、そのテーマを見出すまでに杉本さんが踏んだ思考や興味関心、学びの変遷が、とにかく深くて面白い。

一番の見どころはなんといっても、随所に散りばめられている杉本さん本人の言葉、そしてナレーションの言葉です。
ボーっと聞いていたら消化できず流れていってしまうような深い言葉の数々は、ハッとするものが多く、普段の生活では刺激されない感性を刺激されるような感覚があります。
中でも僕の印象に残った杉本さんの言葉を、いくつか紹介します。

 

「アートとは、目には見えない精神を物質化するための技術」

「資本主義というのは、ある意味では動物界における人間の特権的エゴが特に強調される、自然との関係の中ではこれは“食い尽くさなければ生き残れない”という過酷なシステム。これから人類が自然との関係の中でどうなっていくのか、という問題は非常に危機的な状況になって、誰もこうしたらいいんじゃないか、という世界の人々が合意できるような美しい理想というのはどこにもなくなっちゃった。」

アートというのが人間に残されている最後のインスピレーションのソースではないかと思うんですよね。ですから、これからますます重要さが増す。政治的な意味でも、科学的な意味でも、宗教的な意味でも。人間の考える力が一番保持されているものがアートであって、そういう力をまだ保っている人がアーティストと呼ばれるんじゃないかと思うわけですよね。」

「昔、日本人が自然との共生関係にあったような、そういうようなその関係性をもう一回こう、資本主義のなかで再構築できるのかどうか。こういう形で日本的な感受性というものを感じてもらえるような装置を作るのが僕のアートかもしれない。」

招かれるがままというか、呼び寄せられるっていうか、お前がやれって言われてるような気がすることをずっとやってきているわけなんですよね。やるべき程のことが あるのかっていうことですよね。」

「見るべきものは見つ、っていう感覚を、僕は死ぬときにそう思いたいですよね。」

「絶対に究明できない状況の中に我々は産み落とされてしまってると思うんですね。わからないのに、探求装置だけつけられて、答えは絶対にわからないっていうシステムが埋め込まれてるっていうような気がするんですよ。そういう人生を与えられてるわけですよ。」


こうした言葉に触れて、僕は長年疑問に思ってきた「なぜ人々はアートに惹きつけられるのか」の一つの答えが見えたような気がしました

本来、人間には元々「考える力」が備わっていて、それに従って生きるときに人間はより豊かで、本質的な「生」を生きることができるんだと思います。

ここで言う「考える力」とは思考力ではなくてインスピレーション(直観力)。
インスピレーションの力と、それを形にする技術を保持する人がアーティストと呼ばれ、人々はアーティストの作品に触れることで、アーティストの得たインスピレーションを疑似体験するとともに、自らがインスピレーションを得るための刺激を得る、ということなのかもしれません。

アートに触れる人の心には、単に「美しいものに触れたい」だけではなく、もっと深いものにアクセスしたいという欲求があるような気がします。
人間は皆根っこでは「より良い“生”を生きたい」と願っていて、より生きる方向に向かうためにアートに触れようとするのではないでしょうか。


『はじまりの記憶』を観て得られるもの 

なぜ飽きもせずこの映画に惹かれ続けるのか、その理由を考えながらこの5年間を過ごしてきました。見るたびに新たな気づきを得、それをノートに書き溜めてきました。最後にそれを共有して終わりたいと思います。

僕というサンプル数1人の感想でしかないのですべての人に共感してもらえるとは思いません。ですが少なくとも僕は観終わった後にこのようなものを得ることができ、これが『はじまりの記憶』に強く惹かれた理由でもあります。

----------------------------

  • 杉本さんの大きな世界観に触れて、自分の知覚が拡張したような、自分の世界の境界線が押し拡げられたような不思議な感覚を覚え、心理的な囚われが外れる気がする。これは、「自分が気を向けている日常の問題がいかに非本質的で小さなものかを自覚することができる」というレベルの感覚ではない。言葉にするのが難しいが、「自分の人生の中で最も重要なものにアクセスできる」くらいの強烈な感覚がある。
  • 後期資本主義経済の中で、一人の人間としてどのように生きていくか、どのように自然が共生していくかを再考する機会を得ることができる
  • 杉本博司さんという一人の人が、自分の興味関心を、自由に解放している生き方に感銘を受ける。楽しそうに、ひたむきに自分の興味関心を深めていき、それが結果としてアーティストとしての仕事となり、充実した人生を送る杉本さんを見て、何か勇気付けられるものがあった。
  • 自分という人間が今生(こんせい)で果たすべき使命・役割は何なのかをキャッチしようとするアンテナが立った
  • 自分自身が生まれ持ってきた「人生の設計図」を思い出せるような気がする
  • 自分の無意識、さらには人類共通の集合的無意識のようなものにアクセスできたような不思議な感覚がある

----------------------------

アートのように言葉で価値を表現することが特に難しい領域があるのは感じていましたが、今回これだけの字数を費やしてもこの映画の内容や魅力、僕が受け取ったものは100%言語化することができていない感覚があり、非常にもどかしく感じています。
(杉本さん、映画監督をはじめ制作スタッフの皆さんの凄味を感じます)

人によって好き・嫌いや興味関心のある・なしや相性はあると思いますし、一概にすべての人にお薦めはできませんが、僕の感性で「この人は興味を持つかも?」と思った人には直接薦めることにしています。

レンタルビデオ店などでは入手できないかもしれませんが、機会があればぜひ手にとってみてください。

「自分に自信が持てる仕事」をしよう

世の中には2種類の仕事があると思う。

自分に自信を持てるようになる仕事と、自分に自信を失っていく仕事。

僕の肌感覚でしかないが、(僕も含め)自分に自信を失っていくような仕事から離れられないでいる人がとても多い気がする。
自分に自信が持てるような仕事に就いている人は少数派じゃないかと思うけど、確実にそういう人は存在する。

今日は、仕事というものをこの2つの側面から眺めてみたい。


自分に自信を持てるような仕事に就くこと

仕事は、自分を表現して「最高の自分」に近づくための一つの手段だと僕は思う。

自分の強みが生かされ、それを人に分かち合うことで人から喜ばれ、その結果として生活の糧も得られる活動が本来の「仕事」。

天職に就き、仕事を通じて眩しいくらいに輝いている人はよく「私は“お前がやれ”と言われている気がするようなことをやっているだけ」と言う。
「天の配材」とも呼べるような場所に身を置き、自分の使命と自己表現の場が重なり合う場所で仕事をすることが、どれだけ高額な報酬にも代えられない最高の報酬になるんだと思う。

「そんなのは綺麗事だ!」という批判は何度も聞いてきたけど、その人にとってはある意味それは真実なんだと思う。
「そんな世界なんて存在するわけがない」と思っているから実際にその思考通りの世界が実現しているだけで、「仕事を通じて自分が表現でき、働いていて楽しくて仕方がない世界が存在する」と本気で思っている人にはそうした世界が吸い寄せられる。

仕事という存在を自分の好きなように定義でき、そのマインドセット一つで仕事から得られるものが変わるとしたら、自分はどんな意味を仕事に与えたいだろう。
人生の大半の時間を費やす営みだからこそ素敵な、心満たされる時間にしたいと、僕は思う。


「自分に自信を失っていく仕事」から離れられない構造

しかし現実には、世の中には自分に自信を失っていくような仕事が溢れている。

歴史を遡ると、原始の自給自足生活から、貨幣経済が生まれ文明が発達して仕事が分業体制の色合いを濃くしていく中で、仕事は組織単位で行うものに変わってきた。
個人目線で見ると、仕事は自ら選んだりその中身をデザインするものではなく、パッケージ型で組織から与えられるものへの変遷を遂げていると思う。
そのパッケージは組織の都合で作られたものであり、その中には自分の好まない要素も多く含まれる。

「自分に自信を失っていく仕事」とは、仕事を構成する要素の中で自分の好まないものが多く含まれているものだと思う。
最たるものがこの5つで、これらの要素の含有率が高いほど、仕事の時間はより苦痛を伴うものになる。
-------------
・苦手なこと
・嫌いなこと
・やっていて辛いこと
・価値を感じないこと
・自分の倫理観に反すること
-------------

こうした要素が多く含まれている仕事で、自分自身という一人の人間を表現することは難しい。
「私はこんなこともできるんだ!」
「私にはこんな強みがあったんだ!」
などという前向きな自己発見や、自信の向上もかなりしづらいと言っていい。

このような仕事を通じて報酬を得ても、それはどこか苦しいことをした代わりに支払われる慰謝料のようで、湧き上がるような喜びは少ないような気がする。

皆薄々このことは感じているし、気づいているんじゃないかと思うけど、そんな仕事から離れられないのはどうしてだろう。

理由はいくつか考えられるけど、今の仕事を通じて自分を表現できず、自己評価が下がることによって
「この仕事を辞めたら他の仕事に就けるんだろうか。誰か自分を必要としてくれるんだろうか。」
「自分なんて、仕事を変えたとしても給料がガクッと下がるのが関の山だ。家族を養っていけるんだろうか。」
などの待遇面の不安が大きいんじゃないだろうか。

不安が大きければ大きいほど人は目の前の仕事や環境にのめり込んで、自分の身を守ろうと必死に働く。
目の前の仕事に一生懸命取り組むこと自体はとても良いことだと思うけど、不安から生まれるこの一生懸命さが自分の視野を狭め、
「この職場以外に自分を必要としてくれる場所なんてないんじゃないか」
などと感じさせてしまう側面もあるような気がする。


まとめ

どうすればこうした不安から抜け出せるのか?
このテーマは書き始めると相当なボリュームになりそうなので別記事にまとめたいと思う。

ただ、今回一つだけ言いたいのは、自分の「市場価値」という概念を過度に気にしなくていいということ
人についても「市場価値」という言葉が使われるようになって久しいが、これはマイナスに働くと人の不安感情を煽る危険な言葉だと思う。

人という一つの生物。合理も非合理も、言語も非言語も持ち合わせている多様で流動できな存在である人が、「人材」という名の経営資源だという、極めて一面的な切り取られ方をする。
そこにあるのは経済合理性の追求であり、人という生き物の根源的幸せの追求ではない。人の幸せを願うやさしさや愛は、そこにはない。

「市場価値」という言葉は、どこかの転職支援会社が人々の不安を煽り、自社のサービス発展のために作り出した恣意的な言葉のような気がする。

自身の市場価値を高めることを目的にした自己研鑽の多くは不安を起点にした行動であり、前向きな「ワクワク」や魂の喜びを起点にした行動と違って毒にもなりうる。

市場価値という概念は「自分に自信が持てる仕事」や「仕事を通じて自分が好きになれる、満たされる」といった世界観とまったく別軸の、一面的な考え方に過ぎないことは胸に刻んでおきたい。

 

今回は、どうせ働くなら自分に自信が持てるような仕事をしたほうが幸せだし楽しい、ということが書きたかった。
現在、僕自身が今の仕事を続けていくかどうかの帰路に立っていることもあり、ここでのまとめを実践しながら、また気付きのサイクルを回していきたい。
「どうすればこうした不安から抜け出せるのか?」の続きは、また別記事のお楽しみに。

人の心の成長の3ステップ

2週間ほど前のカウンセリングで、人間の心の成長にまつわる面白い事実を知った。

話のポイントは2つ。
・人間の心には2つの矛盾した欲求がある
・人間の心の成長には大きく3つのステップがある

今日はこの2つのポイントについて書いてみたい。


人間の心の奥にある、2つの矛盾した欲求

カウンセラーから教えてもらったのは、人間は“他人との違いを受け入れたい”と思う一方で、“他人に自分のことをわかってほしい”と思ってしまう生き物だということ。
“多様性”と“同質性”をめぐる矛盾した欲求とも言える。

後者の欲求は簡単に想像できると思う。
「私の話を聞いて」
「私の痛みをわかって」
などと思ったことがありません!なんて人はいないだろう。

前者の欲求は、ある人・ない人がいるかもしれない。
この欲求があるのが良い・悪いではないけど、人は心の成熟が進んでいくと人は“他人との違いを受け入れたい”という欲求をもつものだそうだ。
この段階は、人は他人と自分の違いに敏感に気づき、ある意味でそれが「気になる」状態。
ここからさらに成熟が進んでいくと、“他人と自分の違い”が気にならなくなり、呼吸するように自然と違いを受け入れることができる段階が来るらしい。


人間の心の成長の3ステップ

この話を整理すると、人間の心の成長には大きく3つのステップがあるのだと思う。
----------------
①まず、人と自分に「同一性」「同質性」を求める段階
②次に、人と自分の「多様性」「違い」を知り、受け入れようとする段階
③最後に、人と自分の「多様性」「違い」が当たり前に受け入れられる段階
----------------

先の2つの矛盾した欲求は、②の段階で生じるものなんじゃないかと思う。

僕自身は、大学時代に①の段階におり、社会人になってから②の段階に差しかかった。
当時の自分は、距離の近い家族や恋人に対して「なんで俺のことわかってくれないんだ」という不満を持っていて、その背景には「言葉で言わずとも、相手に自分の気持ちを察してほしい」という期待があった。
他にも「普通はこう考えるでしょ!なんでそうしないの?」という怒りも含んだ押し付けをするなど、相手と自分の考え方や判断の違いを許すことができなかった。

今思えば、「“他人と自分の違い”を受け入れること」ができれば、この種の苛立ちは起きることがなかったと思うけど、これが言うは易し、やるは難し。
この壁を乗り越えられるか否かで人間関係をめぐるストレスは減り豊かさは増すとわかっていながらも、意識するだけでできるようには到底ならない世界。

今も僕はまだ②の途中にいるが、②を乗り越えるためには想像以上にきちんと段階を踏まなければいけないことに最近気がついた。
その詳細はまた別記事に切り出そうと思うが、今の段階で一つだけ言えるのは、「自分自身の心の状態を客観的に俯瞰しようとする姿勢と力」が必要だということ。
①から③の段階に進むためにはまず自分がどの段階にいるのかを把握する必要があるし、自分の内面の弱さを直視するためにもこの要素は必須だと思う。


まとめ

人は皆、自分を理解してもらいたい・受け入れてもらいたいという欲求を持っているけど、それ自体は本能に近い当たり前の欲求なんじゃないかと僕は思う。

「誰にも認められなくたっていい」と思っている(また周りからそう見える)人も、「理解してもらいたい」という気持ちはゼロではなく、比較的その欲求が弱いだけの話ではないだろうか。

理解してもらいたい欲求が強すぎると、他人の同じ欲求に応える余裕がなくなってしまうけど、自分の欲求と他人の欲求の間で揺れ動きながら、人は体験的に「“他人と自分の違い”を受け入れること」の必要性を学ぶものなんじゃないかという気がする。

日本人なら特に「自分の話ばかりするな」とか「人の話も聞け」とか言われた経験があると思うけど、それに縛られすぎることなく、自分を受け入れてほしいときは「ちょっと話を聞いてほしいんだけど」と人を頼ること、そして相手に受け入れられることで安心したり心のつながりを感じたりすることも、人間ならではの尊い営みなんじゃないかと思う。

"自分の器"から溢れない範囲で

以前、心を病んで休職経験のある人から印象的な話を聞いた。
その話は休職経験者だけではなく、働くすべての人に当てはまる普遍的な話だと感じたので、今日はそれについて書いてみたい。

 

休職経験者からもらった言葉(引用)

バイアスがかからないように、その人にもらった言葉を記憶の限りそのまま引用する。

------------------------
「私は休職した経験から、今は絶対に自分の器以上のエネルギーを使わないことにしてるんです。
自分の器以上のエネルギーを使うと、その無理は必ず大きなひずみとなって自分に跳ね返ってきて、結局家族や会社に一番迷惑をかけることになる。

私の場合、一番エネルギーを使うのは人との関わり。
人と関わる量や時間のボリュームはが大きすぎると疲れてしまう。だから仕事が終わったらまっすぐ家に帰るし、仕事の飲み会や付き合いは一切断っています。

あと、家に仕事を持ち帰ることもなくなったね。
持ち帰ってまで仕事をすると、自分の器以上のエネルギーを使ってしまう。休みの日に仕事のことを考えたり仕事に手をつけたりすることはやめて、今は100%目の前の余暇に集中しています。

人付き合いも休日の仕事も、やめると決める前は怖かったよ。
人が離れていくんじゃないかとか、仕事がうまく回らなくなるんじゃないかとか。

でも、実際そんなことは起こらない。仕事も人間関係もちゃんと回っているし、むしろ、"あの人は休日の仕事や人付き合いをしないと決めている"と周りが認識してくれて、その範囲内でしかお願い事をしないでいてくれるんだよね。やる気がないとかではなく、休職経験からそういう判断をしているんだというのもわかってくれている。だから、休職前のがむしゃらに働いていたときよりもだいぶ心身ともに楽なんだよ。」
------------------------

どの部分が一番印象に残っただろう?
この話から、何を感じただろうか?

 

まずは"自分の器"を知る

僕が一番印象的だったのは、"自分の器"という概念だ。

人にはそれぞれエネルギー保有量のようなものがあって、100%調子が良い状態でも、その絶対量は人によって違うような気がする。
一日20時間活動して平気な人もいれば、10時間で疲れてしまう人もいる。

また、「何をすることでより大きなエネルギーを消費するのか」も人によって違う。
人との関わりで疲れやすい人もいれば、座っているのが苦手でデスクワークで疲労困憊する人もいる。

自分自身について、この
・エネルギーの量
・エネルギーを消費しやすい活動
の二つを把握しておくことは、限界を超えて疲れてしまわないためにとても重要なんじゃないだろうか。

僕の経験上、限度を超えた疲労は積み重なると体そのもののシステムダウンにつながるし、そうなれば心へのダメージも半端ではない。

エネルギー量が多いから良いとか、消費しにくいのが素晴らしいとかいう話ではなくて、どんなエネルギー量、どんなエネルギー消費パターンを持っていたとしても、それを自分の個性として知ってその範囲内で活動することが大事なんじゃないかと思う。
(と言いつつ、本音ではエネルギー量のある人がうらやましいけど。。)

 

"自分の器"を把握した後にやること

「これくらい活動すると疲れすぎてなかなか回復できないなあ」とか、
「休みたいけど休めないような気持ちになってるってこと自体、自分の器以上のエネルギーを使おうとしてるんじゃないか」とか、
まずは、自己対話を深めながら"自分の器"を知っていく。

その後にやることは、「やるべきことの優先順位付け」。
仕事でもプライベートでも、絶対に外してはいけないことと、外しても大事に至らないことを見分けていく。

いくつもの「やらなきゃいけないと思っていることリスト」の中で、
「AとBだったらAが優先、BとCだったらBが優先、だからA,B,Cの順に優先順位が高いな」
などと優先順位をつけて、高いものから順に、自分の器の範囲内のエネルギーで処理していく。

僕自身、この方法を取り入れてかなり生活が改善した。

Beforeの状態は、毎週末は平日の疲れで家を一歩も出られなかったが、Afterでは土曜日の午前中いっぱい眠れば午後は出かけられるくらいになった。笑

僕の場合、エネルギーの絶対量が同僚や上司より少ないことや人一倍エネルギー消費が早いことがわかったのがスタート地点だった。
中でも最もエネルギーを使うのは気を使う人付き合いだということ、エネルギーを週の前半で使い切ってしまい後半はガス欠になることもわかった。

それから、
・週の前半は夜に人と会う予定を入れないこと
・1週間の夜の予定を制限すること
・土日のどちらかは一人で過ごす時間を確保すること
などを実践したことで限度を超えた疲労が溜まることが少なくなった。

今日書いたのは概念的な考え方だけで、具体的なやり方は人それぞれ適した方法があると思うけど、何かの参考になればうれしいです。 

どうすれば人に"やさしく"在れるのか?

以前のエントリーで、「“やさしい”人は相手がありのままで"在ること"を認め、相手を自由にする」と書いた。 

yudaism.hatenablog.com


そんなことを考えていた矢先、人との新しい出会いを通じて新たな気付きがあった。
それは、「どうすれば人に“やさしく”在ることができるのか」
今日は、その方法について書いてみたいと思う。

 

22歳の新社会人から受けた影響

先日、出会った人は僕より7つ年下で、今年新社会人になる男性。
彼は思春期を海外で過ごしたこともあり、ものの考え方に「檻」のようなものがなかった。

彼の発言で最も驚いたのは、
「僕は日本で仕事に疲れたり、日本で行き詰まったら、最悪海外に逃亡すればいいと思うんですよ。たとえばカンボジアなんて、お金がなくても心が豊かな人がたくさんいて、愛情を感じながら幸せに暮らしていけますよ。」
という言葉だった。

これを聞いて、僕の頭は
「海外で仕事に疲れて最悪日本に帰ればいいや、だったらまだわかるけど逆って…」
「そこで国境越えちゃうという発想すごい…」
など、ツッコミで満載だった。
そしてこのツッコミそのものが、僕がどのような「檻」(≒心理的な囚われ)を持っているかを教えてくれた。

「日本でやっていけないなら、海外に行ったら余計難しいだろう」
「日本で仕事に行き詰まったら、日本国内で別の仕事を探すしかない」
など、僕の頭は色々な囚われでいっぱいだったのだ。

 

心理的な囚われのない人は、相手の心を自由にする

彼と話していて、僕は自分の中にあった「檻」や「境界」がググッと押し拡げられるような感覚を覚えた。
心理的に自由になったような、自由であることを許されたような、不思議な感覚。

実際に心理的自由を手にしている(と見える)人と触れ合うことで、「自分自身の心も自由にしていいんだよ」と許可をもらったような感覚があって、それは心地よいものだった。

f:id:yudaism:20170503190901j:image


ここから学べるのは、人の心を自由にできるような「やさしい」存在であるためには、まず自分自身の心を自由にできなければいけないということ。

それにはまず、自分の持っている心理的な檻(囚われ)に気付かなくちゃいけない。
そして、恐れを乗り越え、その檻を手放す必要がある。

檻はある意味「この中にいればあなたは安全だよ」と自分の安全を確保してくれてきた防衛役なので、実際に手放そうとすると不安や怖れを感じると思う。

それでも、自分の中に心理的な檻が存在する限り、失うのが怖い大切な誰かに対しても、その檻を当てはめようとして
「それをやったら危険だ」
「こうした方がいい」
などと口を出して相手を縛り付けてしまいがち。
(親の子どもに対する叱責を思い浮かべれば、想像しやすいと思う)

これは“相手が傷つくのを見たくない”という自分の恐怖心ゆえであり、ある意味”相手が傷つくまい、失敗するまい”とする優しさなのだけど…
これが結果的に相手の自由を奪ってしまうのだから、なんともやるせない。

真に相手を尊重したいと思うのならば、相手への小手先の言動・行動を変えるのではなく、自分自身の心理的な檻を手放すのが本質的アプローチなんだと思う。

 

自分が「できること」でしか、人には影響を与えることができない

先の通り、人の心を自由にできるような「やさしい」存在であるためには、まず自分自身の心を自由にできている必要がある。

この話は、
人前で講演する講師や、研修講師の話と似ている。

よく言われる話なのだけど、研修講師は、受講者に教えるコンテンツを誰よりも身につけている存在でなければいけない。

受講者が「この人の話を聞こう」とマインドセットできるのは、何より研修講師自身がコンテンツの一番の使い手であり、それを使いこなして成果を出していること。

営業スキルの研修で言えば、その営業スキルを完璧に身につけ、実践して、実際に営業成果を出した経験のある講師は、言葉の重みや醸し出す説得力が全く違う。

何が言いたいかというと、
「自分自身の持っているものしか、人前で表現することができない。」
「自分自身の持っているものでしか、人に影響を与えることができない。」
ということだ。

頭で理解している「知識」を言葉にするだけでは、相手には影響を与えられない。
体に血肉となって身についているものだけが、全身からにじみ出る雰囲気となり、相手に影響を与えるのだと思う。

このブログのタイトルは「心を自由にするブログ」。
そのコンテンツの発信者である僕自身が、まず自分の心を自由にできるよう精進していきたいと改めて思った。

今回、自分の持っている心理的な檻(囚われ)を手放す方法について詳しく考えることはしないけど、それはまた別記事で取り上げたいと思う。

「人の話を聞くこと」は、実はとても難しい

自分の話を、相手が理解してくれたと感じるのはどんなときだろう。
逆に、人の話を聞いて僕たちが「理解できた」と思うときはどんなときなんだろうか。

「ああ、わかった」とか、
「なるほど。~ってことでしょ?」とか、
僕自身も安易にそういう反応を返してしまうことがあるけど、最近そんな反応にふと違和感を感じたので、今日はその感覚を掘り下げてみたい。

 

人とのコミュニケーションでは、言葉の限界が常にある

結論からいうと、他人の痛みを100%理解することができないのと同じような構造で、他人の話からその人が伝えたいことを100%理解することも非常に難しいと思う。

相手の話を僕たちが受け取るまでの過程を整理してみると、

ーーーーーーーーー
①話し手に、伝えたい事象が発生

②話し手がその事象を言葉にして、受信者に伝える

③発信者の言葉を自分(聞き手)なりのフィルターを通して咀嚼する

④聞き手から話し手に、「理解できた」と意思表示をする
ーーーーーーーーー

の4つのステップがある。

この4ステップで起きていることを虫眼鏡で見てみると、
まず①→②の段階で、話し手が言葉にできなかった感覚や想いは言葉上から削ぎ落とされてしまう。

②→③の段階でも、聞き手に伝わるのは「受信者のフィルターを通した」話し手の言葉であって、話し手が言葉に込めた意図や想い、ニュアンスや温度感がそのまま伝わることは難しい。

大抵の場合、この2つの現象は見落とされたまま④の作業にたどり着く。(④が丸ごとナシ、なんてこともよくある)
①→②、②→③で削ぎ落とされてしまったものの存在と大きさに、話し手は④の作業を通じて初めて気付くのだが、大抵それはぼんやりした違和感を残したまま言語化されないうちに通り過ぎていってしまう。

これはどちらが悪いわけでもなく、「言葉」というツールの限界なのだと思う。
僕たちは言葉にできないものは伝えられないし、言葉で表現されないものは理解するのが難しい。
表現しようとしても、自分が持っている言葉の引き出しでは表現しきれずに削ぎ落とされていってしまう想いは、言語化能力を高めるほか、相手に伝える方法がない。

 

ここでも大切なのは、他人の話を聞く上での「あり方」

話し手の伝えたいことが100あるとして、実際に聞き手が受け取れるものは果たしてどれくらいなんだろう?

「そもそも、100全部受け取る必要なんかないんじゃない?」とか、
「ポイントだけ理解できてれば問題ないでょ」とか、
色々なツッコミが聞こえてきそうだけど、

ここで僕が大事にしたいのは「発信者の表現したいものを100%受け取ることができていないことを自覚し、なるべく100%受け取れるように努力すること」だ。

相手が伝えようとしたものを、自分の過去の知識や、他の誰かに聞いた話と結びつけてパターン化し、「ああそういうことね、わかったわかった」と反応するのは、とても勿体無い。

なぜなら、パターン化した瞬間にパターンには当てはめきれないポイントは理解の外に追いやられて学ばれることなく終わってしまうから。
その受け止め方を目の当たりにした相手も、きっと自分の話が受け止めてもらいたいように受け止められなかった虚しさを感じるんじゃないだろうか。

 

「他人の話を聞いて学ぶ」ための具体的ポイント

「あり方」の話だけでは抽象度が高するので、具体的なHowについても僕の考えを書いてみたい。

重要なポイントは2つある。
ひとつは、言葉の奥の背景に耳をすませること。
そしてもうひとつは、「相手の言葉」で理解すること。

一つ目のポイントは、先の4ステップの①の過程に配慮したものだ。
言葉をそのまま受け取ることは誰にでもできるが、その奥にある背景や心情を汲み取ることは意外とできる人が少ない。

「この言葉を発している背景には、どんな背景や心情があるんだろう?」
「自分が相手と同じ状況に置かれてこの言葉を発しているとしたら、そのとき自分はどんな気持ちなんだろうか?」
など、想像力を働かせて相手の気持ちを汲み取ろうと努力すること。

これらの問いの答えには、自分のフィルター(ものの見方)が入っていて問題ない。
「同じ状況に置かれたとしたら自分ならこう感じるけど、どう?」などと、自分なりの想像力を働かせた結果を相手に確認すればいい。

仮にその仮説が芯を外していたとしても、こんな風に質問されたらきっとうれしい。
仮説の内容そのものよりも、あなたの「自分の気持ちを理解しようとしてくれている」という姿勢そのものに、話し手は癒やされるんじゃないだろうか。

さらに注意するとすれば、「相手の言葉」で対話することじゃないかと思う。
たとえば、「理不尽」という言葉について、何を理不尽と感じるかどうかの基準や理不尽の定義は人によって様々だ。

相手の体験談を聞いて「確かに理不尽だな」と思ったとしても、それは自分の「理不尽」の定義を通して感じ取ったものかもしれない。
相手が何を、どのように「理不尽だ」と感じたのかを確認する作業を丁寧に積み上げれば、相手の言う「理不尽」を上手に自分の言葉に組み込んで、相手の気持ちを代弁したり理解を示したりすることができる。

ここまでやろうとすると、人の話をきちんと聞くにはかなりの集中力やエネルギーが必要な気がしてくる。
すべての人にここまで丁寧な向き合い方はできないかもしれないけど、こういう目に見えない気持ちの動きに気づけるような、心のセンサーは持っておきたい。

他人の痛みにどう向き合うか?

-他人の痛みに100%共感することはできるか?-

この問いに、あなたなら何と答えるだろうか。
きっと多くの人が"NO"と答えるんじゃないだろうか。

 

他人の痛みに100%共感することができない理由

人には誰しも心の状態の良いときと悪いときがあって、状態の悪いときは誰かに話を聞いてもらい、「うんうん、わかるよ」とか「あなたの言うことは最もだと思うよ」とか言葉をかけてもらいたいもの。
自分のことをまったく理解されなかったり共感されなかったりしてもへっちゃら、なんて人はきっといないと思う。

逆の立場で、もし目の前に弱っている人がいたら、僕も当然何か力になりたいと思う。
もし相手が求めていることが痛みへの共感なんだとしたら、できるだけ共感しようと努力するだろう。

それでも、残念ながら、どこまでいっても人には他人の痛みを100%理解することはできない。

「自分と他人は違う」とか、「人って多様だよね」なんて使い古された言葉があるけど、その言葉の意味するところは本当に深い。
「多様」の中身を具体的に挙げてみるだけで、
・指向
・価値観(人生観、仕事観、価値観…)
・考え方
・衣食住の好み
・人との距離感
など数えきれないほどあり、その一つ一つについて、さらに幅広く奥深く多様さが存在する。

それだけ何もかもが違う、異なる人のことについて、その人が感じたのとまったく同じように痛みを感じるのは、どうしてもできない。
もちろん相手のためになるなら100%共感したいと思うけど、がんばってもできないものはできない。

 

他人の痛みに100%共感できなくても、「どう在るか」は決めることができる

そこで、ある人は「どうせ100%共感することなんてできないんだから、共感しようとすること自体無駄でしょ」と諦める。
でもまたある人は、「100%は無理でも、できるだけ共感できるように努力したい」と考える。

何が言いたいかというと、他人の痛みに100%共感できないとしても、相手に対して「どう在るか」は自分で決めることができるということ。

「どう在るか」の選択肢をざっと挙げてみるだけで、

  1. 「どうせ100%共感することなんてできないんだから、共感しようとすること自体無駄でしょ」と諦めて、相手の話を聞くことすらおざなりにする
  2. 「100%は無理でも、相手のためになるならできるだけ共感できるように努力したい」と考え、相手の話に耳を傾ける
  3. 「共感するのは無理だけど、相手が感じたことを緻密に理解して、受け止めたい」と考え、相手の話に耳を傾ける

など、色々なものがある。
そこには正解はないし、僕は「こうあるべき」と自分の考え方を押し付けるつもりもない。
あるのは「自分はこうありたい」という自分の軸だけで、僕の場合それは2や3に近い。

前提として、僕は「他人の痛みに100%共感することはできないこと」や、「他人の痛みに100%共感することができない自分という人間」を認めて、受け入れている。
相手がこちらになるべく強い共感を求めているのであれば、相手の性格や考え方・感じ方をできる限り想像して共感しようと努めるけど、きちんと限界をわきまえて「100%共感できる」などと嘘をつかないでいようと思う。
それが、相手という存在に対しての誠実な在り方だと思っている。

ところが、100%自分の痛みに共感してもらえないとわかったときに、寂しさや孤独を感じてしまう人もいる。
そんな人に対峙したとき、僕は相手の期待に応えられないことを申し訳なく思いながらも「ただ、そばにいて話を聞くこと」をしたい。
「心の痛みに苦しんでいる相手という存在」をまるごと受け入れて、「そのままでいいんだよ」と心の中で唱えながらそばにいること。
それが自分にできる、相手の力になれそうな唯一の行動なんじゃないか。

 

「あなたの気持ちはわかる」と軽々しく口にする人たち

 他人の痛みに100%共感できないことが真理だとすれば、「自分は他人の痛みに100%共感することができる」と思い込むことはただの傲慢でしかない。

「あなたの痛みはわかるよ」などと軽々しく声をかけることは、相手や相手の気持ちに対して失礼だし、本気でそう思い込んでいるのだとしたら思い上がりも甚だしい。
それでも、「あー、わかるわかる」と口にする人、「あー俺も似たような経験があるよ。俺のときなんてさ…」と自分の話を始めてしまう人はとても多い。

その言葉は、心を痛めて苦しんでいる張本人を置き去りにするとても冷たいもので、そんな言葉を発する人は「他人の痛みに100%共感できている自分」という過大評価した自分像に酔っているように、僕には思える。

こんな言葉をかけられた相手は、
・自分の痛みに共感してもらえなかったこと
・自分の痛みを過小評価されているように感じること
・自分が話を聞いてほしい状態なのに、相手の自己満足の相手をさせられること
・何より、自分という存在に目を向けてもらえていないこと
に深い悲しみを感じるに違いない。
その残酷さたるや、言葉にしがたいものがある。

僕自身こういう言葉に幾度となく傷ついてきた人の一人だし、また一方で、傷つく側になって初めて、自分がこれまで他人に同じことをしていたことに気付いて言い表せぬほど後悔した人の一人だ。

自分のできること・できないことをフラットにとらえ、できないことは謙虚に受け止めて、どんな相手にも虚勢を張らずに誠実に向き合いたい。

他人の痛みに共感しきれないからこそ対話を深めようとするところに、人と人のかかわりの難しさと尊さがあるように僕は思う。

「やさしい」ってなんだろう?

「やさしい」という言葉は、どこか輪郭がぼんやりしている。
広がりと奥行きを感じる、豊かでありながら、とても掴みづらい言葉だと思う。


最近「やさしい」の意味について自分なりの定義ができた。
どんな人が「やさしい」人となのか、今日はそれを言葉にしてみたい。

 

どんなときに使われる言葉か?

電車でお年寄りに席を譲った若者に感じる「やさしい」、
「結婚するなら“やさしい”人がいい」、
など、「やさしい」という言葉が使われる場面は幅広い。

使われる場面の共通項を探ってみると、「相手が自分を尊重してくれたと感じたとき」、「相手の思いやりを感じたとき」に使われている言葉ような気がする。

相手が気を使ってくれたときに「やさしいね」と言葉をかけるのは、行動そのものではなく、行動の奥にある自分への思いやりに対するものなんじゃないか。

ここで一つ、考えてみてほしい。

「相手が自分を尊重してくれたと感じたとき」、「相手の思いやりを感じたとき」ってどういうときだろう?

パッと思いつくのは、プレゼントを買ってきてくれたとか、重いカバンを持ってくれたとか、そういう気遣い行動なんじゃないかと思う。
それももちろんあると思う。
ただ僕は、「やさしい」ってもっと奥行きのある、温かくて深淵な言葉のように感じる。

 

「やさしい」の真の意味

「やさしい」の真の意味。
それを僕なりに言葉にすると、「相手がありのままで"在ること"を認め、相手を自由にすること」ではないかと思う。

  • かかわっている時間、「自分自身がありのままでいること」を許してくれているように感じる人、
  • その人と時間をともにすることで、自分がより「本来の自分」に近付くことができるように感じる人、
  • 話していると、自分の中の心理的な囚われが外れて、自分の世界が押し拡げられていくような心の自由を感じる人

そういう人と触れ合うと、僕はそのやさしさに心底満たされるし、とても安心する。

やさしい人は、決して相手に何かを求めない。

  • 自分が良いと思ったものに相手が「いいね」と共感してくれなくても、
  • 自分のアドバイスを相手が受け入れてくれなくても、
  • 相手が自分とは違う意見を持っていても、
  • 相手が自分の思い通りに行動してくれなくても。

やさしい人は相手を縛り付けることはない。
自分の価値観を押し付けたりすることもない。

ただそばにいて、
「あなたはどうありたい?」とやさしく問いかけながら、

その答えの方向に自分が向かおうとするのを見守って、
純粋に相手の幸せを願いながら、
そっと背中を押してくれる感じ。

そんな相手と触れ合うと、人は「愛されているな」と感じると思うし、安心して自分の道を歩いていくことができるんじゃないか。

家族も含め、全ての人にこんな関わり方ができたらどれだけ素晴らしいんだろう?と思う。
こういう在り方が、どれだけ周囲の人に安心感と豊かさをもたらすことができるんだろうと思う。

「どういう人でありたいか」は人それぞれだけど、僕は人に対してやさしく在る人を心から尊敬するし、僕自身も「あなたといると私は自分の心が自由になれるような気がするんです」と言われるような人になりたい。

自分なりの生き方や価値観、「軸」と呼ばれるようなものを持ちながらも、自分以外の人の自由を認め、愛することのできる人。
そういう人はきっと、自分のエゴや弱さを目のあたりにするたびにそれに誠実に向き合っている。

それは言葉で書くよりも想像するよりも、きっと辛くて大変な作業なんだけど、それができる強い人ほど、人に対して「やさしい」存在であることができるんだと思う。

ポジティブ思考の落とし穴

ー他人は変えられないけど自分は変えられる。ー
ー起きてしまったことは変えられないけど、それをどう捉えるかは自分次第。ー

誰しも聞いたことのあるこんな言葉。
最初に僕が耳にしたときは「なんと素晴らしい考え方!」と素直に感動した。

実践してみると、確かに自分の行動が前向きに変わるし、周囲からも「物事をポジティブに捉えるよね」とか「どんな状況でも前向きに考えられてすごいよね」とか、好意的に受け止められることが多かった。

でも、こんな「ポジティブ思考」にも実は落とし穴がある。

 

ポジティブ思考に潜む落とし穴

それはズバリ、「感情の抑圧を招く可能性があること。」
(感情を抑圧することのリスクは、以前のエントリーにも書いたとおり。) 

yudaism.hatenablog.com

 

ポジティブ思考を僕なりに定義すると、
ーーーーーーーーーーーーーーーー
①物事が起きる

②認知(物事の捉え方)のフィルターを通してそれを解釈する

③感情が生まれる

④感情にしたがって行動を起こす
ーーーーーーーーーーーーーーーー
という感情発生のプロセスの②を変えましょう、ポジティブな捉え方をしましょう、という意味だと思う。

論理的にはこのプロセスは正しいし、②の変換で③や④が変わるのも納得できる気がする。

でもよく考えてみてほしい。
大抵の場合、①から④までのプロセスは一瞬で処理される。
これまで染み付いている②のフィルターに従って、僕たちの中には反射的に感情が生まれる。

そんな中、あとから意志の力で②を変えようとすると、②を変換した後に生まれる感情と、元々反射的に生まれた感情はコンフリクト(≒矛盾)を起こす。
そして、後者は「ふさわしくない考え方」として、意志の力で“なかったこと”にしてしまうことがあるんじゃないか。

僕はこうして無意識に自分の素直な感情を“なかったこと”にし続けた結果、最後には
「本来、自分は何を感じているのか」
「今、自分はどういう感情なのか」
が本気でわからなくなった。
心療内科医に「あなたは自分の感情を10%も把握できていない」と宣告されたりもした。

 

一番大切なのは、自分の自然な感情を感じ続けること

以前のエントリーにまとめたとおり、感情の抑圧は本当に怖い。
自分を自分でいられなくしてしまう。

僕は、一人の人として「心の底から満たされるため」にいちばん大切なのは、ありのままの自分の感情を感じることだと気がついた。

物事を前向きに受け止めることは確かに大事だけど、それには正しい手順がある。

まず、自分の自然な感情を感じること。味わうこと。
その後、その感情を“なかったこと”にせずに、「そりゃあそんな気持ちにもなるよね」と認めること。

この2段階を踏んで初めて、「でも、こんな捉え方もあるよ?」と健全に認知を変えていくこと。

最初の2段階を飛ばさないためにも、ポジティブ思考になろうとしているときは自分の感情を抑圧していないかを常にチェックしなくちゃいけない。

「本当の自分はどう感じた?」
「最初の自分の感じ方を心のなかで否定してない?」
など、色々な質問を自分に投げかけながら、自分に嘘をつかないよう気をつけなくちゃいけない。

人として自然な感情を押さえつけてまで僕たちが守ろうとしているものは、本当に守りたいものなんだろうか?

自分自身に改めて問うてみよう。

 

このブログに込めている想い

久々の更新。
実は今年の1月から本格的に仕事に戻る訓練をしている。
以前の記事で休職経験があることは書いたが、まさに今二度目の休職の真っ只中。

久しぶりの投稿ということもあるので、今日はこのブログを書こうと思ったきっかけや、それを通じて僕がありたい姿についてざっくばらんに書いてみる。

 

 

ブログを書こうと思った一つのきっかけ

僕が社会人になって最初に心を病みかけたときは、まだ「休職」という仕組みがあることを知らなかった。
その後、物理的に会社に行けないような状態になって初めて「休職」の存在を知ることになった。

でも、仕事に復帰してみてわかったのは、心を病んで休職まで追い込まれた人は身近にいたとしても、そこから社会に復帰した人に詳しい話を聞く機会はそうそうないということ。

仕事を離れている間、何を考え、どんな風に過ごしていたのか。
なぜ仕事に来れなくなってしまうのか。
どんな風に治療して、仕事に復帰するに至ったのか。
再発する危険はないのか、などなど…

休職経験がない人がこうした素朴な問いを思い浮かべても、その答えが得られることはほとんどない。
誰しも「下手な質問をして、仕事に復帰した人の心に傷を負わせてしまったら・・・」という不安を感じるからだ。
聖域に足を踏み入れてしまうような危険を感じて、誰も聞けない。

だけど一方で、こんなに重要な問いはないと思う。
休職未経験の人が経験者の話を聞いて、仕事復帰後の彼らに関わるヒントを得たり、自分と彼らの違いや多様性を認めるきっかけにすることはできる。
きっとお互いに、話をする前よりも少し相手にやさしくなれる。
とすると、この問いに答えることは、とても価値あることなんじゃないか?

とはいえ、休職した人にとって、自分の体験を発信することは「理解されないで傷つくリスク」と常に隣り合わせでもある。
それはとてもハードルが高い行為なのだけど、僕は包み隠さずすべての情報をシェアしたい。
すべての人に理解されなくてもいい。
受け取ってくれる人が一人でもいれば、いいなと思う。

そう思って、あらゆるテーマについて考えた自分の思考の足跡を記録しようと思ったのが、このブログを書こうと思ったきっかけです。

 

僕が理想とする“あり方”

これまでの記事を読んでくれた人にはわかるかもしれないけど、今回のエントリーから試験的に丁寧語をやめてみることにした。
そのほうが、自分が素直に思ったことをパッと文章にできるし、何より自分らしさがより表現できる気がしたから。

といっても、「丁寧語を使う」と決めてこれまでそうしてきたのにもそれなりの理由がある。

僕が一番避けたいのは、
・上から目線で
・自分の考えが絶対に正しいという壮大な勘違いのもと
・他者との考え方や価値観の違いを認めずに自分の考えを押し付ける
ような人になることだ。

逆に言えば、これらをすべて裏返したような謙虚でフラットな人でありたくて、読んでくれる人への尊重の気持ちを表現するため、自分が傲慢にならないために、丁寧語を使うことにしていた。

しかし最近、言葉遣いに関係なく傲慢な人は傲慢だし、謙虚な人は謙虚だということに気がついた。
フランクな言葉遣いでも他者を尊重していることが伝わる人はいるし、そういう人は逆に敬語を使うと「その人らしさ」が失われてしまったりする。

僕の「らしさ」が出るのがどういう態度を取るときなのかはまだわからないけど、これからは思ったことを素直にサッと書けることを最優先に、また気軽に更新していきたいと思います。

「ココロを自由にするブログ」は、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。