性格の「弱み」は「強み」
性格に良し悪しはあるんだろうか?
「あの人は性格が良い」とか「あの人は性格が悪いから付き合わないほうがいい」とかいう言葉はよく耳にするけど、それは「良い性格」や「悪い性格」というのが存在するということなんだろうか。
今日はそんなふとした疑問から始まった考察の記録。
性格に良し悪しはない
結論から言うと、冒頭の問いへの僕なりの答えは"NO"。
僕は、性格に絶対的な良し悪しはないと思う。
どんな性格も「よく働く場面」と「悪く働く場面」があって、そのどちらかを切り取って、性格が良いとか悪いとか言われるだけの話。
たとえば、「飽きっぽい」という性格の表現は一般的にマイナスの言葉で使われるけど、「一つのことにこだわらず、次々に新しいものにチャレンジできる」というプラスの側面にもなりうる。
同じように、他にもこんなに沢山マイナスからプラスに変換できる例がある。
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繊細で傷つきやすい → 人の気持ちがよくわかる
話下手 → 話すのが苦手な人の気持ちがわかる
慎重で行動が遅い → 事前に思考を巡らせ、丁寧に物事に取り組む
マイペース → 周囲に左右されずに自分のペースを保つことができる
気分屋 → 自分の気持ちに正直に行動できる
集団行動が苦手 → 単独行動が苦にならない
人に興味がない → 人の気持ちや言動に左右されすぎない
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日本人は特に、特定の事実を挙げて一つの性格にあたかも絶対的な良し悪しがあるかのように裁定を下し、悪い性格は改めさせようとする傾向がある気がする。
元々自己肯定感の高い人ならまだしも、ありのままの自分に自信が持てていない人にとって、ありのままの自分の性格について絶対的な良し悪しを判断されるのはとても辛い。
しかし、自己肯定感の人ほど他人の評価をまともに受け止めて落ち込みやすいという悩ましい構造があるような気がする。
そんなとき、上の例に示したように自分自身で性格がプラスに働く側面を発見したり、周囲にそういう発見をしてくれる人を持っておくと、性格を一面的に捉えて苦しくなることが少なく済む。
性格に良し悪しの意味付けをする危うさ
元々生まれ持った自分の性格で、「嫌だ」「直したい」と思うことは誰しも一つくらいあるだろう。
でも、そう思うのはなぜ?
自分の内部から発するポジティブな動機ならいいけど、周囲から言われた言葉で問題意識をもったり、ありのままの自分ではダメだと感じて「嫌だ」「直したい」と感じてはいないだろうか?
後者のように、周囲が性格に良し悪しの意味付けをすることで、本人「ありのまま」の自分の性格にOKを出せない(≒受け入れることができない、認めることができない)ようになるケースは往々にしてあり、これが本人の人生に与える影響は計り知れないほど大きい。
特に親が子どもの性格に「良し悪し」の意味付けを与えると、子どもは「ありのまま」の自分の性格、ひいては「ありのままの自分」を受け入れることができなくなり、自己肯定感は十分に育たない。
子ども自身の中に「親から褒められ、受け入れられるOKな自分」と、「親から叱責され、直さなければいけないNGな自分」が生まれると、後者の自分を見せて叱られることが怖くて自分の内側に抑圧するようになりかねない。
自分の中に「NGな自分」がいるということは、「100%ありのままの自分」を受け入れることができていない、「100%ありのままの自分」に自信を持てていないということ。
子どもの自己肯定感を育みたいのなら、子どもがこのように感じないように細心の注意を払い、叱る場合でも叱る対象を「子どもの性格」ではなく「子どもの行動」に絞らなければいけない。
子ども自身にも、「性格ではなく行動について叱られているんだな」と伝わるような叱り方を心がけなければいけない。
仕事で部下を育てる場合も同じこと。
部下に自信を持って生き生きと働いてもらうためには、同じように叱り方に注意しなければいけないと思う。
まとめ
日本に生まれ日本で育った人は「周囲からどう見えるか」を非常に気にする。
それ自体は悪いことではなくても、度合いが強すぎると意識が外に外に向き、自分自身の中から育つはずの何かを失うような気がする。
その一つが「自信」や「自己肯定感」だと、僕は思う。
これまでの生い立ちの中で周囲からの見え方を過度に気にする癖がついている場合、それを手放すのは容易ではないかもしれない。
それでも、周囲からの「性格」へのマイナス評価を受けて落ち込みそうになったときには
- 性格に絶対的な良し悪しはないこと
- 今、目の前の相手は「特定の場面(仕事など)において」「相手の価値観のフィルターを通して」「一面的な」意味付けをしているにすぎないこと
- 今、マイナスの評価を受けている自分の性格は、かならずプラスに働くときがあること
の3点は忘れないようにして、自分自身の心を守っていけるといいと思う。
「癒される」のはどんなとき?
最近「癒された~」と思ったのはいつだろうか?
心地良い音楽を聴いたとき。
かわいい動物と触れ合ったとき。
子どもと遊んだとき。
色々な場面で感じる「癒される感じ」は、自分たちが思っている以上に大切なものなのかも…と最近思う。
今日は、そんな「癒やし」で生活を豊かにするヒントについて考えてみた。
「癒される」は「楽しい」よりも深い感覚
僕たちが「癒される」と思うとき、心の中にはどんな変化が起きているんだろう?
どうも、「楽しいとき」と「癒やされるとき」は性質が違うような気がする。
何か肩の力が抜けるような、心が温まるような、緩むような、心が何かで満たされるようなあの感じ。
「癒される」と感じるときは、何か自分にとって大切なものを思い出したような感覚になる。
「楽しい」と感じるのが、「脳が快感を感じているとき」だとすれば、
「癒される」は、「心のもっと深いところで、自分の存在が満たされているように感じるとき」のような気がする。
心の奥深いところで感じるものだけあって、僕たちという存在にとって「癒される」という感覚はとても大事なものなんだと思う。
自分が「癒されるなあ…」と思ったときを思い出してみる
きっと、どんなときに癒されるかは人によって違うと思う。
僕は、散歩をして季節の変化を感じるときや、子ども(自分の子はいないけど)と遊んでいるとき、晴れた日の空を見上げているときに「癒されるなあ…」と思う。
でも、僕たちは自分がどんなときに癒やされるのかをよくわかっていないし、「癒されるとき」を自分の生活に意識に取り入れようとはあまりしない。
大切なのは、まず自分がどんなときに癒やされるのかを知ること、そしてそんな瞬間を自分の生活の中に少しでも多く取り入れていくことなんじゃないだろうか。
僕の実体験を話すと、都内に3年弱一人暮らしをしていて(当時仕事も大変で)心の渇きが限界に達したとき、気がつくと頻繁に緑の多い公園に行くようになっていた。
その頻度が高くなるにつれて、僕は自分の心が明確に自然豊かな環境を求めていることに気がついて、都心から離れてはいるけど自然の多く残る環境に引っ越すことに決めた。
引っ越してから毎日のように家の近辺を散歩しているけど、散歩しながら自然の風景を眺めていると、都内でするどんな遊びや娯楽よりも深く心が満たされる感覚がある。
心になんとも言えない充足感が広がって、「なんかいい感じ」になれる。
「癒やされる時間」を生活に取り入れる上での一番のハードルは…?
美味しいご飯を食べているとき、
熱いお風呂に使っているとき、
仮に自分が癒やされるときを見つけられたとしても、意外と生活の中にその瞬間を増やそうとする人は多くないような気がする。
「癒される時間」よりも、皆仕事の時間であったり、人と会う約束であったり、何か他の時間を優先してしまう。
理由は「癒される時間」をそれほど大切に思っていないか、それ以外の時間の優先順位が必要以上に高くなっているかのどちらかだけど、感覚的に「他にもっと大切なことがある」という錯覚に陥っていることが多い。
その焦りにも似た錯覚は、大抵の場合何かの不安感情に根ざしていることが多いんじゃないか。
「仕事をしないと、必要とされなくなってしまうんじゃないか」
「前から約束していた予定だから、キャンセルしたら相手に嫌われるんじゃないか」
そんな不安を解消するために、いわばマイナスに触れている心の状態をプラスマイナスゼロにするために、僕たちは日々色々なことに追われているような気がする。
でも実際、恐れていることは9割方実現しないんだよね。
だったら、心をプラスの状態にする「癒される時間」の優先順位を上げてみたらどうだろう?と思うわけです。
僕もまだまだ試行錯誤を繰り返している最中だけど、仕事も仕事以外の時間も、起きている時間のうちなるべく多くを心満たされる時間にしていけたらいいなあ。
情報をシャットアウトしてみよう
こちらは最近行った埼玉県秩父市のカフェ、「空&閑」。
このカフェで素敵なお話を聞いたので、今日はその共有をしたい。
カフェ「空&閑」との出会い
日帰り旅行で秩父を訪ねた際、友人との待ち合わせまでに時間があったのでカフェを探していたときのこと。
その日は仕事でひどく疲れていて、心も体もヘロヘロ。
ネットで適当なカフェを探して秩父駅から歩いてみる。
そして、見事に迷って「ここどこだ…」と立ち止まっていたとき、たまたま僕のすぐ横に「空&閑」はあった。
時間が早かったこともあってか、二階に案内されるとお客さんは自分だけ。
店内はとにかく静かで、カフェにしては珍しくBGMが一切かかっていない。
消化器・循環器にやさしいという中国茶をいただきながら、スタッフさんがお湯を沸かす音だけが聞こえてくる静かな空間を楽しむ。
本を読もうと思っていたけど、なぜかそんな気が起こらず、持ってきた本を机に伏せてひたすらボーッと過ごした。
現代人は情報過多のストレスにさらされ続けている
「素敵な空間ですね」とスタッフさんに声をかけてみた。
すると40代くらい?清楚なスタッフのお姉さんがこんな話を聞かせてくれた。
「うちのカフェは、オーナーが"お客さんにとにかくくつろいでもらいたい"という想いで作ったんです。
色々な方にくつろいでいただけるように、置いてある家具はあえてテイストを統一せず、幅広く多様なものを揃えています。そうして、お客さんには自分の好きなデザインの席でくつろいでもらいたいからです。
BGMをかけていないのは、オーナーの"現代人は情報にさらされ過ぎて疲れている。音楽や音も一つの情報だから、耳に入ると処理しようとしてエネルギーを使う。だから、なるべくくつろいで休んでもらうために、BGMは一切かけない空間にしたい。"という考えからです。
ぜひ、家のようにゆっくりくつろいでいってください。」
この言葉を聞いて、オーナーさんやスタッフさんの心遣いという栄養が、疲れ切っていた僕の心に染みていくような気がした。
と同時に、「確かに、自分も含めて現代人は情報にさらされ過ぎているし、自分自身でも自覚できないほどそれによって疲弊しているのかもしれない」という気づきがあった。
僕たちは生活の中でスマートフォンなどを通じてインターネット情報、メールやLINEなどのコミュニケーション情報にひっきりなしに触れている。
電車に乗れば中吊り広告があり、テレビをつければCMや番組から一方的に情報が流されていて、それとは別に日常の人との関わりでも情報に触れ続けている。
僕たちの脳は、情報をキャッチした時点で「自分の身に危険が及ばないかな?」とか、「自分はどう行動するべきか?」とか、無意識に情報処理を始める。
無意識にやっている情報処理でもエネルギーは使うし、疲労は着実に溜まっていく。
情報の種類によっては反射的に何かの感情が発生することもあるだろうけど、その感情を自覚する間もなく、次の情報がまた流れてくるような時代。
そんな中、僕たちはただ気づいていないだけで、きっと自分が思っている以上に疲れているんだと思う。
情報を断つことで、心と体は休まる
現代は無意識に生活しているとかなりの情報を受け取ってしまうので、意識的に「入ってくる情報量」を減らしてみたらどうだろう。
断捨離でいう、「断」をやってみたらどうなるだろう。
「空&閑」に行ってからそんな疑問を持って、意識的にこんな行動をとってみた。
- 家にいるとき、BGMをかけるのをやめる
- 散歩をするときはスマホをオフラインにする
- なんとなくテレビをつけるのをやめる
- なんとなく本を読むのをやめる
- なんとなくネットニュースを見るのをやめる
試してみた結果。
以前より確実に疲れにくい。
余計なことに頭を使わなくなって、頭がスッキリしている気がする。
今までなんとなく受け取っていた情報の大半は、まったく必要がないことに気がついた。
音楽も含め、ついつい情報を受け取り「ながら」何か別のことをやってしまいがちになるけど、意識的に情報を遮断することで意識は目の前の一つのことに集中することができ、それによって心身は過度に疲れなくて済むんだと思う。
どんな風に情報を遮断するかは人それぞれ適した方法があると思うし、それを見つける作業もきっと楽しい。
もしそこに何かのヒントを投げかけられるとすれば、
情報収集をする前に
「なんでこの情報を得ようとしてるんだろう?」
「この情報って、本当に必要?ないと困る?」
と自分に問いかけてみてはどうだろう。
それか、騙されたと思って
・一日音楽を聞かない日
・一日ネットニュースを見ない日
なんかを作ってみてほしい。
まとめ
僕たちの活動エネルギーには一人ひとり限りがあって、その限られたエネルギーを使って僕たちは必要な情報を得、活動して一日一日を生きている。
情報の多い世の中だからこそ、限られたエネルギーを「自分にとって価値の高いもの」に投入して、価値の低いもので自分を疲れさせないようにしたい。
体は心の住処であり、体が疲れると心も疲れる。
幸せは心で感じるもの。
心を疲れさせないためにも、自分を疲れさせるものからは意識的に離れたい。
ここ10年ほどで「携帯を持ち歩くのをやめよう」とか「インターネットから離れよう」なんて話もよく聞くようになったけど、その意味するところを今回こういったカタチで理解することができて、僕にはとても有意義だった。
あらためて、「空&閑」との出会いと、オーナーさん、スタッフさんに感謝!
「自分をわかってもらいたい」気持ちの向けどころ
人とのコミュニケーションで孤独を感じるのはどんなときだろう。
きっと、自分が辛い状況の中で相手が自分のことをわかってくれていない、自分のことを受け入れてくれていないと感じたときは孤独を感じるんじゃないだろうか。
今日は、そんな風に孤独を感じたり、理解されない苦しみを感じなくて済むような対処法について考えてみたい。
他人に自分を100%理解してもらうのは難しい
以前のエントリーに書いたように、そもそも他人に自分を100%理解してもらうのはとても難しい。
ただ、「他人の痛みへの共感・理解ができる度合い」は人それぞれ異なっていて、100%は難しくても60%は共感できる人もいれば、10%しか共感できない人もいる。
その共感・理解度合いの違いは聞き手の資質だけでなく、
- 話し手との相性の良さ(感覚や感性、性格の共通度など)
- そもそも話し手の話に共感・理解をしようとするかという「姿勢」
によっても左右されると思う。
聞き手がこの3要素のいずれも持ち合わせていないとすると、その人に共感や受容を求めても満たされない可能性が高い。
共感・受容を求めるこちらの気持ちが強いほど、その気持ちは裏切られて、傷ついたり孤独を感じることになりかねない。
重要なのは、相手を選んで受容と共感を求めること
重要なのは、先の3要素の観点で「相手が自分の話に共感・理解をしてくれそうかどうか」を見極めようとすることだと思う。
「見極めること」とせずに「見極めようとすること」としたのは、見極めること自体がとても難しいから。
完璧に見極めることは無理でも「この人に話してわかってもらえるかな…」と一瞬立ち止まって考えることが大切なんじゃないだろうか。
ただ、ここで悩ましい問題が1つある。
それは、「誰かに話を聞いて受容・共感してほしい」という気持ちになっているときは自分の心の状態が良くないときが多く、相手がその期待に応えてくれるかどうかを見極める心理的余裕が持ちづらいこと。
この問題に関しては、「とにかく、自分の話を聞いて、受容・共感をしてくれる人を最低1人持っておく」という対処法に尽きると思う。
少し粗い考えかもしれないけど、1人だけでも信頼できる話し相手がいれば相手の見極めをする必要はないし、見極めに失敗して傷付くこともない。
最も重要なのは、誰かから全受容してもらった経験をすること
ここまで書いてみて思うのは、そもそも「誰かに理解してほしい、共感してほしい」と思うかどうか、どれくらいそう思うか自体、人によって千差万別だということ。
その期待の大きさは自己肯定感の強さと相関があって、自己肯定感の低い人ほど他者に受容と共感を求める気持ちは強くなるのではないかという気がする。
それでも、一度誰かに弱った自分を見せて受け入れてもらった経験を積んでいくことで、少しずつ自己肯定感は育っていくんじゃないかと思う。
そんな経験の積み重ねで、身の回りのあらゆる人に理解と共感を求めてしまっていた状態から、人を選んで理解と共感を求めることができる状態に徐々に変わっていけると僕は思う。
自己肯定感はあらゆる問題に共通するテーマだと思うので、それ単体でもどこかで記事にしたい。
ではでは今回はこの辺で。
「我慢」と「受け入れる」の違い
今日は久しぶりに言葉の定義系のお題。
「我慢」と「受け入れる」の違いについて書いてみる。
外から見ると、一見大した違いがなさそうに見えるこれらの反応。
しかし、当人からすると「我慢」は非常に辛いものである一方、「受け入れる」は心が楽になるような対処の仕方だと思う。
最近こんなことがあった。
僕が、周囲の環境や人に悩み、我慢が限界に達して友人に相談していたときのこと。
その友人が「環境や人は残念だけど変わらないよ。外部の人間だから言えるのかもしれないけど、それを受け入れられると楽になるかもしれないね。」と言ってくれた。
でも、「なるほど!」と納得する一方で「受け入れる」のはなかなか難しく、どうしても「我慢」になってしまう自分がいた。
「我慢」と「受け入れる」の違いはなんだろう?
どうすれば「我慢」ではなく、「受け入れる」ことができるんだろう?
今日はこの2つの問いについて考えてみたい。
「我慢」と「受け入れる」の違い
まず、「我慢」と「受け入れる」の言葉の定義を、僕なりに書いてみる。
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- 「我慢」
…目の前の現実に不満を持ちながらも、その気持ちを押し殺している状態。その状態を自己認識していない場合は「抑圧」という状態に知覚、「我慢」はその状態は自己認識している点で「抑圧」とは異なる。 - 「受け入れる」
…目の前の現実をありのまま認めて、特定の方向に変わることを期待していない状態。そもそも、目の前の現実に「こうなってほしい」、「こうでないと嫌だ」という欲求や期待を持っていない。
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この2つを読んで、両者の違いはどこにあると思うだろう。
結論から言うと、僕は「我慢」と「受け入れる」の違いは、「周囲への期待をするか、しないか」だと思う。
「周囲への期待」の内容は、環境に対する期待、人に対する期待など様々。
周囲に期待する結果生まれるのが「我慢」という反応、
期待しない結果できるようになるのが「受け入れる」という反応なんじゃないか。
先に書いたように、「我慢」は辛い。
「こうであってほしい」「こうなってほしい」と期待しているのに叶わない状態は辛い。
そもそも期待をしなければ、裏切られることもない。
ただ、「そうなんだ」と現実を認めて「受け入れる」ことができる。
ここまで読むと、理屈の上では納得できるんじゃないかと思う。
どうすれば、「我慢」ではなく「受け入れる」ことができるのか?
この問いに対する答えは「周囲に期待しないこと」なんだけど、いきなりそれができるなら誰も悩まない。
問題はその一歩先、
①どうすれば、周囲に期待しないでいられるのか?
②そもそも、「周囲に期待しなくなる」状態を目指す必要はあるのか?
という2つの問いにあると思う。
まず、①の問いについて考えてみる。
周囲に期待せずにありのまま現実を認めるためには、自分の心の中を見つめ、それを癒やす必要があると思う。
そもそも自分は、周囲にどんな期待をもっていたんだろう。
相手に、環境に、どうなってもらえれば満足だったんだろう。
満たされなくて悲しかった気持ちは、言葉にするとどんなものだろう。
たとえば、上司から自分の仕事を評価されず、マイナスの叱責しか受けないのを我慢して耐えるとき。
本当は、自分という存在や自分の努力が認められていないようで悲しくて、「よくやってくれているよ」の一言でその悲しみは癒える。
それでも上司は、そうやって部下を認めたり評価したりするタイプではない…
この場合は、自分自身が、自分という存在や自分の努力を認めて癒やすか、上司以外の他の人を見つけて、認めて癒やしてもらうかしかない。
究極的には、自分自身で自分を認めるしかないのだと思う。
他人は、詰まるところ自分の期待通りの反応を返してくれるとは限らないから。
そうやって自分が自分自身の根源的欲求を知り、認め、癒せるようになると、周囲からの承認をそれほど必要としなくなる。
周囲の人に過度な期待をかけることもなくなるんじゃないかと思う。
そもそも、「周囲に期待しなくなる」状態を目指す必要があるのか?
ただ、その一方で「周囲の環境や人に期待してしまうのは、人間である以上、一定仕方がない」と思うのが僕の本音だ。
周囲への期待は少なければ少ないほど自分が楽になれると思うけど、周囲への期待をゼロにすることはできないんじゃないだろうか。
これは、まさに②の問いのお話。
人は皆、「自分を認めてほしい」とか「自分の気持ちに共感してほしい」とかいう根源的な欲求を持っているし、その欲求は突き詰めれば生存本能に近いものがあると思う。
こうした欲求はゼロになることはないし、する必要もない。
問題はこの生存本能・防衛本能からくる欲求が強すぎて、「我慢」の量が増えすぎることだと思う。
「我慢」の量はできるだけ減らし、極力「受け入れる」ことができる領域を増やしていくほうが楽に生きることができる。
そんなときに必要なのが、先に挙げた問いのように、自分の心の中を見つめる作業じゃないだろうか。
自分の心を見つめていくと、時に、生存本能からくる期待ではなく、自分が大切にしている考え方や価値観が見えてくることもあると思う。
先の上司の例で言えば、「上司たるもの、部下の仕事を承認するなどして部下の自信やモチベーションを育て、最高のパフォーマンスを発揮させるべきだ」という価値観を持っていることに気づくかもしれない。
そうした自分なりの価値観はとても大切なものだし、なくす必要はない。
大切にしている価値観に合わない人がいるという事実があるだけで、その先は「この人に私の価値観を求めても無駄だな」と思うもよし、可能ならその人と離れるもよしだと思う。
まとめ
ここまでの話をまとめると、過度な「我慢」をしないために以下を意識しておくことが大切だと思う。
- すべての「我慢」が悪ではないが、周囲への過度な期待から生まれる「我慢」は減らす方向に努力するとよさそう
- 何が「過度な期待」かを見極め、それを減らしていくためには、自分の心の中(何を期待していて、その心の底にはどんな欲求があるのか)を見つめること
- その欲求が生存本能レベルのものなのか、価値観レベルのものなのか。譲れないものか、緩める余地があるものかを見極めること
- 譲れないものであるならば、その環境や人から離れるなどの選択肢がある
- 緩める余地があるものであれば、「価値観の違い」として多様性を受け入れるか、他の人や自分自身で満たせないか考えてみるなどの選択肢がある
我慢の根底にある「周囲への期待」、その背景を掘っていく作業は難しいし、一人だと結構しんどい。
意外と根が深そうな、自分自身の根っこの心理的問題に気づくこともあるかもしれない。
それでも、そうした内省を深めていくことでわかる新たな自分というのは確実にあるし、その先に、人や環境と折り合いを付けながら楽に生きていける世界があるんじゃないかと思う。
自由になるための問いと言葉の宝庫 ~『自由への扉』(高橋歩 著)~
2年ほど前にタイトルに惹かれて買った、こちらの本。
読み返してみたら、衝撃的なまでに良い本だったのでご紹介。
僕が大学生のときに、高橋歩さんは一つの流行になっていた。
当時「高橋歩信者」と呼ばれる人がいるくらい、彼の本から放たれるエネルギーとメッセージは若者を惹きつけていた。
自分の心の中に以前から自由を求める気持ちがあったことを感じながら、改めて読み返してみた。
こんな人にオススメ
- 人生に、何か言葉で言い表せないような不自由さを感じている人
- 本当はもっと自由に生きてみたい人
- 自分の心理的囚われを外したい人
- 合理ではなく非合理、理性よりも感性や直観を重視している人
- 自分のやりたいことを模索している人
この本の魅力
この本は、一言で言うと「自由人・高橋歩」が紡ぐ、人生という名の旅を楽しむための言葉&写真集。
何度も繰り返し読んでみたけど、僕はこの本には3つの魅力があると思う。
①感情を突き動かす言葉
1ページ1ページに書かれている言葉は、とても短くてシンプルなんだけど、不思議とニュアンスが伝わってくるし、感覚を揺さぶるものがあるし、「なかなか言葉にできなかった、心の奥に潜んでいた気持ち」を代弁してくれたような気がする。
繰り返し読むほど味わい深くて、久しぶりに読んだときには前よりももっと深く意味が理解できたように感じる、奥行きの深い言葉たち。
この本で伝えたいようなメッセージを伝えるために、他に数多の言葉の候補がある中でこれらの言葉がチョイスしている高橋さんの"センス"には純粋に感動する。
②自由を感じる写真
この本の半分は、高橋さんが世界中で撮り溜めた写真で構成されている。
パラパラと見ていると自然と、「世界は広いなあ」とか、「こんなに楽しそうに笑ったこと、自分にはあったっけ?」とか、色々な思いが湧いてくると思う。
この写真たちを心で感じてみて、自分の中に生まれる感情や感覚というのは、なにか「自分」を取り戻したようなとても尊いものに感じる。
③高橋さんオススメの作品たちに触れられる
高橋さんは生まれながらに自由人だと思われがちだけど、実は両親が教員の家庭に育ったこともあり、後天的に色々な足かせを取っていった人なんじゃないかと思う。
その過程で、高橋さん自身が「自由への扉」を開くのに影響を与えた本や映画などがふんだんに紹介されているのも、この本の魅力の一つ。
紹介されている作品もまた、世界観やスケールが大きいものばかりで、きっと何かしら惹かれる作品があるんじゃないかと思う。
この本を読んで僕が得たもの
僕はこの本を、休日の公園のベンチで、広い青空の下でゆっくり読んだ。
読んでみて、僕の中でこんな化学変化が起きたような気がする。
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- 自分より大きな世界観、価値観に触れることで、自分の世界観が押し拡げられるような感覚になる
- 同時に、今の自分がどんな考えや価値観に縛られ、とらわれているかも感じることができる
- 目の前の悩み事が、何かとても小さなもののように思えてくる
- 「どうなったって、今の仕事を辞めたって生きていく手段はいくらでもある」と不思議と思えるようになる
- 「もっと自分に素直に、楽しく生きていってもいいんじゃないか?」と思える。実際にそうやって生きている高橋さんに勇気をもらえる
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この本からより多くのものを得るには2段階の読み方があるような気がしていて、まずは、頭で考えるのではなく、心で感じながら一回し読むことが大事だと思う。
頭であれこれ考えながら読むのは、その次の段階。
そうしないと、所見で読んだときに「そうはいっても、ここに書いてあることって理想論で、現実難しいよね」みたいに、今ある固定観念で良し悪しを裁いてしまうような気がする。
できる・できない、とか
良い・悪い、とか
そういう、頭で考えた二分論でこの本に書かれているものを処理するのはとてももったいなくて、
やりたいか・やりたくないか、とか
ワクワクするか・しないか、とか
まずは心の反応に耳を澄ませると、きっと違う世界が見えてくる。
その結果ワクワクしたり、やりたいと思ったことには、「どうすれはできるんだろう?」と思考を回し始めればいいんだと思う。
印象的だった言葉たち
以下は、僕の心に深く残った言葉たち。
きっと読み手によって心に残る言葉は違うし、ここに取り上げた以外にも沢山の素敵な言葉があることを添えつつ、いくつか紹介したい。
そして最後に一つ。
あとがきの「高橋歩の『自由のカタチ』」があまりに素晴らしすぎるので、ぜひ読んでみてほしい。
「人は、自分ひとりで、自由になるのではない。
素晴らしい人やものに出逢うことを通じて、自由になっていく。」
「好きな場所にいると、身体が喜ぶ。そして、心が解放される。
好きな場所にいるからこそ、湧き上がる感情や見えてくるものがある。」
「あそこに行きたい、あそこに住みたい、そう感じるのは、
ここにおいで、という地球からのサインだ。
人間社会のごちゃごちゃに飲まれることなく。
素直に、地球からのサインに従って生きたほうが、きっと、気持ちいい。」
「オレは、仲間が出来て、より自由になった。
オレは、結婚して、より自由になった。
オレは、子どもが出来て、より自由になった。
愛する人たちの存在が、オレを自由にした。
人は、愛があるから、自由になれるんだ。」
なんでも、ゆっくりやってみよう
何事も、ゆっくりやることで新たに見える世界があると思う。
現代社会の生活では、僕たちは気がつくといつも何かに追われていて、常に急いでいるような気がする。
コンビニ店員のレジ対応が遅かったとき。
エレベーターの扉がなかなか閉まらなかったとき。
前を走る車がノロノロ運転だったりとき。
そんな些細なことで、僕たちは苛立ってしまう。
「待てない」心理の背景には、何かの不安や恐れを感じる。
僕も含めてみんな、何を恐れているんだろう?
どうすれば、僕たちは穏やかな気持ちで暮らすことができるんだろうか?
この問題の原因を突き止めようとすると、結構問題は根深そうで解決のハードルは高く感じるけど、原因を特定しなくとも解決できる方法があるような気がする。
それが今日のテーマ、「なんでもゆっくりやってみる」という方法。
急ぐことで得られるもの・失うものがある
高速道路を車で走れば、目的地には早くたどり着ける。
でもその一方で、歩いていると気がつく道端の景色に、高速道路を車で走っているときは気づくことができない。
こうやって、僕たちは早く走るほど見えなくなるものが増えていく。
物理的な話だけではなくて、心理的にも何かに急かされて動いているときは、大切なものを見落としたり軽視したりすることがある。
家族のために稼がなければ、と仕事に打ち込み毎日帰宅が遅くなった結果、家族が一自らに番求めていたもの(家族で過ごす時間、など)を見落とす。
出世争いに夢中になって働いていたら、自分の健康を軽視して病気を患ってしまう。
そんな話はそこら中に転がっている。
ここから僕は2つのことを感じる。
一つは、皆、失うまで自分の人生で大切なものに気づくことができないということ。
もう一つは、急いでまで手に入れようとしていたものは、自分が人生で本当に大切にしたいものではないのでは?という疑問だ。
急いだり、待てなかったりする心理の背景にある恐れは、何か(お金や地位、人からの認知賞賛…)を失うことへの恐れなんじゃないか。
恐れは恐れであって、そこに感じるのは「こうなりたい」というポジティブなエネルギーではなく、「こうはなりたくない」というネガティブなエネルギーだ。
多くの場合、そのネガティブエネルギーは自己防衛本能や、生存本能につながっているような気がする。
「ゆっくり物事に取り組むこと」によって得られるもの
先の2つの感想が正しいとすれば、自分のポジティブな欲求に気づくためにはどうすればいいんだろう。
その問いへの僕なりの答えが、「ゆっくり取り組むこと」。
仕事はなかなかゆっくり取り組めなくても、仕事以外の時間ならあらゆる場面でゆっくり取り組むことができる。
駅から家までの道を、いつもよりゆっくり歩いてみる。
そうすると、道端に昨日までは咲いていなかった花が咲いていて、季節の移ろいを感じられた。
ご飯をゆっくり食べてみる。
すると、いつもよりしっかり味が感じられ、使っている素材そのものの味や、作り手の想いまで伝わってきて心が満たされたような気がした。
こんな風に、ゆっくり取り組んで目の前のことに意識を集中すると、普段五感のどこかでキャッチしているのに流れていってしまう情報が、しっかりと感じられる。
意識が「今」という瞬間に戻ってくる。
そうしてゆっくり取り組み、意識を今に集中することで、自分がどんなときに心満たされるのかがわかるようになる気がする。
その後にすることは簡単。
その「自分の心を満たしてくれるもの」を意識的に生活に多く取り入れていくだけ。
家族と会話する時間、一人でボーっとする時間、季節の移ろいを感じる時間、心地よいそよ風が顔を撫でる時間、晴れた空を見上げる時間…
そうしたものの割合を高めていって、少しずつ豊かさを自分の手元に取り戻していきたい。
おまけ
最後に、最近ゆっくり散歩をしながら撮った写真をいくつか。
季節は冬から春へ。
山の景色は、枯れ色から青々とした新緑の色に変わってきた。
そうやって四季の移ろいを感じられる時間が、僕にはとても幸せ。
大切なのは、「あり方」
今日はちょっと閑話休題を。
最近色々な記事を書きながら感じた気づきを3つ、文章にしてみようと思う。
①意識を内と外にバランスよく向けることは、常に大事
このブログを開設した当初、一番のモチベーションは「自分の感覚や思索の内容を文章にしたい」という純粋な欲求だった。
巷でよく聞く「書くネタがない」というブロガーの悩みは当時の僕にはちょっと不思議で、「そもそも書ききれないほど書きたいことをテーマにして、ブログを書くんじゃないの?」と思っていた記憶がある。
実際、毎日の更新はできないけど「心を自由にする」というテーマでは毎日湧き出るようにネタを思いつくし、溜まりに溜まった下書きを少しずつ完成させていくのは楽しい。
一方で、最近気づいたのは、書いているテーマが一定期間内面的なものに偏ると、自分自身の気持ちも内に内に向いていくこと。
自分の感情や人との関係性について、感性を全開モードにして感じたいまま感じたり、それを文章にまとめたりすると、気づきも多いけど精神的な消耗も大きい。
記事を書いた後は充実感やスッキリ感とともに、ちょっとグッタリするのが実際のところ。
そんなとき、自然と書きたくなるのは本や映画の紹介、少し大きな視界での考え方など、「外」に意識の向いた話。
こうして「内」と「外」に交互に意識を向け、バランス良く考え事をすると、どちらの世界もより生き生きしたものに感じられ、その時間は充実したものになる。
同じように、人付き合いにおいても、誰かと一緒に過ごす時間も大切だし、一人で過ごす時間も同じくらい大切だと思う。
誰かと一緒に過ごす時間でしか得られないものもあれば、一人で過ごす時間でしか育まれないものもあるような気がする。
この「内」と「外」のバランスはこれからも意識して、バランス良く色々な記事を書いていきたいなと思ったのが一点目のおはなし。
②書いているのは、僕がこれまでの経験から見出した"一つの"考え方でしかない
こうして記事を書いていると、その内容が自分の辛い経験に裏打ちされたものであるほど、断定的な表現を使ってしまうことがある。
でも僕としては、「記事に書いていることは正解ではなく、あくまでyudaiという一人の人間がこれまでの経験から見出した"一つの"考え方でしかない」という姿勢を保ち続けたい。
断定的な物言いや他の考え方を受容しないような頑なさは、言葉だけでなく、自分の心からもなるべく排除していきたいと思っている。
「絶対に正しい考え」など存在しないし、仮に「正しい可能性がかなり高い考え」があったとしても、僕はそれを人に押し付けたくない。
一番大切なのは、一人ひとりが自分の経験の中で自分なりの学びを見出し、それを尊重しながら納得感をもって歩んでいくことなんじゃないかと僕は思う。
自分の考えの押しつけは、「自分で考え、決め、経験して、体と心で学ぶ」という学びのプロセスを奪い、そして進みたい方向に進もうとする本人の意思を軽視することになりかねないんじゃないだろうか。
「人生」という単位で考えれば、一人ひとり大切にしている考え方があって、一人ひとりがそれに納得しているのなら、何か一つの考え方に統一する必要なんてない。
そんな風に自分も自分以外の人も尊重する姿勢を、ブログだけでなく人生を通して保っていきたいなと思う。
これが二点目のおはなし。
③もっとも大切なのは、「あり方」
これが、今日一番言いたいこと。
②で書いたような話がこのブログには多く登場するけど、「結局のところ、自分が大切にしたいのは"あり方"なんだな」ということを最近つくづく実感する。
仕事で言えば、成果に直結するような知識やスキル、
生活で言えば、暮らしの質に直結するような生活の知恵やお金のIQ,EQなど、
どれも興味がないわけではないけど、一番興味があるのは、
「仕事は、自分の人生においてどんな存在なんだろう」
「その仕事の中で、自分は相手にどんな向き合い方をしたいのかな」
「僕の暮らしの中で、いちばん大切にしたいことはなんだろう」
といった、もう一段手前で、抽象度の高いテーマなんです。
こうした問いは全部「あり方」という言葉で束ねられる気がしていて、どんな場面でも「あり方」を大切にしたい、というのが僕の一つの人生観なんだと思う。
先の②で書いた話も、まさに「このブログを読んでくれる人にどう向き合うか」、「どんな立ち位置でブログを通じてメッセージを発信するか」というあり方の話。
今思えば、「この人はすごいなあ」と湧き上がるような尊敬の念が湧いてくる相手というのは、皆自分なりの確固たる「あり方」を持っていて、それが僕にとって共感できるものだったように思う。
そんな「あり方」の要素を言葉にすると「謙虚」「やさしい」「愛がある」「多様性を受容できる」など安っぽくなってしまうんだけど、体と心は間違いなくその「あり方」に言い表せない魅力で惹きつけられていた記憶がある。
「あり方」は目には見えないし、言葉にするのも難しくて、「あり方」を言語化して意識的に人と交換し合うことも少ないけど、仕事で言えば知識やスキルよりももっと根底の深いところで、確実に仕事の質に影響を与えていると思う。
「人生」という単位で考えても、人生に対する「あり方」に向き合い続けて、それが固まってブレない人は、人生そのものも間違いなく本人にとって豊かなものになると思う。
その生き方が結果として、周囲の人に影響を与えたりするんじゃないか。
僕はこのブログを通じて、「自分がどうありたいか」を様々なテーマや場面で自問自答し、一つずつ作り上げていくのだと思う。
判断に迷ったときほど、一番大切なのは「あり方」。
どうするか、ではなく、どうあるか。
それを見つけるために、対人関係、仕事、人生の3つの分野で自分の「あり方」を問う質問例を載せて、この記事の終わりにしたい。
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〈対人関係での「あり方」〉
「自分は、目の前の相手に対してどんな存在でありたいんだろう?」
「自分は、相手をどんな存在だととらえているのだろう?」
〈仕事での「あり方」〉
「この場面において、自分がいちばん大切にしたいことはなんだろう?」
〈人生での「あり方」〉
「自分は、自分の人生に対してどんな風に向き合いたいだろう?」
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自分の「定点観測」で、心に栄養を。
以前、「"ないもの"ではなく"あるもの"に目を向けよう」という記事を書いた。
叱られたときや物事がうまくいかなかったときに、必要以上に落ち込まないために
・できなかったことより、できたこと
・苦手なことより、得意なこと
と言った具合に、「あるもの」に目を向けることをオススメした。
今日はそれをより実践的にした、「セルフ定点観測」という方法を紹介したいと思う。
もともとの問題意識
大人になると、周囲から褒められることは少ない。
周囲からのフィードバックはマイナスのものに偏り、「できたこと」より「できなかったこと」、「得意なこと」より「不得意なこと」について指摘される機会が圧倒的に多いんじゃないかと思う。
元から自己肯定感の高い人はまだしも、周囲からこんな関わりが続けば誰でも自信を失う方向に向かってしまう。
「私はあれもできないんだ、これもできないんだ」と数を数えていくほど、「私は価値のある人間なんだ」と思うことは難しくなって当然だと思う。
そんな負のスパイラルを抜け出すための一つのアプローチが、自分で自分を褒めること。
実は僕自身、最初に「自分で自分を褒める」という考え方を聞いたときは「そんなの効果があるわけないじゃん。」と思っていたんだけど、やり方を工夫すれば、子供だましなどではなくちゃんと効果のある方法になる。
その方法が、今日紹介する「自分の定点観測」です。
「自分の定点観測」のやり方
「自分の定点観測」は、一言で言うと「定期的に自分のプラス面だけを書き留める習慣をつけて、書きながら、読みながらニンマリしましょう」という方法。
やり方のポイントは3つ。
①定期的に書く
②プラスのことだけ書き留める
③内容を整理しようとしすぎない
この3つが守られていれば、やり方は正直なんでもいい。
ちなみに僕は毎週末1時間位の時間をとって自分の定点観測をしていて、こんな運用にしている。
〈yudai流運用〉
・毎週1回書く。調子がいいときほどサボりがちだけど、そんなときこそ余計に書く。
・「心理面」、「仕事面」、「生活面」の3つの観点でプラスのことを書く。
・書くのは、主に「以前はできなかったのにできるようになったこと」。
・スマホからEvernoteに書き込んで、タグ付けをして後々見返せるようにしている
・ファイルのタイトルは「yyymmdd_yudaiの最近の成長」。これで自分の変化が時系列でわかる
・たまに、タグでノートを検索して何週間分かをまとめて見る。1ヶ月分も見返すと、かなりの変化や成長が感じられてニンマリする。
要は「自分のプラスの側面に目が向き、褒められて脳が喜ぶこと」が大切で、カッチリやり続けること自体が目的ではない。
頻度や書き方は個人個人に合ったものがあると思うので、試行錯誤してみると良いと思う。
「自分の定点観測」を実践するメリット
この3ヶ月ほど実践してみて、僕はこんな効果を感じている。
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・自分のプラスの変化を感じて、前に進んでいる実感が持てる
・頑張っている自分を認めることができ、少しずつ自信が持てるようになる
・それによってモチベーションが上がる
・精神的に苦しいときほど、見返したときに心に栄養が渡って少し回復できる
・叱責やマイナスのフィードバックばかりしてくる人を、「マイナス面しか見ない、視点が偏っている人」だと認識することができる。その結果、以前ほど叱責等によるダメージを受けなくなる
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以前は、受けた叱責の内容を自分自身の頭の中でもリピート再生しており、「俺はこんなこともできないんだ…」と言い聞かせていたんだから、そりゃあ自信が育つはずもない。
プラス面だけ書き出そうとすると、書こうとする時点で一生懸命プラスの事実を探そうとするので、そのプロセス自体が、「"ないもの"ではなく"あるもの"に目を向ける」ための良いトレーニングになる。
慣れないうちはプラスの事実を見つけるのが難しいし、書いていてもこっ恥ずかしい気持ちになるのだが、続けているうちに自然とできるようになるので一度試してみてほしい。
まとめ
そもそも、大人になるとなぜ褒められることが減るのだろう。
褒められないだけならまだしも、「叱る」という関わりだけが残ってしまうのはなんでだろう。
「大人なんだから褒められなくて当たり前だろう」みたいな最もらしい意見も聞こえてきそうだけど、僕は大人だって人間で、褒められたいものだと思う。
褒められたり認められたりすれば人間の本能的に嬉しくて当たり前。
幼少期に褒められ足りた大人なんてほとんどいないと思うし、「大人なんだから」は理由になっていないような気がする。
この問いを僕なりに考えてみると、叱る側の心にある
・「相手がこれをできないと~(ネガティブな結果)~が起こってしまう」という恐怖心
・人のできないことを指摘して、心理的に優位に立つことで満たされようとする虚栄心
の2つが褒めるアプローチではなく、できていないことを見つけて叱責するアプローチにつながっているような気がする。
逆に言えば、褒めるアプローチは自分自身の心が満たされていないとできないものだと思う。
自分自身が自分を認め、心理的安全が確保されているからこそ、人のこともフラットに認めることができるんじゃないだろうか。
そう考えると、自分自身に心理的な問題(虚栄心や恐怖心)を抱えている人から必要以上の叱責を受けることでダメージを負うのはとても勿体無い。
だからこそ、自分で自分を保ち、必要以上のダメージを負わなくて済むような対処法が必要だと思うし、「自分の定点観測」はその対処法の一つなんだと思う。
自分の心に、いつも優しさと栄養を。
人と「適切な距離感」で付き合う
付き合う相手に応じた、「適切な距離感」というものがあると思う。
誰でも他人に触れられたくない絶対領域(悩み、内面の問題、過去の体験など)を持っていて、そこに足を踏み入れられないように自分を守っている。
その絶対領域の広さは人によって様々で、またその人が付き合う相手によって絶対領域の広さ(どこまでなら足を踏み入れられてOKか)は変動するような気がする。
たとえば、世の中には「この人は自分のことを随分オープンに話すなあ」と感じる人もいれば、「なかなか本音を見せてくれないな」とか「自分のことを話してくれないなあ」と壁を感じる人もいる。
でも、一見他人との間に壁を作りがちな人でも、心許せる友達には自分の内面的な悩みを話せたりする。
こうした絶対領域を侵害し合わないように付き合うのが、「適切な距離感」を保つということだと思う。
人間関係の問題の中には、「適切な距離感」を保てなかったことによって起こるものがあって、それらはたいてい、距離感が遠すぎることではなく、近すぎることによって起きることが多いんじゃないだろうか。
今日は、相手と自分の絶対領域を知り、人と適切な距離感で付き合うためのヒントについて2つの視点から書いてみたい。
視点①:人から距離を詰められすぎないための方法
必要以上に人から距離を詰められたり、こちらの気持ちを理解しないまま乱暴なことを言われたりして傷ついた経験はないだろうか。
もし思い当たる経験がありそうなら、次の問いについて考えてみてほしい。
「過去に戻れるとしたら、その人と適切な距離を取り、傷つけられないためにどんなことができただろうか?」
あくまで僕の考えだけど、そんなときの対処法は2つあると思う。
(どちらの方法も、実際に試してみて効果があった)
一つは、その人とあまり付き合わないこと。
もう一つは、「あなたに○○と言われたことで私は傷ついた。本当はもっと○○してほしい。」など、距離が近すぎたことで自分が不快に感じた事実を率直に伝えて相手に距離を取ってもらうこと。
個人的には、まずは後者を試してそれでも解決しないようなら前者を取るのが良いと思う。
ただ、後者の方法はとてもエネルギーがいるし、第一非常に難しい。
まずは自分が感じたことを把握できないといけないし、それを言語化する作業も必要。
言語化したものは相手に伝わりやすい形に整理・変換する必要もあるし、実際に面と向かって相手に伝えるための勇気もいる。
そう考えると、いきなり前者の方法を取るのもいいと思う。
悩ましいのは、相手が仕事の上司など、付き合わざるを得ない立場にいる場合。
こうした場合は、(完璧でなくとも)後者の方法を取らないと自分が苦しくなってしまうと思うけど、相手にどこまで伝わってどこまで行動を変えてもらえるかわからないのが苦しいところ。
そもそも距離感をわきまえずに接してくる相手である時点で、言葉で伝えても伝わりきらない可能性が(経験上)高いような気がする。
「何を言われても受け流す(聞く耳を持たない)」という最終手段もあるが、これはできる人・できない人がいそうなのでなんとも言えない…
周囲の人に傷ついた体験を話すなどして傷を癒やしながら、なんとかその人と距離を取れるといいのだけど。。
視点②:人に踏み込み過ぎないための方法
逆に、人の絶対領域に足を踏み入れないためにはどうすればいいのだろう。
現実の場面でも、仕事上の関係などで相手に踏み込んだ言葉をかけなければいけないときは非常に難しい。
マインドセット寄りの話になってしまうけど、僕は
・まだよく知らない相手に対しては、基本的には相手からの自己開示を待つこと。相手を知ろうとする動き(踏み込んだ質問など)は、相手の不快感を感じ取ったら引っ込めること。
・付き合いのある相手に対しては、他人の心情や考え方・価値観を想像するものの、どこまでいっても100%想像しきることはできないと限界をわきまえること(相手を理解していると傲慢になる程、決めつけで的外れかつ相手を傷つけることを言いかねない)
・踏み込んだ言葉をかけなければいけないときも、相手が傷つかないよう、言葉のチョイスや言い回し、タイミングに最大限配慮する
の3点に尽きると思う。
それでも相手が傷ついてしまうこともあるだろうけど、そんなときこそ相手に真摯に向き合いきって、その後同じことを繰り返さないようにしたい。
まとめ
「適切な距離感」の観点でいうと、傷つくのはいつだって繊細な心を持った人だと思うし、その点は非常に理不尽だと思う。
でも他人の気持ちに鈍感な人は、傷つきにくい分、知らないうちに誰かを傷つけているかもしれない。
そう考えると、ときに傷つきやすさにつながる繊細な心は、「他人の気持ちがわかる」という強みとして現れるときがあることは、忘れずにいたい。
「適切な距離感」という一側面を切り取ってもそこには色々なタイプの人がいる。
その多様さを受け入れ、一つ一つの多様性を尊重しながら、自分と相手にとってベストな距離感で関係性を作れると素敵だなと思う。