ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を乗り越えた筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

「シンプル」はなぜ大切か?

数年前にベストセラーになった『シンプルに生きる』という本をご存知でしょうか?

ものを過剰に所有することをやめ、自分自身にかける時間を増やすことを勧める本書。

この本の初版が発売された2010年前後から特に、「シンプルさ」は会社経営から生活に至るまで、幅広い分野で一つのトレンドになっています。

シンプルに生きる 人生の本物の安らぎを味わう (講談社+α文庫)

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なぜ「シンプルさ」 が大切なのか? 

「シンプルさ」の何が、現代人を惹きつけるのか?
この疑問を解くヒントになるのが、2003年に日本で大流行したiPhoneです。

iPhoneが世界中のユーザーを魅了した理由はその「シンプルさ」にありました。
当時世界を驚かせたホームボタン一つだけのシンプルなデザイン。
そして、無駄を極限まで削ぎ落とした機能。
すべてが、当時のスマートフォン業界では革新的なものでした。

Apple創業者スティーブ・ジョブズは、iphoneを始めとした製品の開発で、「シンプルさ」に徹底的にこだわっていました。
そこにはこのような彼の考えがあったそうです。

シンプルなものが良いとなぜ感じるのでしょうか?
我々は、物理的なモノに対し、それが自分の支配下にあると感じる必要があるからです。
複雑さを整理し、秩序をもたらせば、人を尊重する製品にできます。
シンプルさというのは、見た目だけの問題ではないのです。
(出典:『ペーパーバック版 スティーブ・ジョブズ 2』)

ペーパーバック版 スティーブ・ジョブズ 2

ペーパーバック版 スティーブ・ジョブズ 2

 

私はジョブズの言葉から、先の疑問に対する答えをこう立てました。

・人間は、興味の対象物について「自分が支配できる」と感じると安心する。
・逆に、「自分が支配できない」と感じる複雑なものには、人間は不安を感じる。
・「シンプル」なものは支配可能ゆえ、人を安心させる。それこそが「シンプルさ」が大切な所以。

人生の中で無数に行う選択。
ありとあらゆるものが複雑化している現代で、「自分が支配できる」という“安心感”こそが、「シンプルさ」が人を惹きつける理由でしょう。


心の中も、「シンプル化」する 

「シンプルさ」の重要性は、物理的なモノにとどまりません。
人の「思考」も可能な限りシンプル化するべきです。

具体例を挙げます。

悩み事や不安で頭がいっぱいで、何も手につかないとき。
そんなときこそ、あえて部屋を掃除してみてください。

ゴミを捨てる。
服や本を捨てる。
机の上を整頓する。

これだけで、なんだかストレスが減るんです。

なぜか。
頭の中が悩みや不安などでいっぱいのときは、思考が整理できていません。
頭の中が複雑で「自分が支配不可能」な状態だから、より不安を感じているわけです。

そういうときは大抵身の回りも雑然としています。
ですが、頭の中は整理が難しくても、身の回りのモノは簡単に整理できますよね。
そうして部屋にあるすべての物理的なモノを「自分が支配可能」だと感じると不思議と不安までもが減るんです。

部屋にある物理的なモノと思考、どちらも「自分が支配不可能」と感じていた状態から、片方だけでも「自分が支配可能」になっただけで、少し安心するんですよね。

同じように、頭の中に渦巻く悩みや不安も、紙に箇条書きにしてみてください。
書き出してみると、
「あれ、こんなに少ないの?」
と不安が少し小さくなるのではないかと思います。

正確にはこれは「シンプル化」とは言えませんが、
少なくとも“紙に書く”という行動を通して悩みや不安を物理的に見える状態にすることで、「自分が支配可能」と感じたから不安が小さくなるわけですね。


ポイントは、「自分にとって重要なもの」だけを残すこと

今例に挙げた「掃除」は、要らないものを捨て、要るものを残す活動です。
スティーブ・ジョブズも同じように、iPhoneを作るときにスマートフォンの機能を
・電話
・メール
・インターネット
の3つに絞って、それ以外の機能を排除しました。

このように、「シンプル化」の本質は大切なものだけ残して後は捨てることです。
ジョブズもこう言っています。

対象のあらゆる面を理解する、それがどう作られるのかも理解する。
つまり製品の本質を深く理解しなければ不可欠ではない部分を削ることはできません。
(出典:同書)

本質を理解して、本当に要るものは絶対に削ってはいけない。
だから、シンプルにするにはより深い製品の理解が必要。

部屋の掃除や、今流行りの「ミニマリスト」の生活でも、重要なことは
「部屋や自分の生活の中で本当に必要なものと、そうでないものは何か?」
を見極めることです。
そのためには、自分自身の価値観を深く理解することが欠かせません。

それは非常に難しい作業ですが、だからこそ本当に大切なものを見出した先には、不要なものを一切排除した幸せの濃度の高い生活が待っているのだと思います。


まとめ

情報やモノが大量にあふれ、仕事やライフスタイルに至るまでありとあらゆる分野で
無数の“選択肢”が存在する現代。
就職、転職、結婚、住居、勉強、…“選択できる豊かさ”が逆に物事を複雑化し、誰もが漠然とした不安の中で日々“なんとなく”選択をしています。

5年ほど前、私の会社の定年間近の先輩で、
「昔は選択肢が少なかったから、選択に悩むこともそこまでなかった。選択肢が少ないのだから、選んだ選択肢を正解にしようと努力するだけでよかった。でも今は違う。選択肢がありすぎることで逆に何が正解か不安に感じることが増え、幸せになるのが難しくなったような気がする。」
と話していた方がいました。

ですが、そんな現代だからこそ「シンプルさ」を追求する必要があるんです。
昔は必要なかった「自分自身の価値観を深く理解する」という作業にチャレンジしていくことで、シンプルで、自分に深い幸福感をもたらしてくれる選択ができるのだと思います。

「シンプル化」は、部屋の掃除一つとっても、本棚、洋服、書類、雑貨など、できるところはいくらでもあります。

仕事上のタスクでも、本当に重要な仕事の見極めさえできれば、重要でない仕事は「やらない」という選択ができます。
それができれば、膨大な仕事に追われて頭の中が複雑化し、常にストレスを抱える必要もありません。

「自分が支配可能」と安心感を持ちながら過ごすために、興味の対象(部屋のモノ、仕事上のタスク…etc)について深く理解し、「本当に必要なもの」だけを残してあとは捨てる。

私自身も日々試行錯誤しながら、シンプルで豊かな人生を創っていきたいと思っています。

自己否定が止まらない人にかける言葉② ~「私は絶対にあなたに失望しない」~

過去のエントリーで、自己否定が止まらない人には“being(存在そのもの)”を肯定すること、相手を正解・不正解の枠組みで裁かないことが重要だと書きました。

yudaism.hatenablog.com

 記事の中では、具体的に相手にかけると良いおすすめの言葉として
「私にとっては、あなたが生きていてくれるだけで十分だよ」
「仕事の評価と人間としての価値はまったく無関係」
「生きているだけで100点だよ」
「仕事でいくらうまくいかないことがあっても、人間としての価値は一切変わらないよ」
などを挙げました。

今日は、自己否定が止まらない人にかけると効果的な、新たな言葉を紹介したいと思います。


キーワードは、「失望しない」

 結論からいきましょう。
かけるべき言葉は、
「あなたがどんな風になろうと、何をしようと、私は絶対にあなたに失望しない。」
です。

「あなたは何をやっても私を失望させることはできない。」
などでもいいと思います。

ポイントはやはり、“being(存在そのもの)”を肯定することです。
以下、詳しく解説していきます。


「自己否定」は「失望される恐怖」から生まれる

そもそも、自己否定に走ってしまう人は「相手を失望させること」に強い罪悪感や恐怖心を抱いています。
彼らにとって、「ガッカリした相手の顔」を見ることほどつらいものはありません。

そう感じるのは、幼少期に周囲の大人から過度な期待を課せられてきたからです。

「なんでこんなこともできないの!」
「なんでこんなに簡単なこともわからないの!」
など、答えようのない責められ方をしたとき。

直接言葉で言われなくとも、
「子どものテストの点数を見て、親が心底ガッカリした顔をする」
など、親の期待に応えられず、親を悲しませたとき。

全力を尽くしても大人の期待に応えられなかったとき、子どもは大人の失望した顔を見てひどく傷つきます。

-自分の持てる力をすべて出したのに期待に応えられなかった。-
その事実に直面したとき、成熟した大人なら自分の「行動」を反省することができますが、子どもはそうはいきません。
「大人の期待に応えられなかった自分」という「自分の存在そのもの」を責め、罪悪感を抱いてしまうのです。

そのつらい思いから逃れるためにどうするか?
子どもは、必死に親の期待に答えようと頑張るんですね。
だからこそ、必死に頑張っても期待に応えられなかったとき、自分を否定する以外に感情の向けどころがないのです。
想像するだけで、かわいそうなくらい辛そうな状態ですよね。


大切なのは、「失望される恐怖」を与えないこと

ではなぜ、親は子どもに「失望」してしまうのか?
人は他人に「失望」してしまうのか?

それは、相手に何かを期待しているからです。
言い換えると、自分が期待する特定の“doing”に相手が応えてくれないからこそ、相手に「失望する」わけです。

こちら(たとえば親)が「失望」したのを見て、相手(子ども)はとても自分自身の“being(存在そのもの)”を愛されている」とは感じられません。

だからこそ、「あなたがどんな“doing”をしようとも、決して失望しない」と伝えることで間接的に相手の“being”を愛しているということを伝えることが重要になるのです。

別の観点から説明すると、
ーーーーーーーーーーーーーー
①こちらが相手に期待する

②相手が期待に応えられない

③こちらは失望する

④相手は自分自身を責める
ーーーーーーーーーーーーーー
という自己否定の流れの中で、①を断ち切るということです。

相手に特定の“doing”を期待せず、“being”そのものを認めることができれば、相手は
・失望される恐怖
・相手の期待に応えなければ受け入れてもらえない恐怖
・相手の期待に応えられるかどうか常に緊張するストレス
・「相手の期待に応えられない自分」を責めるストレス
などから開放され、次第に「無条件で自分は愛される」と感じることができるようになります。


自己否定の癖は、ポジティブな体験の蓄積によって解消することができる

自己否定癖の強い人の中には、
・“being”を肯定されてもしっくりこない
・“being”を肯定されても、「どうせ本心では失望してるんでしょ」と思ってしまう
・とはいっても「期待に応えられていない自分ってダメじゃん」と自分自身が思ってしまう
という人もいるでしょう。

仮に他人が自分に何も期待しないで“being”を愛してくれていたとしても、
それまでの体験の積み重ねで自分が自分自身に無意識に高い期待を課してしまったり、他人の表情から無意識に「期待らしきもの」を読み取ってしまったりすることもあると思います。

それは、その人がそれまで「周囲から長年、かなりの高い期待を背負わされてきたこと」の表れであり、まったく自然で、無理もないことです。

安心してください。
どんな否定的な記憶も、それに勝る肯定的な記憶を上書きすれば消えていきます。
100回傷ついたら、101回愛されればいいのです。

だから、自己否定が止められなくて苦しんでいる相手に関わるときは、たとえすぐに変化が表れなくても根気強く“being”を認め続けることが大切です。

何度も何度も繰り返しているうちに、必ず相手自身が、自分の“being”を少しずつ肯定できるようになっていきます。


まとめ

今回書いたことは、実際に私自身が友人にしてもらって絶大な効果を感じ、
そして私も自己否定に苦しむ友人に実践してみて効果が表れた方法です。

たくさん傷ついてきた人ほど効果が表れるまでには時間がかかりますが、
長期的な視野を持ち、必ず相手の心が楽になると信じて、続けてみてください。

幼いころ「ありのままの自分」を愛されなかったからといって、大人になっても自分で自分を愛することができないとは限りません。

どんなに苦しい環境で育ったとしても、人間のもつ意志の力で、人は必ず自分の心を自由にすることができる
と、私は信じています。

経験者が語る、カウンセリング(心理療法)の効用と限界

何度かご紹介しているように、私は心の問題で2度の休職を経験しています。

休職するまで心と身体を痛めてしまった原因は、このような私の性格にありました。
・完璧主義。完璧でない自分が許せない。
・仕事を家に持ち帰り、四六時中心が仕事が頭を離れない。
・誰に対しても過度に「良い子」をしてしまう。思ったことが言えない。
・誰にも弱みを見せられない。
・人に頼み事をすることに罪悪感がある。etc...

こうした性格(≒心の癖)が仕事の抱え込みすぎ、働きすぎを招き、無理を重ねる中で体調が悪化して休職に至ったのです。
原因は明らかに私の性格にありましたが、自助努力ではどうにもならず、集団討議の認知行動療法でも結果が出ず、最終的にカウンセリング(心理療法)による治療を行うことになりました。

今日は、何か辛い現実に直面して本格的にカウンセリングを受けようと思っている方に向けて、週一回、8ヶ月に渡るカウンセリングを受けた経験から「私が思う、カウンセリング(心理療法)効用と限界」をご紹介したいと思います。

 

効用:心の癖(精神的縛り)から解放される

そもそも、カウンセリングとは「自分を生きにくくしている“心の癖”を、カウンセラーの支援を受けながら取り除くための治療法」です。

カウンセラーは相談者の鏡となり、相談者はカウンセラーの質問に従って自身の体験を話していくことで自発的な気づきを得ていきます。

心の癖は恐怖を感じた体験から作られることがほとんどです。
カウンセリングでは、この心の癖を生んだ原体験を相談者自身が掘り当て、思い出して、恐怖を感じなくなるまで消化していきます。(これを「暴露療法」といいます)

カウンセリングは、うまくいけば自分自身を縛り付けている心の癖を取り除くことができます。

その状態になると、根源的な恐怖心は薄れ、これまで持っていた心の癖は解消して、「心の癖で苦しんでいた過去の自分の気持ち」に共感することすら難しくなります。

恐怖の原体験を思い出すことは心理的に非常に辛く、場合によっては身体症状も伴う大変な作業ですが、乗り越えた先には二度と同じ思いをしなくてよい「恒常的に安心感に包まれる状態」が訪れます。


限界:カウンセリングには、人によって向き・不向きがある

一方で、カウンセリングには受けると症状が改善する人、受けると逆に症状が重くなる人、の2タイプが存在します。

両者を分ける要因は、「苦しみの原因となっている恐怖体験が本人にもたらした恐怖の度合いの強さ」です。(※あくまで「本人にとっての」恐怖の度合いであり、周囲から見た恐怖体験の壮絶さでないことに注意!)

端的に言えば、過去の出来事で受けた恐怖があまりに大きい場合は、カウンセリングはおすすめできません。

先ほど書いたように、カウンセリングの基本的なメカニズムは、「苦しみの原因となっている過去の恐怖体験を掘り当て、繰り返し思い出すことによって恐怖に慣れる」ということです。

「当時と今で状況は変わっていることを感じながら繰り返し思い出すうちに、恐怖体験は恐怖ではなくなる。」
「すると、これまでのように恐怖体験と現実の出来事を結びつけることがあっても、原因となる恐怖体験から恐怖を感じなくなっているので、現実の出来事にも恐怖を感じなくなる」
という考え方です。

確かに、論理的にはこの方法で恐怖体験の消化が進みそうに感じます。
ただ、あくまで「論理的には」なのです。

過去の出来事で受けた恐怖が特に大きい人は、無意識のうちにそれを忘れようとしています。
とはいえ完全に忘れることはできませんし、心の底には恐怖が残っています。

忘れようと無意識下に追いやっていた体験(親に激烈に怒られた等)を意識下に引きずり出すことで、人によっては生命の危機を感じるほどの恐怖を再体験します。
「思い出す」という行為は、脳科学的には「もう一度同じ体験をする」ということと同じです。

生命を維持することすら危うかったからこそ恐怖を無意識下に押し込めたのだから、カウンセリングで同じ恐怖体験を思い出すことはもう一度「生命の危機」を感じることに他なりません。
人によっては動機、息切れ、過呼吸、発熱、嘔吐などの身体症状が起きることもあります。

一番怖いのは、ここまで来るともう恐怖の原体験を無意識下に追いやることができなくなることです。
日常的に頭の中にその原体験がこびりつき、現実のあらゆる出来事をそれと結びつけて、恐怖から身を守るためにさらに強い心の癖を生んでしまうだけです。

また、ここで耐えられなくなってカウンセリングをやめると、単に恐怖体験の上塗りをしただけのことになってしまいます。
心理的囚われから自由になるためにカウンセリングを受けたのに、まったく逆の結果を招く可能性があるわけです。


解決策重視型アプローチの勧め

だからこそ、私はまったく別のアプローチも紹介したいと思います。

そもそも、カウンセリングはあくまで現実の世界で心を病むことなく健康に生活できるようになるための手段の一つでしかありません。

「根本的な原因を見つけ、根っこからそれを取り除く」という考え方は問題解決の王道でしょうが、心の問題に関しては王道の方法が是とは言い切れません。

健康な心で生活するためには、必ずしも原因究明は必要ないのではないか。
その代わり、健康な心で生活できるようになるためのHow to(=解決策)をたくさん試せば良いと思うのです。

例えば、「ありのままの自分を受け入れてくれる人と時間を過ごす」というのも立派な方法があります。
一緒にいて不安感を感じない、心から安心・信頼できる人が一人いるだけで、「私は無理しなくても、ありのままでも愛されるんだ、受け入れられるんだ」と感じられるようになります。
その体験が繰り返されるにつれて、その信頼できる人以外の人と一緒にいても以前ほど心の癖が発動しにくくなるのです。

また、「無意識に唱えているセルフトーク(内面で起こる独り言)の内容を紙に書き出し、それとまったく逆の独り言を機械的に唱える訓練をする」という方法も効果的です。
心の癖は、実際に口から発する言葉ではなくその1つ前の段階、つまり内面で起こる独り言によく現れます。
その内容を自覚するとともに、それが否定的なものである場合は肯定的なものに機械的に(まずは納得できなくてもいいので)唱えると、自然とネガティブな思い込みが和らいでくるのです。

こうした方法ではまったく心の癖が生まれた原因を究明しませんが、こうしたHow toを繰り返すと、「ありのままの自分でいてもいいんだ。ちゃんと愛されるんだ。」という安心感を徐々に感じられるようになります。
自分自身の中のプログラム(≒心の癖)を訓練(≒How toの繰り返し)によって書き換えるイメージです。
そうなれば、もともと不安感から起こしていた行動や心の癖は発動しづらくなり、確実に心は回復していきます。

 
まとめ

私自身、カウンセリングを受け、ずっと無意識下に追いやってきた家族関係の問題が明るみに出たことで、一時期に発熱、全身倦怠感、食欲不振などの身体症状が重くなりました。
特に、原体験を掘り当ててしまった直後はこれまで毎日のように連絡を取っていた家族と関わることすら嫌になりました。関わろうとすると身体症状が出るのです。

ただ、当時の私にはカウンセリングを続けるしかほか選択肢がありませんでした。
カウンセリングを受ける前に「解決策重視型アプローチ」を知らなかったから、カウンセリングを受けるほかなかったのです。
一度受けたからには、最後まで向き合う覚悟をしないと逆効果だとも感じていたので、維持で最後まで駆け抜けました

ですが「原因究明型」と「解決策重視型」、両方の手段を知っている今なら言えます。

カウンセリングで原因究明でさらに辛い思いをし、症状を重くするリスクを負うくらいなら、無理をする必要ありません。
原因に向き合うことから逃げ続けたっていいのです。
最終的に本人の心が楽になればいいんですから、「カウンセリング」という1つの手段を避けたという事実だけを切り取って本人を責める権利は誰にもないのです。

そして、カウンセリングを受け始める前に、ぜひ「解決策重視型アプローチ」の方法を探してみてほしいのです。
具体的な方法や書籍等の情報源は「ネガティブ感情と向き合う」のカテゴリでも随時紹介していきますが、私の知らない、専門家だからこそ知っている方法が世の中にはたくさんあるはずです。

私と同じようにカウンセリングしか方法が残されておらず、実際に飛び込んだ結果、症状の長期化・悪化に直面している方はきっとたくさんいると思います。

私自身がその世界を垣間見た一人だからこそ、同じように辛い思いをする人が一人でも減るよう心から祈っています。

働くフィールドは違えど、「ベースとなる価値観」の重要性は変わらない ーサッカー元日本代表、岩政大樹選手ー

過去のエントリーで、「ベースとなる価値観」を作ることの重要性を書きました。

yudaism.hatenablog.com


このブログの根幹をなす非常に重要な考え方なのですが、昨日「まさに同じことを言っている!」と思えるサッカー選手の記事があったので共有します。

その選手とは、元サッカー日本代表岩政大樹選手です。

岩政選手は身長187cmの大型DFとして2004年から10年間J1鹿島アントラーズの主力として活躍し、2014年にタイリーグ、2015年から昨年までJ2ファジアーノ岡山でプレーしました。

ファジアーノ岡山ではキャプテンとしてチームを牽引し、チームを初の昇格プレーオフまで導きます。
その活躍が評価され、クラブ、サポーターから残留要請を受けたにもかかわらず本人は退団を決意。
まだJ1、J2で活躍する力がありながら、2017年は5部の社会人リーグへの移籍を決めました。
その決断の経緯、岩政選手の「ベースとなる価値観」が書かれているのがこちらの記事です。

zasshi.news.yahoo.co.jp


■岩政選手の「ベースとなる価値観」

 記事よると、岩政選手は、サッカー選手として以下の価値観の元にチーム選びをしてきたそうです。

①「自分」が輝くことよりも「チーム」や「チームメイト」を一番に置く。それによって、結果「自分」も一番輝く。
※普通は「自分」が輝くことを一番に置いた上で、次に「チーム」が来る
②移籍するとしても、自分が過去に所属していたチームとは対戦したくない。
③大切なのは、「人と人」、「信じること」、「共有すること」。

私なりに一つずつ解説を加えてみたいと思います。

①「自分」が輝くことよりも「チーム」や「チームメイト」を一番に置く。

これは独特の考え方ですよね。
競争の激しいサッカー界で、誰もが生き残るために「自分」の活躍を最優先にする中、岩政選手は逆の価値観を持っています。
移籍に関しても同じ価値観に基づいて選択していることが、以下の文章からわかります。

  J1でプレーできなくなったらJ2、J2でできなくなったらJ3やタイリーグ、それでもダメなら引退。そうした選択をしていくと、いつも「自分」のことに目が行きがちになります。「自分」に基準を置いて、「自分」がどこにいるかが選択の理由になります。

  しかし、「チーム」や「チームメイト」に基準を置いていると、違うものが見えてきます。「このチーム(チームメイト)をどうしたいか」に始まり、そのために「自分は何をすべきか」が見えてきて、そこから「自分をどこに置くべきか」が出てきます。

競争の激しい世界だからこそ、普通は「自分」の活躍を最優先にしちゃいそうですけどね…。
きっと岩政選手は、「自分」という個人レベルではなく「チーム」という組織レベルの高い視座から物事を考えられる稀有な存在だったと思います。
だからこそキャプテンを任されていたのかもしれません。

②移籍するとしても、自分が過去に所属していたチームとは対戦したくない。

これは、①の「チーム」、「チームメイト」を第一に置く岩政選手ならではの考えといえます。(①の価値観を一段具体化した考え方ですね)

普通の選手ならクラブに在籍している間に限って「チーム」、「チームメイト」のことを思いやりそうなものですが、岩政選手はクラブを去ることになってもなお、その気持ちが変わらないのです。

 4日からの約1週間は、僕の人生で最も多くの涙を流した1週間となりました。
 このクラブをJ1に上げたいという夢を叶えることができず泣き、クラブを離れることが決まり泣き、家族を前にして泣き、サポーターの皆さんの温かい言葉に泣き、そしてたくさんのチームメイトのメールに泣きました。

 だから、やっぱり僕は自分が所属したチームとは対戦したくないのです。チームメイトたちが「対戦したくないから、J2には行かないでくださいね。」と言ってくれた言葉に、今回もその気持ちを確認しました。

 だからこそ、これまで在籍したチームはすべて異なるリーグに所属しているんですね。(J1、タイプレミアリーグ、J2)

③大切なのは、「人と人」、「信じること」、「共有すること」。

この記事の最後で、岩政選手は自分の人生で一番大切なものを説いています。
それは、普通の価値観(待遇重視など)とは一線を隠すものです。

しかし、多くの人が“損をした”と思うかもしれない決断も、岩政選手の価値観に基づけば幸福を最大化する選択になっているのがポイントでしょう。

 いちサッカー選手としては損をしてきたところもあると思います。今回の岡山の退団も、違う生き方を選んでいれば、違う形になったのかもしれません。

 しかし、今になってようやく、僕は随分得をしたと思えるようになりました。「人と人」、「信じること」、「共有すること」。そうした「響くもの」に目が行くようになり、お金では変えられないものを手に入れられたと思うからです。

 ただ、サッカー選手と言えどもただ1人の人間です。自分の人生しか歩けません。自分の選択に後悔に似た感情を抱く瞬間も当然ありますが、大事にすべきなのは「自分のスタイルや生き方をどこに置くか」だけなのだろうと思います。"普通"や"当たり前"を周りとあわせる必要はなく、自分の生き方を見失うことがなければいいのです。

 
■まとめ

今回紹介した岩政選手の「ベースとなる価値観」は、正解・不正解のある話ではありません。
良いと思うのも、間違っていると思うのも個人の自由でしょう。

ただ少なくとも言えることは、
・一般的な考えと逆行する価値観であるほど、価値観と行動を一致させるのは難しい
・それができる岩政選手は強固な信念の持ち主であり、その生き様には私達が学べるものがたくさんある
ということです。

岩政選手は、自分の「ベースとなる価値観」に沿って生きることを選択した結果、
きっと様々な批判にさらされていると思います。
「J1、J2で活躍してまだまだ高い年俸をもらえるのにバカだ」
「J1昇格が叶わなかったからといってファジアーノ岡山を退団するなんて無責任だ」
など、外野からの批判は様々あるでしょう。

ですが人生、最終的には“自分自身が”幸せになることより大切なものはありません。

今回の岩政選手の決断を通して、「人生で何を一番に大切にすれば自分は幸せを感じるのか」を突き詰めて「ベースとなる価値観」を作ることが、自分の幸せにつながることを改めて感じました。

「自分の意見」を作る4つのステップ

前回の続きです。
前回、「論理的に正しい考えが、絶対的に正しいとは限らない」という記事を書きました。

yudaism.hatenablog.com


「ベースとなる価値観を作ること」が最も大切なのは変わりませんが、
今日はもう一歩具体論に踏み込んだ、「“自分の意見”の作り方」について書きたいと思います。


■踏むべきステップは3つ

「自分の意見」とは「正解」である必要はありません。
「正解」はそもそも存在しないので、「色々な意見があるけど、その中でも自分はこう思う。なぜなら…」が語れれば問題ないわけです。

自分の意見を作るためには、4つのステップが必要です。
①まずはどれだけ粗くてもいいから、「自分はこう思う」という意見を作る
②その上で、立場の異なる複数の人から意見を聞く(読書などでも可)

③②の意見を聞いたときの「心の反応」に耳を澄ませる
④③の「心の反応」を言葉にして、論理的に整理する

①が重要なのは、どんなに粗くても自分の意見を持った上で他人の意見を聞くことで、自分と他人で考え方の異なっている点が明確になるからです。
「自分の意見を作る」とは、無数にある考え方・価値観の中から自分にフィットするものを選ぶ作業でもあるので、自分を知るために他人の考え方・価値観との比較は必須です。

②では「立場の異なる複数の」という部分がポイントです。
立場が異なる人は考え方・価値観も異なるので、当然意見も違います。
複数の考え方・価値観に触れることで、より多角的に・精度高く自分にフィットする考え方を選ぶことができることになります。

他人の意見を聞けば、必ず
「確かに最もだな!」
「論理的には正しいんだけど何か違うな…」
など、心の反応があるはずです。
まずはこの反応を逃さず、耳を済ませることが重要です。(→③)

そして、「最もだ」と思ったとすれば「具体的に、どの部分の考え方最もだと思ったのか」、
「何か違う」と感じたならば「どこが違うと感じたのか」「どのように違うと感じたのか」「それはなぜか」など、
自分に質問を繰り返していくことで徐々に自分の考え方がクリアになっていきます。(→④)

こうして自分の考え方がクリアになっていくと、仮に聞いて回った他人の意見の中に100%同意できるものがなくてもそれにアレンジを加えて100%納得できる考えを作り出すことができます。


■4つのステップの実践例

具体例として、前回の記事で取り上げた「喫茶店のヨーグルト事件」を例に考えてみましょう。以下、引用です。

ある喫茶店の店主が、自家製ケーキを作るために毎日スーパーで某有名ヨーグルトを購入していました。
ある日、そのヨーグルトが「20%増量中!350g入り!」との表示付きで売られていたのだそうです。
店主は早速10箱購入し、店に帰ってケーキ作りに取り掛かりました。

そこで店主は驚きの事実を目の当たりにします。
10箱すべてのヨーグルトの内容量を測ったところ、そのすべてが340~345gの範囲内にあり、350gに達するヨーグルトがひと箱もなかったのだそうです。

故意を感じた店主は、メーカーに抗議の電話をかけるとこう言われたそうです。
「“計量法”という法律では、内容量表示に対して数パーセントの誤差が認められている。ウチのヨーグルトはすべてその法律の範囲内の内容量が入っている。法律に違反していないのだから、問題ないという認識だ。」

あなたはまず、喫茶店店主の行動を見て「たった数g足りなかったくらいで、クレーム電話をかけるほど怒ること?」と疑問に感じたとします。(→ステップ①)

ところがその後、メーカーの意見を聞き、店主の意見と照らし合わせて、メーカーの意見には確かに違和感を覚えたとします。(→ステップ②、③)

「何に違和感を感じたのか」を掘り下げていくと、
「法律違反をしていないのだから謝る必要はない」という“態度”、
そして「計量法という法律を逆手に取ってヨーグルトの内容量を節減しようとする姑息さ」
の2点だということがわかりました。

結果、あなたはこういう意見をまとめます。(→ステップ④)
・数g程度ヨーグルトの内容量が足りないのは、許容範囲だと思う。ただし、それが製造上の誤差である場合に限る。
・今回の場合は、メーカーが計量法を都合よく利用して故意にヨーグルトの量を節減しているので許せない。
・「法律違反をしていないのだから謝る必要はない」という態度も、消費者に対して不誠実だ。
・故意にヨーグルトの内容量を減らしていることを認めたくない、謝罪をしたくないのなら、そもそも計量法を恣意的に利用するのをやめ、表示通り350gのヨーグルトを入れるべきだ。

4つのステップを踏んだことで、“なんとなく考える”よりもはるかに強固な「自分の意見」を作ることができましたよね。


■「自分の意見」は、あくまで"暫定的にベストだと思う考え”でいい

一つだけ、上記の4ステップを踏む上で注意点があります。

それは、完璧を目指さないことです。
もし人の意見を聞く中でより良い考え方に出会ったのならば、自分の考えを修正すればいいだけのこと。(ときには謝罪が必要かもしれませんが…)
「自分の意見」とは、「これまでに入手した材料や想定していた考え方の中で、暫定的にベストだと思う考え」くらいのつもりでいいのです。

そもそも自分ひとりで完璧な意見が作れたら、人と議論する必要はありません。
自分の意見も「途中で微修正する」という前提のもとで肩の力を抜いて作りましょう。

ステップ①~④の作業は一回しで終わりではなく、何度も繰り返すのがお勧めです。
4つのステップを繰り返すたびに、さらに自分の考えは強固で説得力のあるものに変わっていくはずです。

今回紹介した方法は完全にオリジナルの方法です。あくまで私の方法なので、フィットしない人もいるかと思います。
より良い方法が見つかれば随時記事にしていきますが、「こんな意見の作り方もあるよ!」という方は是非コメントください!

論理的に正しい考えが、絶対的に正しいとは限らない

人と議論を重ねて一つの結論を出さなければいけないとき、
誰しも人の意見を聞いて「ああ、確かに」と思うことがあると思います。

私はつい最近まで「ああ、確かに」と思う場面が多すぎて、自分の意見が整理できなくなる場面がよくありました。

「どうすれば人の意見に納得しすぎることなく、その場で自分の意見が出せるのか」について考えたとき、3つの事実が見えてきました。
私はこれに気が付いただけで、周囲の意見に流されることが減り、次第に自分なりの意見が作れるようになりました。


■心をラクにする、3つの事実

その事実とは、
・論理的に正しい考えが、正解とは限らない
・論理的に正しい考えは、無数に存在する
・「絶対的に正しい考え」というのはそもそも存在しない
の3つです。

私たちが「ああ、確かに」と一瞬納得するような意見は、おそらく「論理的に正しい」答えではあります。
ただし、それは「論理的に正しい」だけであって、1つのモノの考え方でしかありません。
物事には複数の考え方があるので、「論理的に正しい」考えというのもその考え方の数だけ存在するわけです。(→②)

具体例を挙げましょう。実話です。

ある喫茶店の店主が、自家製ケーキを作るために毎日スーパーで某有名ヨーグルトを購入していました。
ある日、そのヨーグルトが「20%増量中!350g入り!」との表示付きで売られていたのだそうです。
店主は早速10箱購入し、店に帰ってケーキ作りに取り掛かりました。

そこで店主は驚きの事実を目の当たりにします。
10箱すべてのヨーグルトの内容量を測ったところ、そのすべてが340~345gの範囲内にあり、350gに達するヨーグルトがひと箱もなかったのだそうです。

故意を感じた店主は、メーカーに抗議の電話をかけるとこう言われたそうです。
「“計量法”という法律では、内容量表示に対して数パーセントの誤差が認められている。ウチのヨーグルトはすべてその法律の範囲内の内容量が入っている。法律に違反していないのだから、問題ないという認識だ。」

このメーカーの意見はまさに「論理的に正しい」ですよね?
でも何か納得いきませんよね?

メーカーの意見は「法律に違反しているか否か」が善悪の判断基準になっています。
対して喫茶店の店主は、「メーカーの消費者に対する誠実さ」が善悪の判断基準です。

店主の考え方、
「350gと表示しているのだから、ばらつきが認められるとしても350g前後だろう」
「すべての個体で故意に数gをケチるのは、消費者をだますような行為だ」
というのも、一つの「論理的に正しい」考えであるわけです。

このように、一つ一つの見方はその見方をする当事者にとって「正しい考え」であっても、異なる見方をする人からは「正しい考え」ではありません。

「論理的に正しい」だけで、「絶対的に正しい」考えだとは言えないわけですね。(→②)


■一番に認識すべきは、「絶対的に正しい考えは存在しない」ということ

このように、立場や価値観によって無数の考え方がある以上、
誰から見ても正しいと思えるような考え方は存在しないと考えた方が良いでしょう。

家族など、心理的距離の近い存在にはついつい自分の考え方を押し付けがちになりますが、自分には自分の、家族には家族の「考え方」があるわけです。

Mr.Childrenの『掌』という歌の中でも、こんな歌詞があります。

君は君で 僕は僕 そんな当たり前のこと
なんでこんなにも簡単に 僕ら
見失ってしまえるんだろう?

ひとつにならなくていいよ
価値観も理念も宗教もさ
ひとつにならなくていいよ
認め合うことができるから
それで素晴らしい

まさに、この歌詞の通りだと思います。


■まとめ

今回のまとめです。

・「論理的に正しい」だけの考えに惑わされてはいけない。「絶対的に正しい考え」はそもそもないのだから。
・「論理的に正しい」と思っても、心が違和感を感じたらその場で迎合してはいけない。
・「論理的に正しい」考えを「絶対的に正しい」かのように振りかざすこと、自分の考えを押し付けることはナンセンス。少なくとも自分はしないようにしよう。

前述の3つの事実が腹に落ちれば、誰と話していても相手の考えを「相手なりのモノの見方」として認めることができるようになります。
自分の考えを相手に押し付けることがなくなります。

そうして相手の考えを認め、相手の多様性を尊重することができれば、相手にはその気持ちが必ず伝わります。
相手は、自分をありのまま認めてくれたあなたの人間性に魅力を感じるでしょう。

そしてさらにうれしいのは、自分自身も対人関係のストレスが減ることです。
そもそも相手に自分の考えを押し付けないので、相手が自分の考えを認めてくれない、受け入れてくれないストレスが生まれようがないからです。

膨大な媒体から情報があふれ、論理的に正しい答えが無数にメディアに流れている現代。
その中で自分なりのモノの見方・考え方を作ることは非常に難しいと思います。

ですが、今日書いたことは間違いなくそのための第一歩になります。
「自分なりのモノの見方・考え方の作り方」の基本は下記エントリにまとめていますが、細かいHow toはまた別記事にまとめたいと思います。

yudaism.hatenablog.com

「成果を出していないと意見すら言えない」という風潮はおかしい

今日は自分の「ベースとなる価値観」を一つ作ってみました。
(※参考→生きるのをグッと楽にする、「ベースとなる信念」の作り方 - ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

社会人になり組織に属していると、往々にして
「成果を出している人の意見は重視され、そうでない人の意見は無視される」
という場面に直面します。

ここでいう「意見」とは、組織の体制や仕組み等、仕事に関係する進言のこと。
たとえば営業職であれば「ノルマを達成してから会社への不満を言え」という話です。
それ以外の職種でも、「一人前に仕事ができるようになってから生意気を言え」という風潮はどこにでもあるでしょう。

当たり前の論理として受け入れがちですが、私はずっとこの風潮に違和感があります。
というのも、私自身転職するたびに「成果を出していないから意見が聞き入れてもらえない状態」になって沢山悔しい思いをしてきたからです。
組織の批判で終わるつもりなんてないのに、キャリアが浅くて成果が出せないだけで意見を聞いてもらえないなんておかしいじゃないですか。

ということで、今日は改めてこの風潮の是非を考えてみます。


結論:「成果を出していないと意見すら言えない」という風潮は非合理的だ

「成果を出していないと意見すら言えない」風土のある組織では、「何を言ったか」より「誰が言ったか」が重視されます。
営業であれば売れっ子営業マンの意見が説得力を持つのです。

確かに、「成果を出していない人の意見には説得力がないから聞く価値がない、成果を出している人の意見には説得力があるし聞くに値する」というのは一見納得できます。
よくある論調だとも思います。
しかし、逆にそれは感情論ではないか?と最近思うのです。

「意見に説得力がある」というのは「その意見が的を射ている可能性が高い」という意味合いでしょう。
では、「本当に成果を出している人の意見が的を射ている可能性が高いと言えるのか」と考えてみると、そうとも言い切れません。
売れっ子営業マンの価値観、人間性、ものの見方の癖などによっては、発言内容が偏っている可能性は十分にあるわけです。
逆に言えば、成果を出していない人の方が本質的な意見を言うケースもあるはずです。

それを念頭に置くと、「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」を重視し、発言の内容そのものを吟味する方が組織にとってプラスになるのではないかと思います。
組織の意思決定に役立つ材料が集まることが重要だからです。

「発言者が成果を出している・いないにかかわらず、基本的にすべての意見には遍く聞く耳を持つべき」
というのが私の基本的な考え方です。


ただし、発言者の当事者意識と責任感の有無は厳しくチェックする

ただ、上記はあくまで理想論です。

現実的に、限られた時間の中ですべての意見に耳を傾けることは不可能に近いでしょう。
仮にそれが可能だとしても、素早い組織の意思決定のために効率性(無駄な意見は聞かないこと)を追求する必要があります。

そこで重要になるのが、発言者の「スタンス」によって意見を聞き入れる・入れないを判断することです。

組織には「当事者意識が欠如し、批判ばかり並べ立てて自己満足に陥って成果を出すことにコミットしない」タイプのメンバーが一定数存在します。
彼らの存在は組織にとって大きな損失ですし、彼らから組織の意思決定に役立つ本質的意見が出てくる可能性は限りなく低いでしょう。
当事者意識のない人には、根本的な解決策など生み出せないからです。

こうしたメンバーについては「成果を出してから意見を言え」スタンスで臨み、意見を聞き入れる必要はありません。
(厳しいですが、言われる側にも問題があるので致し方ないでしょう)

逆に、今現在は成果を出せていなくとも、一定の条件を満たすメンバーであればその意見には耳を傾けた方が組織のためになります。

その条件とは、
①本人が成果を出す必要性を理解しており、
②行動レベルで成果を出すことにコミットしていて、
③成果を出していない自分が意見を言うことに葛藤している誠実さを備えている
の3つです。

この条件を満たす人は、先の批評家タイプにはない2つの要素を持っています。
それは、「当事者意識」と「責任感」です。
つまり、組織を運営する主体者になったつもりで、主体者と同じ目線で物事を考えているということです。
「自己の満足や利益のためではなく組織の利益のために物事を考える」という姿勢があるだけで、その意見の質は他とは一線を画すものになります。

組織にとって一番大切なことは、「最短の時間で、最高の意思決定材料を集めること」であるはずです。
この目的を達成するために、発言者の当事者意識・責任感の有無によって、意見を聞く・聞かないを決めるのがベストな選択でしょう。


まとめ

結論をまとめます。

・「成果を出していないと意見すら言えない」という風潮は非合理的。
・組織にとって一番大切なことは、「最短の時間で、最高の意思決定材料を集めること」であるはず。
・そのためには、成果を出しているか否かではなく、発言者に当事者意識と責任感があるか否かによって意見を聞き入れるかどうかを判断すべき。

これこそ真に合理的な判断だと思いますが、
とはいっても「成果を出さないと意見すら言えない」という風潮が大勢を占めるのは事実です。

そうした組織に身を置いているのであれば、その風潮に従ってまずは成果を出すことに集中するしか道はないでしょう。
自分の意見を聞き入れてもらうためには、成果を出すための土壌づくりから始めるほかありません。

ただ、もし自分自身が組織の経営に近い立場に身を置くことになったときには、私は発言者のスタンスを一番に重視したいと思います。
その方が、組織全体にとってプラスになる判断ができる可能性が高いだけでなく、
将来成果を出せる可能性が高い社員の意欲を削ぐこともないからです。

長くなりましたが、今回改めて考えを深めてみて、自分なりの考えが導き出せた気がしています。
「ベースとなる価値観」をまた一つ作れたことの充実感と、こうして考え抜くことの重要性を改めて感じました。

「発言者のスタンス」の中でも何を見るか、そしてそれをどう見極めるかは様々な考え方があると思います。
新しい考え方やご意見があれば、コメントいただけるとうれしいです。

初めての仕事に取り組むときのヒント

初めての仕事に取り組むときは、疑問が沢山湧きますよね。
すべて解消しようとすれば時間がかかりすぎる一方で、スピードを重視すれば誤りや抜け漏れが出てしまう。私は社会人1〜2年目でこの問題にぶつかり、とても悩みました。

初めての仕事に取り組むときは、質とスピードどちらを優先すればいいのでしょうか?


■基本は質優先、スピードは後からついてくる

ちなみに私は、「基本的に質を優先すべき」と考えています。
最初はとにかく丁寧に、許される時間の中で質を最大限高める努力をする。
なぜなら、スピードは慣れれば自然とついてくるからです。

最初からスピード優先で仕事を進めると、後々緻密に振り返りを行い、その内容を確度高く実行に移さない限り、後々から正確さを追求したり仕事の質を高めることは難しくなります。

許される範囲で時間を最大限使って質を高めたとしても、初めての仕事ゆえ至らない点はあるでしょう。
でも、時間を目一杯使って最大限質を高めようとしたからこそ、至らなかった点の反省がより身に染みるのだと思います。
そういうときの反省は深く心に残り、必ず次の改善へつながっていきます。 


■とはいえ、仕事の出来は相手(依頼主)が決める

ただし、もちろん仕事の依頼主の希望に沿うことが第一です。
納期を無視して質を高めることに固執するのは自己満足でしかありませんし、
依頼主が質よりスピードを重視しているのであれば、完成度が低くても一回提出する(必要あらばそこから一緒に完成度を高める)のが妥当です。

仕事の出来は相手(依頼主)が評価するものであり、相手側の基準で進めるのが大前提です。

ただ、自分側に質とスピードのどちらを優先するかの選択権があるのであれば、質を重視したほうがより早く「最短の時間で最高の成果を上げられる」状態に近づけるのではないかと思います。(※理由は前述のとおり)


■ただし、どんな仕事の進め方が最適かは人の成長タイプによる

ただし、この考えには1つ注釈をつけなければいけません。
それは、質→スピードの順に優先するやり方は、「1つ1つの仕事を積み上げて、少しずつ難易度を上げながら着実に力をつけるほうが結果的に早く成長できるタイプ」の人に向いている考え方だということです。

逆に、「実力をはるかに超えた大きな仕事を丸投げされ、何もわからない中で試行錯誤することで早く成長できるタイプ」の人には、この考え方は向かないかもしれません。

仕事における「成長」とは、
・これまでできなかった仕事ができるようになること
・これまでの仕事が、より短い時間でできるようになること
です。

「質とスピード、どちらを優先するのが自分に合っているのか」
「質とスピード、どちらを優先したほうが自分は早く成長できるのか」
自分が新人であれば、これらの質問を自身に投げかけてみましょう。

逆に自分が人を育成する側に立ったときは、相手のタイプを見極めて質とスピードのどちらを重視させたほうが「成長」が早いかを考え、最終的には本人の話も聞きながらこちら側で指針を示してあげてはいかがでしょうか。

特に仕事経験のない新入社員には、色々な意味で「何を優先して仕事を進めるべきか」の判断基準が備わっていないので、周囲が様々な観点(「質とスピードのどちらを優先すべきか」など)から指針を示すことは非常に重要です。 

文章を書きたい初心者に。-『武器としての書く技術』(イケダハヤト 著)-

このブログを始めて間もないとき、思ったような文章が書けなくてこの本を手に取りました。
2016/12/11のエントリ(ここまでのブログの振り返り - ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~)で文章がうまく書けない原因と対策について考えましたが、この本はあえてこのエントリ執筆後に読んでみました。 

武器としての書く技術 (中経出版)

武器としての書く技術 (中経出版)

 

結論、文章を書きたい初心者には非常にオススメの本です。
イケダハヤトさんの文章は非やすくて読みやすく、サクサク読めるのに実践的なヒントが満載の内容になっています。

この本は一言で言うと、
・残念な文章の特徴とそれを最強の文章に変えるための「書く技術」の分析・解説をし、
・ブログ収入を稼ぐための技術と方法を、複数の観点から紹介している
本です。

この本自体が「書く技術」を実践して書かれているため、内容は非常にわかりやすく、読みやすいものになっています。この本のわかりやすさ・読みやすさが、紹介されている「書く技術」の説得力を高めているといえるでしょう。

実際のこのブログで「書く技術」を実践したところ、自分の文章の自己採点が格段に上がりました。
以前よりは、「伝えたいことが、伝わるよう書けている」気がするのです。

内容が気になりますよね。
参考までに、本の目次を一部紹介します。
----------------------
<文章が残念な人の10の特徴>
①何が言いたいのかわからない
②文章が長い。一文が長い。
③同じ語尾が続く
④抽象的すぎる
⑤私的すぎる
⑥「〜だと思います」、「〜な気がします」が多すぎる
⑦多方面に気を使いすぎて何が言いたいかわからない
⑧まじめで優等生
⑨最後まで読まないと結論がわからない
⑩そもそも内容がつまらない

<凡人の文章を最強の文章に変える10の魔法>
①編集者になって自分の文章を添削する
②読者の思考を先回りする
③記事のタイトルを工夫する
④人目を引きやすいマジックワードを文章に混ぜる
⑤ワンテキスト・ワンテーマの法則
⑥リズムの良い文章を意識する
⑦万人に伝わる言葉を使う
⑧ひらがなとカタカナ、漢字のバランスに気をつける
⑨名言などの引用を混ぜてみる
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中でも一番勉強になったのは、「批判を受けるリスクがあっても、本音を言い切る。“~と思います”などの曖昧な表現は使わず、“~です”と言い切った方がメッセージは伝わる」という技術です。

仮に自分の意見が過度に偏っておらず中庸より少しどちらかにずれている程度だとしても、それをそのまま文章にしては、伝わるものも伝わらないということ。
言い切ることは、誰かが言ってほしい意見を代弁することでもあること。
白か黒でいえば白!というように、時には言い切るべき場面があることを学びました。
(実際にこのブログでも、初期より最近の記事の方が曖昧な語尾が減っているはずです)

あえてこの本をオススメできないポイントを挙げるとしたら、2つでしょうか。
一つは、ブログで収益を出す方法についての記述が多いことです。頻繁にブログを更新して収益化を目指す人でなければ、270ページのうち70ページほどは不要な情報です。

もう一つは、紹介されている「書く技術」の難易度の低さです。
「ブログ」という媒体を使ってアクセスを稼ぎ、稼ぐことを前提に話を進めているので、そのつもりである程度の量の文章を書いてきた経験のある方、文章を書く上で特段ストレスを感じていない方マネタイズのノウハウを調べて実践してきた方には既知のノウハウも含まれていると思います。


言わずもがなですがこの本に書かれている「書く技術」を実際に実践しなければ本当に価値ある文章が書けるようには100%なりません。
ヘタクソでも10点でもいいから、とにかくアウトプットしてみることが重要です。

実践する過程では、必ず思うように実践できない「書く技術」が出てきます。
それがゼロに近づくよう、試行錯誤する過程こそが自分の成長につながります。
できれば一定期間に集中的に書く訓練を積むことで、文章力は格段に向上するでしょう。


著者の言う通り、「書く技術」は私たちが思っている以上に自分と他者を差別化する大きな「武器」になります。
「書く技術」で生計を立てている著者の言葉はすべて著者自身の実践と失敗から編み出されたもので、これで1,500円は安いと思います。

「書く」という行為は、
・思考力が鍛えられる
・自分の意見を客観的に見ることができるようになる
・会社の外の人に自分という存在を知ってもらえる
・その結果、自分の仕事の領域も広がる
・記憶力が高まる
・人前で話す力、人に伝える力が向上する
・自分を表現することで「個人」を取り戻せる
・自分の思考を言語化することでストレスマネジメントができる
など、たくさんの果実をもたらす営みです。

この機会にぜひ、「書く」ことを始めてみてはいかがでしょうか?

人を信頼する・しないの判断基準について考えてみた

個人的なエピソードですが、以前こんなことがありました。

仕事の同僚で、付き合い始めた当初はとても優しく「素晴らしい人だな」と思っていた人が、付き合いが長くなるにつれて自分への態度を変えたのです。
次第に傲慢で自己中心的になっていくその人を見て、最後はその人は「外面(そとづら)だけがよく、内面(うちづら)が悪い人」だとわかりました。
一定以上の距離に近づくと内面(うちづら)の悪さが出るので、家族はかなり苦労していたようです。
途中で「この人は信頼できない」と思った私は、徐々に距離を置くことを決めました。

付き合い始めは誰しも良い面ばかりを見せるもの。
ですが付き合っていくうちに「信頼できない」と気づくのでは、プライベートはまだしも仕事上では死活問題です。
特に社外の取引先選定に関しては、相手が信頼できる人でなければ自社の損失にダイレクトにつながります。
信頼できない人間性を持っている人は、早期に見抜いて付き合わないのが賢明です。

ではどのように「信頼できるか・できないか」を見抜けばよいのか。
今日は自分なりの考えを書いてみたいと思います。


■私が「信頼できる・できない」の判断基準にしているのは5つ

仕事で関わる相手について、私が見ているのは以下の5つです。
・言行一致
・公私をきっちり区別している
・自分にとって都合の悪い意見にほど、真剣に耳を傾ける
・人によって態度を変えない
・虚勢を張らない
一つずつ、選定の理由を説明していきます。

①言行一致
一つ目は、言動と行動が一致していることです。
言動だけ立派で行動が伴わないのは、仕事において致命的です。
「伝えたことを実行してくれない」では、安心して仕事を任せることができません。
できることのみをできると言い、できないことは潔くできないと言う誠実さは、まさに信頼につながるポイントです。

②公私をきっちり区別している
少し意外かもしれませんが、公私をきっちり区別していることも重要です。
これを重視する理由は、公私が区別できない人は「自分の利益を少しでも多く取ろう」「自分の利益を守ろう」という意識が強いと考えられるからです。その意識が強いと、重要な決断の場面で独善的な判断をする可能性があると考えています。

私がこの基準を設けている理由は、オリンパス元社長のマイケル・ウッドフォード氏がまさにこの基準で人を判断していたからです。
ウッドフォード氏の告発本『解任』によると、同氏がこの基準に照らして最後まで信頼を置けなかった会長の菊川氏は、結局同社の粉飾決算の首謀者として逮捕・起訴されています。

③人によって態度を変えない
相手の所属や社会的地位、職業、富、名声などに関係なく、すべての人に同じ態度で接することも非常に重要です。
えこひいきは論外。下に厳しく上に媚びるのももってのほかです。
相手の社会的地位などによって態度を変える人が信頼されないのは想像に難くありません。

誰に対しても公明正大で、嘘をつかず、本心を話す。
基本的なことですが、それによって初めて本当のコミュニケーションが成立するのだと思います。

④自分にとって都合の悪い意見にほど、真剣に耳を傾ける
特に企業の経営に携わる人には、この資質は必須です。
企業の経営には、経営陣の人格や価値観が多大な影響を与えます。
正しい経営判断のためにはそれにふさわしい考え方・価値観を経営陣が持っていることが必須ですが、そのためには、時に自分自身に対する耳の痛い批判を真正面から受け止めなければいけません。

経営陣でなくとも、この資質を持っている人を私は尊敬します。
そういう人は、「自分の弱さを認め、さらけ出す強さ」と「意見してくれた相手を尊重する姿勢」の2つが兼ね備えられていると思うからです。
それを兼ね備えている人といない人で仕事の結果に違いが出ることは、容易に想像できますね。

⑤虚勢を張らない
自分の偉大さを誇張する人は、弱みを隠そうとしているものです。
誰しも他人に見られたくない弱みはある中で、あえて隠さずにさらけ出す強さを持っていることは大きなアドバンテージになるでしょう。

「自分の弱みを隠さない」ということは、ビジネス上のやり取りでも良い情報だけでなく悪い情報も誠実に伝えてくれる“可能性”(あくまで可能性です)を感じさせてくれます。
悪い情報を隠さずに伝えて、公正な情報のもとに判断をゆだねてくれる相手は信頼できますよね。

■まずは、自分なりの判断基準を作ることが大切

上記の5項目はあくまで私の考えであって、「何をもって人を信頼できるか・できないかを判断すべきか」という問いに答えはありません。

ですが、自分なりの答えは持っておくべきだと思います。
いざ「相手を信頼するかどうか」を判断しなければいけない場面が訪れたときに、その場で考えるのでは遅いからです。

自分なりの答えは“暫定的な、今現在の自分の考え”でいいと思います。
完璧な判断基準を求める必要はありません。
その基準で人を判断して、後々失敗すれば、そのときまた基準を微調整すればいいからです。

この問いには人の数だけ答えがあります。
その答えすべてに適う自分を作り、「誰からも信頼される人になる」のは正直難しいと思います。
ですが、せめて自分の答え(自分なりの「他人を信頼する・しない」の判断基準)には、自分自身が応えられるようになりたいところですよね。
私自身も、先にあげた5つの基準を満たせるくらい、自分を磨いていきたいと思います。

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