ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を乗り越えた筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

"自分の器"から溢れない範囲で

以前、心を病んで休職経験のある人から印象的な話を聞いた。
その話は休職経験者だけではなく、働くすべての人に当てはまる普遍的な話だと感じたので、今日はそれについて書いてみたい。

 

休職経験者からもらった言葉(引用)

バイアスがかからないように、その人にもらった言葉を記憶の限りそのまま引用する。

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「私は休職した経験から、今は絶対に自分の器以上のエネルギーを使わないことにしてるんです。
自分の器以上のエネルギーを使うと、その無理は必ず大きなひずみとなって自分に跳ね返ってきて、結局家族や会社に一番迷惑をかけることになる。

私の場合、一番エネルギーを使うのは人との関わり。
人と関わる量や時間のボリュームはが大きすぎると疲れてしまう。だから仕事が終わったらまっすぐ家に帰るし、仕事の飲み会や付き合いは一切断っています。

あと、家に仕事を持ち帰ることもなくなったね。
持ち帰ってまで仕事をすると、自分の器以上のエネルギーを使ってしまう。休みの日に仕事のことを考えたり仕事に手をつけたりすることはやめて、今は100%目の前の余暇に集中しています。

人付き合いも休日の仕事も、やめると決める前は怖かったよ。
人が離れていくんじゃないかとか、仕事がうまく回らなくなるんじゃないかとか。

でも、実際そんなことは起こらない。仕事も人間関係もちゃんと回っているし、むしろ、"あの人は休日の仕事や人付き合いをしないと決めている"と周りが認識してくれて、その範囲内でしかお願い事をしないでいてくれるんだよね。やる気がないとかではなく、休職経験からそういう判断をしているんだというのもわかってくれている。だから、休職前のがむしゃらに働いていたときよりもだいぶ心身ともに楽なんだよ。」
------------------------

どの部分が一番印象に残っただろう?
この話から、何を感じただろうか?

 

まずは"自分の器"を知る

僕が一番印象的だったのは、"自分の器"という概念だ。

人にはそれぞれエネルギー保有量のようなものがあって、100%調子が良い状態でも、その絶対量は人によって違うような気がする。
一日20時間活動して平気な人もいれば、10時間で疲れてしまう人もいる。

また、「何をすることでより大きなエネルギーを消費するのか」も人によって違う。
人との関わりで疲れやすい人もいれば、座っているのが苦手でデスクワークで疲労困憊する人もいる。

自分自身について、この
・エネルギーの量
・エネルギーを消費しやすい活動
の二つを把握しておくことは、限界を超えて疲れてしまわないためにとても重要なんじゃないだろうか。

僕の経験上、限度を超えた疲労は積み重なると体そのもののシステムダウンにつながるし、そうなれば心へのダメージも半端ではない。

エネルギー量が多いから良いとか、消費しにくいのが素晴らしいとかいう話ではなくて、どんなエネルギー量、どんなエネルギー消費パターンを持っていたとしても、それを自分の個性として知ってその範囲内で活動することが大事なんじゃないかと思う。
(と言いつつ、本音ではエネルギー量のある人がうらやましいけど。。)

 

"自分の器"を把握した後にやること

「これくらい活動すると疲れすぎてなかなか回復できないなあ」とか、
「休みたいけど休めないような気持ちになってるってこと自体、自分の器以上のエネルギーを使おうとしてるんじゃないか」とか、
まずは、自己対話を深めながら"自分の器"を知っていく。

その後にやることは、「やるべきことの優先順位付け」。
仕事でもプライベートでも、絶対に外してはいけないことと、外しても大事に至らないことを見分けていく。

いくつもの「やらなきゃいけないと思っていることリスト」の中で、
「AとBだったらAが優先、BとCだったらBが優先、だからA,B,Cの順に優先順位が高いな」
などと優先順位をつけて、高いものから順に、自分の器の範囲内のエネルギーで処理していく。

僕自身、この方法を取り入れてかなり生活が改善した。

Beforeの状態は、毎週末は平日の疲れで家を一歩も出られなかったが、Afterでは土曜日の午前中いっぱい眠れば午後は出かけられるくらいになった。笑

僕の場合、エネルギーの絶対量が同僚や上司より少ないことや人一倍エネルギー消費が早いことがわかったのがスタート地点だった。
中でも最もエネルギーを使うのは気を使う人付き合いだということ、エネルギーを週の前半で使い切ってしまい後半はガス欠になることもわかった。

それから、
・週の前半は夜に人と会う予定を入れないこと
・1週間の夜の予定を制限すること
・土日のどちらかは一人で過ごす時間を確保すること
などを実践したことで限度を超えた疲労が溜まることが少なくなった。

今日書いたのは概念的な考え方だけで、具体的なやり方は人それぞれ適した方法があると思うけど、何かの参考になればうれしいです。 

どうすれば人に"やさしく"在れるのか?

以前のエントリーで、「“やさしい”人は相手がありのままで"在ること"を認め、相手を自由にする」と書いた。 

yudaism.hatenablog.com


そんなことを考えていた矢先、人との新しい出会いを通じて新たな気付きがあった。
それは、「どうすれば人に“やさしく”在ることができるのか」
今日は、その方法について書いてみたいと思う。

 

22歳の新社会人から受けた影響

先日、出会った人は僕より7つ年下で、今年新社会人になる男性。
彼は思春期を海外で過ごしたこともあり、ものの考え方に「檻」のようなものがなかった。

彼の発言で最も驚いたのは、
「僕は日本で仕事に疲れたり、日本で行き詰まったら、最悪海外に逃亡すればいいと思うんですよ。たとえばカンボジアなんて、お金がなくても心が豊かな人がたくさんいて、愛情を感じながら幸せに暮らしていけますよ。」
という言葉だった。

これを聞いて、僕の頭は
「海外で仕事に疲れて最悪日本に帰ればいいや、だったらまだわかるけど逆って…」
「そこで国境越えちゃうという発想すごい…」
など、ツッコミで満載だった。
そしてこのツッコミそのものが、僕がどのような「檻」(≒心理的な囚われ)を持っているかを教えてくれた。

「日本でやっていけないなら、海外に行ったら余計難しいだろう」
「日本で仕事に行き詰まったら、日本国内で別の仕事を探すしかない」
など、僕の頭は色々な囚われでいっぱいだったのだ。

 

心理的な囚われのない人は、相手の心を自由にする

彼と話していて、僕は自分の中にあった「檻」や「境界」がググッと押し拡げられるような感覚を覚えた。
心理的に自由になったような、自由であることを許されたような、不思議な感覚。

実際に心理的自由を手にしている(と見える)人と触れ合うことで、「自分自身の心も自由にしていいんだよ」と許可をもらったような感覚があって、それは心地よいものだった。

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ここから学べるのは、人の心を自由にできるような「やさしい」存在であるためには、まず自分自身の心を自由にできなければいけないということ。

それにはまず、自分の持っている心理的な檻(囚われ)に気付かなくちゃいけない。
そして、恐れを乗り越え、その檻を手放す必要がある。

檻はある意味「この中にいればあなたは安全だよ」と自分の安全を確保してくれてきた防衛役なので、実際に手放そうとすると不安や怖れを感じると思う。

それでも、自分の中に心理的な檻が存在する限り、失うのが怖い大切な誰かに対しても、その檻を当てはめようとして
「それをやったら危険だ」
「こうした方がいい」
などと口を出して相手を縛り付けてしまいがち。
(親の子どもに対する叱責を思い浮かべれば、想像しやすいと思う)

これは“相手が傷つくのを見たくない”という自分の恐怖心ゆえであり、ある意味”相手が傷つくまい、失敗するまい”とする優しさなのだけど…
これが結果的に相手の自由を奪ってしまうのだから、なんともやるせない。

真に相手を尊重したいと思うのならば、相手への小手先の言動・行動を変えるのではなく、自分自身の心理的な檻を手放すのが本質的アプローチなんだと思う。

 

自分が「できること」でしか、人には影響を与えることができない

先の通り、人の心を自由にできるような「やさしい」存在であるためには、まず自分自身の心を自由にできている必要がある。

この話は、
人前で講演する講師や、研修講師の話と似ている。

よく言われる話なのだけど、研修講師は、受講者に教えるコンテンツを誰よりも身につけている存在でなければいけない。

受講者が「この人の話を聞こう」とマインドセットできるのは、何より研修講師自身がコンテンツの一番の使い手であり、それを使いこなして成果を出していること。

営業スキルの研修で言えば、その営業スキルを完璧に身につけ、実践して、実際に営業成果を出した経験のある講師は、言葉の重みや醸し出す説得力が全く違う。

何が言いたいかというと、
「自分自身の持っているものしか、人前で表現することができない。」
「自分自身の持っているものでしか、人に影響を与えることができない。」
ということだ。

頭で理解している「知識」を言葉にするだけでは、相手には影響を与えられない。
体に血肉となって身についているものだけが、全身からにじみ出る雰囲気となり、相手に影響を与えるのだと思う。

このブログのタイトルは「心を自由にするブログ」。
そのコンテンツの発信者である僕自身が、まず自分の心を自由にできるよう精進していきたいと改めて思った。

今回、自分の持っている心理的な檻(囚われ)を手放す方法について詳しく考えることはしないけど、それはまた別記事で取り上げたいと思う。

「人の話を聞くこと」は、実はとても難しい

自分の話を、相手が理解してくれたと感じるのはどんなときだろう。
逆に、人の話を聞いて僕たちが「理解できた」と思うときはどんなときなんだろうか。

「ああ、わかった」とか、
「なるほど。~ってことでしょ?」とか、
僕自身も安易にそういう反応を返してしまうことがあるけど、最近そんな反応にふと違和感を感じたので、今日はその感覚を掘り下げてみたい。

 

人とのコミュニケーションでは、言葉の限界が常にある

結論からいうと、他人の痛みを100%理解することができないのと同じような構造で、他人の話からその人が伝えたいことを100%理解することも非常に難しいと思う。

相手の話を僕たちが受け取るまでの過程を整理してみると、

ーーーーーーーーー
①話し手に、伝えたい事象が発生

②話し手がその事象を言葉にして、受信者に伝える

③発信者の言葉を自分(聞き手)なりのフィルターを通して咀嚼する

④聞き手から話し手に、「理解できた」と意思表示をする
ーーーーーーーーー

の4つのステップがある。

この4ステップで起きていることを虫眼鏡で見てみると、
まず①→②の段階で、話し手が言葉にできなかった感覚や想いは言葉上から削ぎ落とされてしまう。

②→③の段階でも、聞き手に伝わるのは「受信者のフィルターを通した」話し手の言葉であって、話し手が言葉に込めた意図や想い、ニュアンスや温度感がそのまま伝わることは難しい。

大抵の場合、この2つの現象は見落とされたまま④の作業にたどり着く。(④が丸ごとナシ、なんてこともよくある)
①→②、②→③で削ぎ落とされてしまったものの存在と大きさに、話し手は④の作業を通じて初めて気付くのだが、大抵それはぼんやりした違和感を残したまま言語化されないうちに通り過ぎていってしまう。

これはどちらが悪いわけでもなく、「言葉」というツールの限界なのだと思う。
僕たちは言葉にできないものは伝えられないし、言葉で表現されないものは理解するのが難しい。
表現しようとしても、自分が持っている言葉の引き出しでは表現しきれずに削ぎ落とされていってしまう想いは、言語化能力を高めるほか、相手に伝える方法がない。

 

ここでも大切なのは、他人の話を聞く上での「あり方」

話し手の伝えたいことが100あるとして、実際に聞き手が受け取れるものは果たしてどれくらいなんだろう?

「そもそも、100全部受け取る必要なんかないんじゃない?」とか、
「ポイントだけ理解できてれば問題ないでょ」とか、
色々なツッコミが聞こえてきそうだけど、

ここで僕が大事にしたいのは「発信者の表現したいものを100%受け取ることができていないことを自覚し、なるべく100%受け取れるように努力すること」だ。

相手が伝えようとしたものを、自分の過去の知識や、他の誰かに聞いた話と結びつけてパターン化し、「ああそういうことね、わかったわかった」と反応するのは、とても勿体無い。

なぜなら、パターン化した瞬間にパターンには当てはめきれないポイントは理解の外に追いやられて学ばれることなく終わってしまうから。
その受け止め方を目の当たりにした相手も、きっと自分の話が受け止めてもらいたいように受け止められなかった虚しさを感じるんじゃないだろうか。

 

「他人の話を聞いて学ぶ」ための具体的ポイント

「あり方」の話だけでは抽象度が高するので、具体的なHowについても僕の考えを書いてみたい。

重要なポイントは2つある。
ひとつは、言葉の奥の背景に耳をすませること。
そしてもうひとつは、「相手の言葉」で理解すること。

一つ目のポイントは、先の4ステップの①の過程に配慮したものだ。
言葉をそのまま受け取ることは誰にでもできるが、その奥にある背景や心情を汲み取ることは意外とできる人が少ない。

「この言葉を発している背景には、どんな背景や心情があるんだろう?」
「自分が相手と同じ状況に置かれてこの言葉を発しているとしたら、そのとき自分はどんな気持ちなんだろうか?」
など、想像力を働かせて相手の気持ちを汲み取ろうと努力すること。

これらの問いの答えには、自分のフィルター(ものの見方)が入っていて問題ない。
「同じ状況に置かれたとしたら自分ならこう感じるけど、どう?」などと、自分なりの想像力を働かせた結果を相手に確認すればいい。

仮にその仮説が芯を外していたとしても、こんな風に質問されたらきっとうれしい。
仮説の内容そのものよりも、あなたの「自分の気持ちを理解しようとしてくれている」という姿勢そのものに、話し手は癒やされるんじゃないだろうか。

さらに注意するとすれば、「相手の言葉」で対話することじゃないかと思う。
たとえば、「理不尽」という言葉について、何を理不尽と感じるかどうかの基準や理不尽の定義は人によって様々だ。

相手の体験談を聞いて「確かに理不尽だな」と思ったとしても、それは自分の「理不尽」の定義を通して感じ取ったものかもしれない。
相手が何を、どのように「理不尽だ」と感じたのかを確認する作業を丁寧に積み上げれば、相手の言う「理不尽」を上手に自分の言葉に組み込んで、相手の気持ちを代弁したり理解を示したりすることができる。

ここまでやろうとすると、人の話をきちんと聞くにはかなりの集中力やエネルギーが必要な気がしてくる。
すべての人にここまで丁寧な向き合い方はできないかもしれないけど、こういう目に見えない気持ちの動きに気づけるような、心のセンサーは持っておきたい。

他人の痛みにどう向き合うか?

-他人の痛みに100%共感することはできるか?-

この問いに、あなたなら何と答えるだろうか。
きっと多くの人が"NO"と答えるんじゃないだろうか。

 

他人の痛みに100%共感することができない理由

人には誰しも心の状態の良いときと悪いときがあって、状態の悪いときは誰かに話を聞いてもらい、「うんうん、わかるよ」とか「あなたの言うことは最もだと思うよ」とか言葉をかけてもらいたいもの。
自分のことをまったく理解されなかったり共感されなかったりしてもへっちゃら、なんて人はきっといないと思う。

逆の立場で、もし目の前に弱っている人がいたら、僕も当然何か力になりたいと思う。
もし相手が求めていることが痛みへの共感なんだとしたら、できるだけ共感しようと努力するだろう。

それでも、残念ながら、どこまでいっても人には他人の痛みを100%理解することはできない。

「自分と他人は違う」とか、「人って多様だよね」なんて使い古された言葉があるけど、その言葉の意味するところは本当に深い。
「多様」の中身を具体的に挙げてみるだけで、
・指向
・価値観(人生観、仕事観、価値観…)
・考え方
・衣食住の好み
・人との距離感
など数えきれないほどあり、その一つ一つについて、さらに幅広く奥深く多様さが存在する。

それだけ何もかもが違う、異なる人のことについて、その人が感じたのとまったく同じように痛みを感じるのは、どうしてもできない。
もちろん相手のためになるなら100%共感したいと思うけど、がんばってもできないものはできない。

 

他人の痛みに100%共感できなくても、「どう在るか」は決めることができる

そこで、ある人は「どうせ100%共感することなんてできないんだから、共感しようとすること自体無駄でしょ」と諦める。
でもまたある人は、「100%は無理でも、できるだけ共感できるように努力したい」と考える。

何が言いたいかというと、他人の痛みに100%共感できないとしても、相手に対して「どう在るか」は自分で決めることができるということ。

「どう在るか」の選択肢をざっと挙げてみるだけで、

  1. 「どうせ100%共感することなんてできないんだから、共感しようとすること自体無駄でしょ」と諦めて、相手の話を聞くことすらおざなりにする
  2. 「100%は無理でも、相手のためになるならできるだけ共感できるように努力したい」と考え、相手の話に耳を傾ける
  3. 「共感するのは無理だけど、相手が感じたことを緻密に理解して、受け止めたい」と考え、相手の話に耳を傾ける

など、色々なものがある。
そこには正解はないし、僕は「こうあるべき」と自分の考え方を押し付けるつもりもない。
あるのは「自分はこうありたい」という自分の軸だけで、僕の場合それは2や3に近い。

前提として、僕は「他人の痛みに100%共感することはできないこと」や、「他人の痛みに100%共感することができない自分という人間」を認めて、受け入れている。
相手がこちらになるべく強い共感を求めているのであれば、相手の性格や考え方・感じ方をできる限り想像して共感しようと努めるけど、きちんと限界をわきまえて「100%共感できる」などと嘘をつかないでいようと思う。
それが、相手という存在に対しての誠実な在り方だと思っている。

ところが、100%自分の痛みに共感してもらえないとわかったときに、寂しさや孤独を感じてしまう人もいる。
そんな人に対峙したとき、僕は相手の期待に応えられないことを申し訳なく思いながらも「ただ、そばにいて話を聞くこと」をしたい。
「心の痛みに苦しんでいる相手という存在」をまるごと受け入れて、「そのままでいいんだよ」と心の中で唱えながらそばにいること。
それが自分にできる、相手の力になれそうな唯一の行動なんじゃないか。

 

「あなたの気持ちはわかる」と軽々しく口にする人たち

 他人の痛みに100%共感できないことが真理だとすれば、「自分は他人の痛みに100%共感することができる」と思い込むことはただの傲慢でしかない。

「あなたの痛みはわかるよ」などと軽々しく声をかけることは、相手や相手の気持ちに対して失礼だし、本気でそう思い込んでいるのだとしたら思い上がりも甚だしい。
それでも、「あー、わかるわかる」と口にする人、「あー俺も似たような経験があるよ。俺のときなんてさ…」と自分の話を始めてしまう人はとても多い。

その言葉は、心を痛めて苦しんでいる張本人を置き去りにするとても冷たいもので、そんな言葉を発する人は「他人の痛みに100%共感できている自分」という過大評価した自分像に酔っているように、僕には思える。

こんな言葉をかけられた相手は、
・自分の痛みに共感してもらえなかったこと
・自分の痛みを過小評価されているように感じること
・自分が話を聞いてほしい状態なのに、相手の自己満足の相手をさせられること
・何より、自分という存在に目を向けてもらえていないこと
に深い悲しみを感じるに違いない。
その残酷さたるや、言葉にしがたいものがある。

僕自身こういう言葉に幾度となく傷ついてきた人の一人だし、また一方で、傷つく側になって初めて、自分がこれまで他人に同じことをしていたことに気付いて言い表せぬほど後悔した人の一人だ。

自分のできること・できないことをフラットにとらえ、できないことは謙虚に受け止めて、どんな相手にも虚勢を張らずに誠実に向き合いたい。

他人の痛みに共感しきれないからこそ対話を深めようとするところに、人と人のかかわりの難しさと尊さがあるように僕は思う。

「やさしい」ってなんだろう?

「やさしい」という言葉は、どこか輪郭がぼんやりしている。
広がりと奥行きを感じる、豊かでありながら、とても掴みづらい言葉だと思う。


最近「やさしい」の意味について自分なりの定義ができた。
どんな人が「やさしい」人となのか、今日はそれを言葉にしてみたい。

 

どんなときに使われる言葉か?

電車でお年寄りに席を譲った若者に感じる「やさしい」、
「結婚するなら“やさしい”人がいい」、
など、「やさしい」という言葉が使われる場面は幅広い。

使われる場面の共通項を探ってみると、「相手が自分を尊重してくれたと感じたとき」、「相手の思いやりを感じたとき」に使われている言葉ような気がする。

相手が気を使ってくれたときに「やさしいね」と言葉をかけるのは、行動そのものではなく、行動の奥にある自分への思いやりに対するものなんじゃないか。

ここで一つ、考えてみてほしい。

「相手が自分を尊重してくれたと感じたとき」、「相手の思いやりを感じたとき」ってどういうときだろう?

パッと思いつくのは、プレゼントを買ってきてくれたとか、重いカバンを持ってくれたとか、そういう気遣い行動なんじゃないかと思う。
それももちろんあると思う。
ただ僕は、「やさしい」ってもっと奥行きのある、温かくて深淵な言葉のように感じる。

 

「やさしい」の真の意味

「やさしい」の真の意味。
それを僕なりに言葉にすると、「相手がありのままで"在ること"を認め、相手を自由にすること」ではないかと思う。

  • かかわっている時間、「自分自身がありのままでいること」を許してくれているように感じる人、
  • その人と時間をともにすることで、自分がより「本来の自分」に近付くことができるように感じる人、
  • 話していると、自分の中の心理的な囚われが外れて、自分の世界が押し拡げられていくような心の自由を感じる人

そういう人と触れ合うと、僕はそのやさしさに心底満たされるし、とても安心する。

やさしい人は、決して相手に何かを求めない。

  • 自分が良いと思ったものに相手が「いいね」と共感してくれなくても、
  • 自分のアドバイスを相手が受け入れてくれなくても、
  • 相手が自分とは違う意見を持っていても、
  • 相手が自分の思い通りに行動してくれなくても。

やさしい人は相手を縛り付けることはない。
自分の価値観を押し付けたりすることもない。

ただそばにいて、
「あなたはどうありたい?」とやさしく問いかけながら、

その答えの方向に自分が向かおうとするのを見守って、
純粋に相手の幸せを願いながら、
そっと背中を押してくれる感じ。

そんな相手と触れ合うと、人は「愛されているな」と感じると思うし、安心して自分の道を歩いていくことができるんじゃないか。

家族も含め、全ての人にこんな関わり方ができたらどれだけ素晴らしいんだろう?と思う。
こういう在り方が、どれだけ周囲の人に安心感と豊かさをもたらすことができるんだろうと思う。

「どういう人でありたいか」は人それぞれだけど、僕は人に対してやさしく在る人を心から尊敬するし、僕自身も「あなたといると私は自分の心が自由になれるような気がするんです」と言われるような人になりたい。

自分なりの生き方や価値観、「軸」と呼ばれるようなものを持ちながらも、自分以外の人の自由を認め、愛することのできる人。
そういう人はきっと、自分のエゴや弱さを目のあたりにするたびにそれに誠実に向き合っている。

それは言葉で書くよりも想像するよりも、きっと辛くて大変な作業なんだけど、それができる強い人ほど、人に対して「やさしい」存在であることができるんだと思う。

ポジティブ思考の落とし穴

ー他人は変えられないけど自分は変えられる。ー
ー起きてしまったことは変えられないけど、それをどう捉えるかは自分次第。ー

誰しも聞いたことのあるこんな言葉。
最初に僕が耳にしたときは「なんと素晴らしい考え方!」と素直に感動した。

実践してみると、確かに自分の行動が前向きに変わるし、周囲からも「物事をポジティブに捉えるよね」とか「どんな状況でも前向きに考えられてすごいよね」とか、好意的に受け止められることが多かった。

でも、こんな「ポジティブ思考」にも実は落とし穴がある。

 

ポジティブ思考に潜む落とし穴

それはズバリ、「感情の抑圧を招く可能性があること。」
(感情を抑圧することのリスクは、以前のエントリーにも書いたとおり。) 

yudaism.hatenablog.com

 

ポジティブ思考を僕なりに定義すると、
ーーーーーーーーーーーーーーーー
①物事が起きる

②認知(物事の捉え方)のフィルターを通してそれを解釈する

③感情が生まれる

④感情にしたがって行動を起こす
ーーーーーーーーーーーーーーーー
という感情発生のプロセスの②を変えましょう、ポジティブな捉え方をしましょう、という意味だと思う。

論理的にはこのプロセスは正しいし、②の変換で③や④が変わるのも納得できる気がする。

でもよく考えてみてほしい。
大抵の場合、①から④までのプロセスは一瞬で処理される。
これまで染み付いている②のフィルターに従って、僕たちの中には反射的に感情が生まれる。

そんな中、あとから意志の力で②を変えようとすると、②を変換した後に生まれる感情と、元々反射的に生まれた感情はコンフリクト(≒矛盾)を起こす。
そして、後者は「ふさわしくない考え方」として、意志の力で“なかったこと”にしてしまうことがあるんじゃないか。

僕はこうして無意識に自分の素直な感情を“なかったこと”にし続けた結果、最後には
「本来、自分は何を感じているのか」
「今、自分はどういう感情なのか」
が本気でわからなくなった。
心療内科医に「あなたは自分の感情を10%も把握できていない」と宣告されたりもした。

 

一番大切なのは、自分の自然な感情を感じ続けること

以前のエントリーにまとめたとおり、感情の抑圧は本当に怖い。
自分を自分でいられなくしてしまう。

僕は、一人の人として「心の底から満たされるため」にいちばん大切なのは、ありのままの自分の感情を感じることだと気がついた。

物事を前向きに受け止めることは確かに大事だけど、それには正しい手順がある。

まず、自分の自然な感情を感じること。味わうこと。
その後、その感情を“なかったこと”にせずに、「そりゃあそんな気持ちにもなるよね」と認めること。

この2段階を踏んで初めて、「でも、こんな捉え方もあるよ?」と健全に認知を変えていくこと。

最初の2段階を飛ばさないためにも、ポジティブ思考になろうとしているときは自分の感情を抑圧していないかを常にチェックしなくちゃいけない。

「本当の自分はどう感じた?」
「最初の自分の感じ方を心のなかで否定してない?」
など、色々な質問を自分に投げかけながら、自分に嘘をつかないよう気をつけなくちゃいけない。

人として自然な感情を押さえつけてまで僕たちが守ろうとしているものは、本当に守りたいものなんだろうか?

自分自身に改めて問うてみよう。

 

このブログに込めている想い

久々の更新。
実は今年の1月から本格的に仕事に戻る訓練をしている。
以前の記事で休職経験があることは書いたが、まさに今二度目の休職の真っ只中。

久しぶりの投稿ということもあるので、今日はこのブログを書こうと思ったきっかけや、それを通じて僕がありたい姿についてざっくばらんに書いてみる。

 

 

ブログを書こうと思った一つのきっかけ

僕が社会人になって最初に心を病みかけたときは、まだ「休職」という仕組みがあることを知らなかった。
その後、物理的に会社に行けないような状態になって初めて「休職」の存在を知ることになった。

でも、仕事に復帰してみてわかったのは、心を病んで休職まで追い込まれた人は身近にいたとしても、そこから社会に復帰した人に詳しい話を聞く機会はそうそうないということ。

仕事を離れている間、何を考え、どんな風に過ごしていたのか。
なぜ仕事に来れなくなってしまうのか。
どんな風に治療して、仕事に復帰するに至ったのか。
再発する危険はないのか、などなど…

休職経験がない人がこうした素朴な問いを思い浮かべても、その答えが得られることはほとんどない。
誰しも「下手な質問をして、仕事に復帰した人の心に傷を負わせてしまったら・・・」という不安を感じるからだ。
聖域に足を踏み入れてしまうような危険を感じて、誰も聞けない。

だけど一方で、こんなに重要な問いはないと思う。
休職未経験の人が経験者の話を聞いて、仕事復帰後の彼らに関わるヒントを得たり、自分と彼らの違いや多様性を認めるきっかけにすることはできる。
きっとお互いに、話をする前よりも少し相手にやさしくなれる。
とすると、この問いに答えることは、とても価値あることなんじゃないか?

とはいえ、休職した人にとって、自分の体験を発信することは「理解されないで傷つくリスク」と常に隣り合わせでもある。
それはとてもハードルが高い行為なのだけど、僕は包み隠さずすべての情報をシェアしたい。
すべての人に理解されなくてもいい。
受け取ってくれる人が一人でもいれば、いいなと思う。

そう思って、あらゆるテーマについて考えた自分の思考の足跡を記録しようと思ったのが、このブログを書こうと思ったきっかけです。

 

僕が理想とする“あり方”

これまでの記事を読んでくれた人にはわかるかもしれないけど、今回のエントリーから試験的に丁寧語をやめてみることにした。
そのほうが、自分が素直に思ったことをパッと文章にできるし、何より自分らしさがより表現できる気がしたから。

といっても、「丁寧語を使う」と決めてこれまでそうしてきたのにもそれなりの理由がある。

僕が一番避けたいのは、
・上から目線で
・自分の考えが絶対に正しいという壮大な勘違いのもと
・他者との考え方や価値観の違いを認めずに自分の考えを押し付ける
ような人になることだ。

逆に言えば、これらをすべて裏返したような謙虚でフラットな人でありたくて、読んでくれる人への尊重の気持ちを表現するため、自分が傲慢にならないために、丁寧語を使うことにしていた。

しかし最近、言葉遣いに関係なく傲慢な人は傲慢だし、謙虚な人は謙虚だということに気がついた。
フランクな言葉遣いでも他者を尊重していることが伝わる人はいるし、そういう人は逆に敬語を使うと「その人らしさ」が失われてしまったりする。

僕の「らしさ」が出るのがどういう態度を取るときなのかはまだわからないけど、これからは思ったことを素直にサッと書けることを最優先に、また気軽に更新していきたいと思います。

「シンプル」はなぜ大切か?

数年前にベストセラーになった『シンプルに生きる』という本をご存知でしょうか?

ものを過剰に所有することをやめ、自分自身にかける時間を増やすことを勧める本書。

この本の初版が発売された2010年前後から特に、「シンプルさ」は会社経営から生活に至るまで、幅広い分野で一つのトレンドになっています。

シンプルに生きる 人生の本物の安らぎを味わう (講談社+α文庫)

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なぜ「シンプルさ」 が大切なのか? 

「シンプルさ」の何が、現代人を惹きつけるのか?
この疑問を解くヒントになるのが、2003年に日本で大流行したiPhoneです。

iPhoneが世界中のユーザーを魅了した理由はその「シンプルさ」にありました。
当時世界を驚かせたホームボタン一つだけのシンプルなデザイン。
そして、無駄を極限まで削ぎ落とした機能。
すべてが、当時のスマートフォン業界では革新的なものでした。

Apple創業者スティーブ・ジョブズは、iphoneを始めとした製品の開発で、「シンプルさ」に徹底的にこだわっていました。
そこにはこのような彼の考えがあったそうです。

シンプルなものが良いとなぜ感じるのでしょうか?
我々は、物理的なモノに対し、それが自分の支配下にあると感じる必要があるからです。
複雑さを整理し、秩序をもたらせば、人を尊重する製品にできます。
シンプルさというのは、見た目だけの問題ではないのです。
(出典:『ペーパーバック版 スティーブ・ジョブズ 2』)

ペーパーバック版 スティーブ・ジョブズ 2

ペーパーバック版 スティーブ・ジョブズ 2

 

私はジョブズの言葉から、先の疑問に対する答えをこう立てました。

・人間は、興味の対象物について「自分が支配できる」と感じると安心する。
・逆に、「自分が支配できない」と感じる複雑なものには、人間は不安を感じる。
・「シンプル」なものは支配可能ゆえ、人を安心させる。それこそが「シンプルさ」が大切な所以。

人生の中で無数に行う選択。
ありとあらゆるものが複雑化している現代で、「自分が支配できる」という“安心感”こそが、「シンプルさ」が人を惹きつける理由でしょう。


心の中も、「シンプル化」する 

「シンプルさ」の重要性は、物理的なモノにとどまりません。
人の「思考」も可能な限りシンプル化するべきです。

具体例を挙げます。

悩み事や不安で頭がいっぱいで、何も手につかないとき。
そんなときこそ、あえて部屋を掃除してみてください。

ゴミを捨てる。
服や本を捨てる。
机の上を整頓する。

これだけで、なんだかストレスが減るんです。

なぜか。
頭の中が悩みや不安などでいっぱいのときは、思考が整理できていません。
頭の中が複雑で「自分が支配不可能」な状態だから、より不安を感じているわけです。

そういうときは大抵身の回りも雑然としています。
ですが、頭の中は整理が難しくても、身の回りのモノは簡単に整理できますよね。
そうして部屋にあるすべての物理的なモノを「自分が支配可能」だと感じると不思議と不安までもが減るんです。

部屋にある物理的なモノと思考、どちらも「自分が支配不可能」と感じていた状態から、片方だけでも「自分が支配可能」になっただけで、少し安心するんですよね。

同じように、頭の中に渦巻く悩みや不安も、紙に箇条書きにしてみてください。
書き出してみると、
「あれ、こんなに少ないの?」
と不安が少し小さくなるのではないかと思います。

正確にはこれは「シンプル化」とは言えませんが、
少なくとも“紙に書く”という行動を通して悩みや不安を物理的に見える状態にすることで、「自分が支配可能」と感じたから不安が小さくなるわけですね。


ポイントは、「自分にとって重要なもの」だけを残すこと

今例に挙げた「掃除」は、要らないものを捨て、要るものを残す活動です。
スティーブ・ジョブズも同じように、iPhoneを作るときにスマートフォンの機能を
・電話
・メール
・インターネット
の3つに絞って、それ以外の機能を排除しました。

このように、「シンプル化」の本質は大切なものだけ残して後は捨てることです。
ジョブズもこう言っています。

対象のあらゆる面を理解する、それがどう作られるのかも理解する。
つまり製品の本質を深く理解しなければ不可欠ではない部分を削ることはできません。
(出典:同書)

本質を理解して、本当に要るものは絶対に削ってはいけない。
だから、シンプルにするにはより深い製品の理解が必要。

部屋の掃除や、今流行りの「ミニマリスト」の生活でも、重要なことは
「部屋や自分の生活の中で本当に必要なものと、そうでないものは何か?」
を見極めることです。
そのためには、自分自身の価値観を深く理解することが欠かせません。

それは非常に難しい作業ですが、だからこそ本当に大切なものを見出した先には、不要なものを一切排除した幸せの濃度の高い生活が待っているのだと思います。


まとめ

情報やモノが大量にあふれ、仕事やライフスタイルに至るまでありとあらゆる分野で
無数の“選択肢”が存在する現代。
就職、転職、結婚、住居、勉強、…“選択できる豊かさ”が逆に物事を複雑化し、誰もが漠然とした不安の中で日々“なんとなく”選択をしています。

5年ほど前、私の会社の定年間近の先輩で、
「昔は選択肢が少なかったから、選択に悩むこともそこまでなかった。選択肢が少ないのだから、選んだ選択肢を正解にしようと努力するだけでよかった。でも今は違う。選択肢がありすぎることで逆に何が正解か不安に感じることが増え、幸せになるのが難しくなったような気がする。」
と話していた方がいました。

ですが、そんな現代だからこそ「シンプルさ」を追求する必要があるんです。
昔は必要なかった「自分自身の価値観を深く理解する」という作業にチャレンジしていくことで、シンプルで、自分に深い幸福感をもたらしてくれる選択ができるのだと思います。

「シンプル化」は、部屋の掃除一つとっても、本棚、洋服、書類、雑貨など、できるところはいくらでもあります。

仕事上のタスクでも、本当に重要な仕事の見極めさえできれば、重要でない仕事は「やらない」という選択ができます。
それができれば、膨大な仕事に追われて頭の中が複雑化し、常にストレスを抱える必要もありません。

「自分が支配可能」と安心感を持ちながら過ごすために、興味の対象(部屋のモノ、仕事上のタスク…etc)について深く理解し、「本当に必要なもの」だけを残してあとは捨てる。

私自身も日々試行錯誤しながら、シンプルで豊かな人生を創っていきたいと思っています。

自己否定が止まらない人にかける言葉② ~「私は絶対にあなたに失望しない」~

過去のエントリーで、自己否定が止まらない人には“being(存在そのもの)”を肯定すること、相手を正解・不正解の枠組みで裁かないことが重要だと書きました。

yudaism.hatenablog.com

 記事の中では、具体的に相手にかけると良いおすすめの言葉として
「私にとっては、あなたが生きていてくれるだけで十分だよ」
「仕事の評価と人間としての価値はまったく無関係」
「生きているだけで100点だよ」
「仕事でいくらうまくいかないことがあっても、人間としての価値は一切変わらないよ」
などを挙げました。

今日は、自己否定が止まらない人にかけると効果的な、新たな言葉を紹介したいと思います。


キーワードは、「失望しない」

 結論からいきましょう。
かけるべき言葉は、
「あなたがどんな風になろうと、何をしようと、私は絶対にあなたに失望しない。」
です。

「あなたは何をやっても私を失望させることはできない。」
などでもいいと思います。

ポイントはやはり、“being(存在そのもの)”を肯定することです。
以下、詳しく解説していきます。


「自己否定」は「失望される恐怖」から生まれる

そもそも、自己否定に走ってしまう人は「相手を失望させること」に強い罪悪感や恐怖心を抱いています。
彼らにとって、「ガッカリした相手の顔」を見ることほどつらいものはありません。

そう感じるのは、幼少期に周囲の大人から過度な期待を課せられてきたからです。

「なんでこんなこともできないの!」
「なんでこんなに簡単なこともわからないの!」
など、答えようのない責められ方をしたとき。

直接言葉で言われなくとも、
「子どものテストの点数を見て、親が心底ガッカリした顔をする」
など、親の期待に応えられず、親を悲しませたとき。

全力を尽くしても大人の期待に応えられなかったとき、子どもは大人の失望した顔を見てひどく傷つきます。

-自分の持てる力をすべて出したのに期待に応えられなかった。-
その事実に直面したとき、成熟した大人なら自分の「行動」を反省することができますが、子どもはそうはいきません。
「大人の期待に応えられなかった自分」という「自分の存在そのもの」を責め、罪悪感を抱いてしまうのです。

そのつらい思いから逃れるためにどうするか?
子どもは、必死に親の期待に答えようと頑張るんですね。
だからこそ、必死に頑張っても期待に応えられなかったとき、自分を否定する以外に感情の向けどころがないのです。
想像するだけで、かわいそうなくらい辛そうな状態ですよね。


大切なのは、「失望される恐怖」を与えないこと

ではなぜ、親は子どもに「失望」してしまうのか?
人は他人に「失望」してしまうのか?

それは、相手に何かを期待しているからです。
言い換えると、自分が期待する特定の“doing”に相手が応えてくれないからこそ、相手に「失望する」わけです。

こちら(たとえば親)が「失望」したのを見て、相手(子ども)はとても自分自身の“being(存在そのもの)”を愛されている」とは感じられません。

だからこそ、「あなたがどんな“doing”をしようとも、決して失望しない」と伝えることで間接的に相手の“being”を愛しているということを伝えることが重要になるのです。

別の観点から説明すると、
ーーーーーーーーーーーーーー
①こちらが相手に期待する

②相手が期待に応えられない

③こちらは失望する

④相手は自分自身を責める
ーーーーーーーーーーーーーー
という自己否定の流れの中で、①を断ち切るということです。

相手に特定の“doing”を期待せず、“being”そのものを認めることができれば、相手は
・失望される恐怖
・相手の期待に応えなければ受け入れてもらえない恐怖
・相手の期待に応えられるかどうか常に緊張するストレス
・「相手の期待に応えられない自分」を責めるストレス
などから開放され、次第に「無条件で自分は愛される」と感じることができるようになります。


自己否定の癖は、ポジティブな体験の蓄積によって解消することができる

自己否定癖の強い人の中には、
・“being”を肯定されてもしっくりこない
・“being”を肯定されても、「どうせ本心では失望してるんでしょ」と思ってしまう
・とはいっても「期待に応えられていない自分ってダメじゃん」と自分自身が思ってしまう
という人もいるでしょう。

仮に他人が自分に何も期待しないで“being”を愛してくれていたとしても、
それまでの体験の積み重ねで自分が自分自身に無意識に高い期待を課してしまったり、他人の表情から無意識に「期待らしきもの」を読み取ってしまったりすることもあると思います。

それは、その人がそれまで「周囲から長年、かなりの高い期待を背負わされてきたこと」の表れであり、まったく自然で、無理もないことです。

安心してください。
どんな否定的な記憶も、それに勝る肯定的な記憶を上書きすれば消えていきます。
100回傷ついたら、101回愛されればいいのです。

だから、自己否定が止められなくて苦しんでいる相手に関わるときは、たとえすぐに変化が表れなくても根気強く“being”を認め続けることが大切です。

何度も何度も繰り返しているうちに、必ず相手自身が、自分の“being”を少しずつ肯定できるようになっていきます。


まとめ

今回書いたことは、実際に私自身が友人にしてもらって絶大な効果を感じ、
そして私も自己否定に苦しむ友人に実践してみて効果が表れた方法です。

たくさん傷ついてきた人ほど効果が表れるまでには時間がかかりますが、
長期的な視野を持ち、必ず相手の心が楽になると信じて、続けてみてください。

幼いころ「ありのままの自分」を愛されなかったからといって、大人になっても自分で自分を愛することができないとは限りません。

どんなに苦しい環境で育ったとしても、人間のもつ意志の力で、人は必ず自分の心を自由にすることができる
と、私は信じています。

経験者が語る、カウンセリング(心理療法)の効用と限界

何度かご紹介しているように、私は心の問題で2度の休職を経験しています。

休職するまで心と身体を痛めてしまった原因は、このような私の性格にありました。
・完璧主義。完璧でない自分が許せない。
・仕事を家に持ち帰り、四六時中心が仕事が頭を離れない。
・誰に対しても過度に「良い子」をしてしまう。思ったことが言えない。
・誰にも弱みを見せられない。
・人に頼み事をすることに罪悪感がある。etc...

こうした性格(≒心の癖)が仕事の抱え込みすぎ、働きすぎを招き、無理を重ねる中で体調が悪化して休職に至ったのです。
原因は明らかに私の性格にありましたが、自助努力ではどうにもならず、集団討議の認知行動療法でも結果が出ず、最終的にカウンセリング(心理療法)による治療を行うことになりました。

今日は、何か辛い現実に直面して本格的にカウンセリングを受けようと思っている方に向けて、週一回、8ヶ月に渡るカウンセリングを受けた経験から「私が思う、カウンセリング(心理療法)効用と限界」をご紹介したいと思います。

 

効用:心の癖(精神的縛り)から解放される

そもそも、カウンセリングとは「自分を生きにくくしている“心の癖”を、カウンセラーの支援を受けながら取り除くための治療法」です。

カウンセラーは相談者の鏡となり、相談者はカウンセラーの質問に従って自身の体験を話していくことで自発的な気づきを得ていきます。

心の癖は恐怖を感じた体験から作られることがほとんどです。
カウンセリングでは、この心の癖を生んだ原体験を相談者自身が掘り当て、思い出して、恐怖を感じなくなるまで消化していきます。(これを「暴露療法」といいます)

カウンセリングは、うまくいけば自分自身を縛り付けている心の癖を取り除くことができます。

その状態になると、根源的な恐怖心は薄れ、これまで持っていた心の癖は解消して、「心の癖で苦しんでいた過去の自分の気持ち」に共感することすら難しくなります。

恐怖の原体験を思い出すことは心理的に非常に辛く、場合によっては身体症状も伴う大変な作業ですが、乗り越えた先には二度と同じ思いをしなくてよい「恒常的に安心感に包まれる状態」が訪れます。


限界:カウンセリングには、人によって向き・不向きがある

一方で、カウンセリングには受けると症状が改善する人、受けると逆に症状が重くなる人、の2タイプが存在します。

両者を分ける要因は、「苦しみの原因となっている恐怖体験が本人にもたらした恐怖の度合いの強さ」です。(※あくまで「本人にとっての」恐怖の度合いであり、周囲から見た恐怖体験の壮絶さでないことに注意!)

端的に言えば、過去の出来事で受けた恐怖があまりに大きい場合は、カウンセリングはおすすめできません。

先ほど書いたように、カウンセリングの基本的なメカニズムは、「苦しみの原因となっている過去の恐怖体験を掘り当て、繰り返し思い出すことによって恐怖に慣れる」ということです。

「当時と今で状況は変わっていることを感じながら繰り返し思い出すうちに、恐怖体験は恐怖ではなくなる。」
「すると、これまでのように恐怖体験と現実の出来事を結びつけることがあっても、原因となる恐怖体験から恐怖を感じなくなっているので、現実の出来事にも恐怖を感じなくなる」
という考え方です。

確かに、論理的にはこの方法で恐怖体験の消化が進みそうに感じます。
ただ、あくまで「論理的には」なのです。

過去の出来事で受けた恐怖が特に大きい人は、無意識のうちにそれを忘れようとしています。
とはいえ完全に忘れることはできませんし、心の底には恐怖が残っています。

忘れようと無意識下に追いやっていた体験(親に激烈に怒られた等)を意識下に引きずり出すことで、人によっては生命の危機を感じるほどの恐怖を再体験します。
「思い出す」という行為は、脳科学的には「もう一度同じ体験をする」ということと同じです。

生命を維持することすら危うかったからこそ恐怖を無意識下に押し込めたのだから、カウンセリングで同じ恐怖体験を思い出すことはもう一度「生命の危機」を感じることに他なりません。
人によっては動機、息切れ、過呼吸、発熱、嘔吐などの身体症状が起きることもあります。

一番怖いのは、ここまで来るともう恐怖の原体験を無意識下に追いやることができなくなることです。
日常的に頭の中にその原体験がこびりつき、現実のあらゆる出来事をそれと結びつけて、恐怖から身を守るためにさらに強い心の癖を生んでしまうだけです。

また、ここで耐えられなくなってカウンセリングをやめると、単に恐怖体験の上塗りをしただけのことになってしまいます。
心理的囚われから自由になるためにカウンセリングを受けたのに、まったく逆の結果を招く可能性があるわけです。


解決策重視型アプローチの勧め

だからこそ、私はまったく別のアプローチも紹介したいと思います。

そもそも、カウンセリングはあくまで現実の世界で心を病むことなく健康に生活できるようになるための手段の一つでしかありません。

「根本的な原因を見つけ、根っこからそれを取り除く」という考え方は問題解決の王道でしょうが、心の問題に関しては王道の方法が是とは言い切れません。

健康な心で生活するためには、必ずしも原因究明は必要ないのではないか。
その代わり、健康な心で生活できるようになるためのHow to(=解決策)をたくさん試せば良いと思うのです。

例えば、「ありのままの自分を受け入れてくれる人と時間を過ごす」というのも立派な方法があります。
一緒にいて不安感を感じない、心から安心・信頼できる人が一人いるだけで、「私は無理しなくても、ありのままでも愛されるんだ、受け入れられるんだ」と感じられるようになります。
その体験が繰り返されるにつれて、その信頼できる人以外の人と一緒にいても以前ほど心の癖が発動しにくくなるのです。

また、「無意識に唱えているセルフトーク(内面で起こる独り言)の内容を紙に書き出し、それとまったく逆の独り言を機械的に唱える訓練をする」という方法も効果的です。
心の癖は、実際に口から発する言葉ではなくその1つ前の段階、つまり内面で起こる独り言によく現れます。
その内容を自覚するとともに、それが否定的なものである場合は肯定的なものに機械的に(まずは納得できなくてもいいので)唱えると、自然とネガティブな思い込みが和らいでくるのです。

こうした方法ではまったく心の癖が生まれた原因を究明しませんが、こうしたHow toを繰り返すと、「ありのままの自分でいてもいいんだ。ちゃんと愛されるんだ。」という安心感を徐々に感じられるようになります。
自分自身の中のプログラム(≒心の癖)を訓練(≒How toの繰り返し)によって書き換えるイメージです。
そうなれば、もともと不安感から起こしていた行動や心の癖は発動しづらくなり、確実に心は回復していきます。

 
まとめ

私自身、カウンセリングを受け、ずっと無意識下に追いやってきた家族関係の問題が明るみに出たことで、一時期に発熱、全身倦怠感、食欲不振などの身体症状が重くなりました。
特に、原体験を掘り当ててしまった直後はこれまで毎日のように連絡を取っていた家族と関わることすら嫌になりました。関わろうとすると身体症状が出るのです。

ただ、当時の私にはカウンセリングを続けるしかほか選択肢がありませんでした。
カウンセリングを受ける前に「解決策重視型アプローチ」を知らなかったから、カウンセリングを受けるほかなかったのです。
一度受けたからには、最後まで向き合う覚悟をしないと逆効果だとも感じていたので、維持で最後まで駆け抜けました

ですが「原因究明型」と「解決策重視型」、両方の手段を知っている今なら言えます。

カウンセリングで原因究明でさらに辛い思いをし、症状を重くするリスクを負うくらいなら、無理をする必要ありません。
原因に向き合うことから逃げ続けたっていいのです。
最終的に本人の心が楽になればいいんですから、「カウンセリング」という1つの手段を避けたという事実だけを切り取って本人を責める権利は誰にもないのです。

そして、カウンセリングを受け始める前に、ぜひ「解決策重視型アプローチ」の方法を探してみてほしいのです。
具体的な方法や書籍等の情報源は「ネガティブ感情と向き合う」のカテゴリでも随時紹介していきますが、私の知らない、専門家だからこそ知っている方法が世の中にはたくさんあるはずです。

私と同じようにカウンセリングしか方法が残されておらず、実際に飛び込んだ結果、症状の長期化・悪化に直面している方はきっとたくさんいると思います。

私自身がその世界を垣間見た一人だからこそ、同じように辛い思いをする人が一人でも減るよう心から祈っています。

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