ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を経験した筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

「ココロを自由にする」とは何か?を構造的に整理してみた

このブログを書き始めてから、ずーっとモヤモヤしていることがあります。

それは記事のカテゴリー分けです。

気づいている方がいたらとても嬉しいが、ちょこちょこ変えては、しっくり来なくてまた変える、ということを繰り返して今に至ります。。

思えば、ブログのタイトルはパッと直感的に決めてしまったので、
”どうすればココロを自由にできるか”を一生懸命考えてみたものの、
”ココロを自由にするってそもそもどういうことか”をちゃんと考えたことはありませんでした。

ということで、今日は「ココロを自由にする」を構造的に整理してみたいと思います。
(これできっとカテゴリー分けもスッキリするはず・・)

 

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まず、「心が不自由な状態」を定義してみる

思い返せば、「ココロを自由にする」という表現を思いついたのは、自分の心に不自由さを感じていて苦しんでいたからでした。

では、「心が不自由な状態」とは何か。

ズバリ、「思い通りに人生が進まず、ストレスを抱えている状態」と言えるんじゃないかと思います。

これは言い換えると、心のどこかに不安・悩み・恐怖・苛立ち・恨みなどのネガティブ感情があることを意味します。

こうした感情が生まれる原因を辿っていくと、
-人間関係のストレス
-仕事のストレス
-お金のストレス
-それ以外のストレス
などがあるでしょう。

ネガティブな感情が心に渦巻いている状態は、意識が「今」にない状態を生みます。
過去に起きた出来事を思い出して悩んだり、未来のことを心配したり。

そうして脳がネガティブな感情を感じ、「今」から心が離れていくほど、目の前でどんなに素晴らしい起きようともそれを味わうことができなくなってしまいます。
脳は、外部の危険から身を守るためにネガティブな感情を意識することを最優先にするからです。

言ってみれば、ネガティブな感情が簡単にはなくならないのは、生物として自分の生命を守るための当然の反応なのですが、ネガティブな感情が肥大化しすぎて、生きていても不安ばかりでは悲しすぎると僕は思います。

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「心をどういう状態にしたいか」は、自分で自由に決められる

社会に生きている以上、僕たちは常に外部からの刺激にさらされます。

仕事でのストレス、環境の変化、ライフイベントなど、自分が望まなくても次々に起きる出来事に、対処していかなければいけません。

しかし、そうした出来事を前にネガティブな感情が発生するかどうか、どれくらいの度合いのネガティブな感情が生まれるかは、自分自身で選ぶことができます。

ある意味、ネガティブな感情を全開にして、人に愚痴をこぼし、人を恨む生き方も一つだとは思います。そういう生き方も、脳の中には一種の快楽ホルモンが分泌され、心地よい側面があるからです。

一方で、僕は次のような生き方を目指したいと思っています。

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「心を自由にする」という生き方

 それは、「何が起きても脳が安心している状態を保って生きていくこと」です。

言い換えれば、「どんなことがあってもネガティブな感情に支配されず、安心感を持って生きることができる自分を作る」という生き方です。

安心感を感じることができると、意識は過去や未来に持って行かれません。
「今、この瞬間」に100%集中することができます。

食事は一段と味が濃く、美味しく感じられ、
いつも吸っている空気は一層澄んでいて、吸い込むたびに体にエネルギーが満ちるような気がして、
美しい風景はより美しく見え、自分の心に刻み込まれるようなものになります。

こうして目の前にある素晴らしいものを100%味わえるようになることが、僕は一つの「豊かな人生」ではないかと思います。

そしてこの状態を実現するために必要なのが、考え方を変えること。
すなわち、意識を磨くことです。

そうすることで外部からどんな刺激を受けてもネガティブな感情を抱きにくい自分を作り、「外部環境に左右されない、しなやかな安定感を作りたい」というのが僕の目指している生き方です。

さらに付け加えるなら、その先にある、「脳よりももっと深い、魂レベルで満たされるような"快”の状態」も沢山味わって生涯を終えたいと思っています。

「ネガティブな感情をなくす」「常に安心感を持って生きる」だけではマイナスをプラスマイナスゼロにしただけ。
その先に、プラスを沢山感じながら時間を重ねていくことが出来たら、人生はより豊かで充実した物になるのではないか。そんな気がしています。

まとめると、「心を自由にする」とは
・何が起きても心(≒脳)が安心している状態を保って生きていくこと
・その先の、魂レベルで喜びを感じるような時間を味わうこと
という2つではないかと、僕は考えています。

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では、どうやって「心の自由」を手に入れるのか?

では、「心の自由」を手に入れるためにどうすればいいのか。
具体的な考え方の変え方、意識の磨き方を以下に大別してみました。
この分類をそのまま、このブログのカテゴリー分けに適用してみようと思います。

〈①"脳が安心した状態"を作るための4つの各論+2つの総論〉

  1. 人間関係から自由になる
  2. 仕事から自由になる
  3. お金から自由になる
  4. 自信の無さから自由になる
  5. ストレスから自由になる
  6. 心の囚われから自由になる
  7. 自分の軸をつくる

1~4は、僕たちの中にネガティブな感情を生みやすい4つの刺激です。
この4つの悩みから解放されるだけでも、大半の苦しみから離れることができそうです。
ここに分類できない意識の磨き方を、5~7に分けて記事にしていきます。

〈②"魂レベルで喜びを感じる状態"を作るための3つのアプローチ〉

  1. 感情を解放する
  2. 自分を知る
  3. 心が喜ぶことをする

「魂レベルで喜びを感じる」の前提となるのは、自分自身を100%表現することです。
感情というエネルギーが自分の内部に溜めず、外に発散して、エネルギーがきちんと循環する状態を作るのが第一歩だと思います。

その次に、自分自身を知ることです。
自分は何が好きなのか、どういうときに楽しいと感じるのか、心満たされるのか、何が得意で、何が不得意なのか。
などなど、様々な経験を積み重ねながら本来の自分を取り戻していく作業です。

これが進むと、次第に「心が喜ぶこと」が自然とわかり、実践できる段階が訪れるような気がしています。

作家・写真家の星野道夫さんが、慶應義塾大学在学中に見た一枚のアラスカの写真に心奪われ、やがて人生の大半をアラスカで過ごすことになったのは、まさに自分の「心が喜ぶこと」を知っていたからではないでしょうか。

 

まとめ

というわけで、概ねこのような7+3=10個のカテゴリーを中心に記事を書き溜めていきたいと思います。

とはいえ、「ココロを自由にする方法」以外のことを書きたいときもあるので、
・最近読んだ本
・休職経験の振り返り
・人を育てるための関わり方
・徒然(ノンジャンル)
などなど、他のジャンルも随時書いていきます。

貴重な時間を使って読んでいただいている方にも、
少しでも楽しんでもらえる記事を目指していきたいと思います。

 

「休職」に関する素朴な疑問に答えてみる①:そもそも、なぜ働けなくなるのか?

今週も一週間終わりました。(お疲れ様でした)

3度目の復帰でも、数ヶ月ぶりの仕事は信じられないくらい疲れます。

この疲れ度合いは第三者から想像しづらい部分だと思いますが、これまで働き続けて来られた人にとって、そもそも「働けなくなる」という状態自体が想像しづらい気がします。

聞きたいけど、聞けない。
今日はそんな「休職」に関する素朴な疑問に、僕の経験から答えてみたいと思います。
(残念ですが僕は専門家ではないので、サンプル数=1の経験者の考えだと思ってください)

このテーマは、5回に分けて書いていきます。
今日は第一回、「疑問①:そもそも、なぜ働けなくなるのか?」です。

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疑問①:そもそも、なぜ働けなくなるのか?(←今回)
疑問②:「病気以外の休職=うつ病」なのか?
疑問③:休職中の人は、毎日何をして過ごしているのか?
疑問④:精神的要因から来る休職の場合、治療方法にはどんなものがあるのか?
疑問⑤:休職明けの人に、休職期間中のことは聞かないほうがいいのか?
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今年6月に撮ったバラと空

 

まず、「働けなくなるに相当する理由がある」ということ

 「会社に来れなくなる、ってそもそもどういうこと?」
と、誰もが一度は思うのではないでしょうか。

多少のことならば、皆無理してでも仕事に行きますよね。
「多少のこと」でないから仕事に行けないわけですが、この中身が気になると思います。

僕の場合ですが、1~3回目の休職で、それぞれ働けなくなった理由は異なります。

1回目の休職:働きすぎで体を壊す

 1回目の休職の際は、「過度な長時間労働によって体調を崩した」ことが一番大きな原因でした。

7時に出社して1時過ぎに帰る、土日も仕事、という仕事を数ヶ月続けたことが僕には無理だったようで、2ヶ月を過ぎた頃から毎日微熱を出しながら仕事に行っていました。

その状態がしばらく続くと、他の症状が上乗せされてきました。
・食欲不振
・不眠(寝付きが悪くなり、寝ても朝までに何度も目が覚める)
・嘔吐・吐き気
・疲労による?全身の痛み
などです。

ある日、これらの症状が全部重なり、あまりの具合の悪さにベッドから起き上がれなくなった日がありました。

そこから先は、無理をするだけこれらの症状が重くなり、最終的には物理的に会社に行けない(というか、起き上がることすら難しい)状態が訪れました。
無理ができないくらい体が悲鳴を上げました。

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2回目の休職:転職先の慣れない仕事に、自責100%の心の癖。心理的ストレスでパンクする。

2回目の休職は、1回目の休職の際所属していた会社をあまりの激務で退職し、転職してから3ヶ月後です。

当時、転職したばかりの僕は「こんな自分を受け入れてくれた会社だから、きちんと仕事で恩返しをしなければ」と気負っていました。

転職先が僕を含めて3人のベンチャー企業だったこともあり、不慣れな仕事に大きな責任を負って、期待に応えようと心理的なストレスを溜めすぎてしまいます。

完璧に期待に応えなくては、と最大限努力をしたものの100点満点が取れない。
そんな現実を前に、自分で自分を許すことができず、「こんな自分では組織に必要とされなくなってしまう」などという不安で死にそうでした。
お察しの通り考え方の癖が出まくってます。。

また、この頃は、心理的なストレスでパンクすると、体の不調となって跳ね返ってくる」というパターンができてしまっていました。(以前の記事にも書いたとおりです)

そして、結果、1回目の休職の際とまったく同じような体調不良に陥りました。
「会社に行かなければ」と思いながら、無理をしても体が言うことを聞かない状態。
そして、「会社に行かなければ」と思いながら、一方で「会社に行きたくない」とも思っている自己矛盾の状態は、非常につらいものがありました。

yudaism.hatenablog.com


振り返ると、外部環境がハードだったというよりは、自分自身の思考の癖によって過度にストレスを溜め、勝手にパンクしてしまった、というのが率直な感想です。


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3回目の休職:理不尽な外部環境に、他責100%の心の癖。これまた心理的ストレスでパンクする。

3度目の休職は、少し過去2回と毛色が異なります。

それまでは、仕事上の問題の原因を100%自分にあると考え、自分を責めては完璧な自分になろうと無理をしてパンクするパターンでした。

しかし今回は、そんな僕でも「今回はさすがに会社がおかしい」と思うような理不尽な環境に追い込まれていました。
詳しくは書けませんが、身の回りの友達、家族、前職の先輩、10人に聞いたら10人が「それは会社がおかしい。辞めたほうがいい」と口を揃えるようなブラックな状態でした。

加えて、当時上司から心が折れるような毎日言葉を浴びせられており、ある日、決定的な暴言を吐かれます。
それをうまく受け流せなかった僕はまたしてもパンク。
ストレスは一定の体調不良と、転職活動へのエネルギーになって返ってきました。

当時は、相変わらずの体調不良もさることながら、気持ちの面では「あんな会社は絶対に間違っている。自分は正しい。だから、会社に行く必要はない。」と思っていました。

でも結局、相手(会社)が変わらない以上、この考えを持っている限りは仕事に復帰できないんですよね。。
どちらが正しいとか、間違っているとかは置いておいて、この他責的な考えを手放せなければ自分がストレスを感じ続けることは間違いありません。


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そして復職した今、思うこと

結果的には、数ヶ月悩み抜き、転職の判断は先送りにし、もう一度同じ職場に戻ることを決意しました。(詳細は機会があればまた書きます)

そんな今思うのは、3つのこと。

一つ目は、休職の原因を一つに特定するのは難しいということ。
色々な要因が複雑に絡み合っていて、これ!と決めるのは非常に難しい。

もし「なんで休職しちゃったの?」と問われたら、
「うーん、いろいろありすぎてわからない」と答えるのが正解な気がします。

今回は、話をわかりやすくするために究極にシンプル化してみましたが、本当はここには書ききれない様々な要素があったと思います。

二つ目は、どんな場合でも休職の原因が100%自分にあるとか、100%外部環境にあるとかいうことはなく、50:50からそれほど離れていないバランスで、自分と外部環境の両方に原因があるということ。

これは、3度の休職を通じてしみじみと実感します。
どちらかが100%悪ければ、そこを取り除くのは簡単ですよね。
でも現実はそうではないから、みんな苦しむし、僕のように休職を繰り返す人がいるのだと思います。

最後に、僕のような心理的な要因が絡む休職の場合、「考え方や認知の癖が強いと、環境に過度にストレスを感じる」ということ。
そして、「人によってはそのストレスが生活もままならないほどの体調不良を引き起こしてしまう」ということです。

同じ環境下でも、考え方や認知の偏りが少なければ感じるストレスは少なくて済みますし、
仮に休職してしまう人と同じくらいストレスを溜めた人でも、それが体調不良以外の方向に現れる(例えば他者を攻撃する等)ことで、物理的には働き続けられる人もいます。

そこには、人の数だけ多様性があるように思います。

なので、僕の体験を普遍化するつもりはありませんし、あくまで1つのサンプルとして考えてください。

このシリーズの次回は、
疑問②:「病気以外の休職=うつ病」なのか?
です。

おそらく間に別の記事を差し挟むと思いますが、5回シリーズは書き切りたいと思っています。 

3度目の社会からのリタイア。でもまた復活しました。

またしても久しぶりの更新。

実はまた心身のバランスを崩して仕事を休んでいました。
休職は今回で3回目。
復職するたびに、「今度こそもう大丈夫!もう休職しない!」と思うけど、その気持ちが先走ってる感が逆に危ういな…と今では思います。

9月からまた復職しましたが、またいつ心か体の電源が切れるかわからない、くらいに思いながら、無理のないペースで日々を積み重ねて行こうと思うこの頃。

今日はこれと言ったテーマではなく、ちょっと今思っていることを書いてみます。

 

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休職は、ネガティブなことばかりではない

今回のリタイアも会社で心理的ストレスを溜めすぎたことが原因でしたが、
フラットに見て当時非常に理不尽な状況に置かれており、一方的に傷つけられ、「こんな会社でやっていられるか!!」と堪忍袋の緒が切れたのが始まりでした。

我慢の限界が訪れて、6月あたりは仕事を休んで転職活動に精を出していました。

でも、待っていたのは厳しい現実。
複数の転職エージェントは口を揃えて、「休職経験のある人は書類選考で落ちる可能性がとても高い」、「特に休職したまま転職活動をするのは見え方がよくない」などと言うわけです。

まあ採用する企業側の立場からすれば、当然気持ちはわかるんだけど…

こうやって、社会的に見れば「社会に適合できない人」のイメージが強い休職という経験。でも、僕は自分の経験を通して、「休職の経験はネガティブなことばかりではない」と心底思っています。

なぜか。

仕事に行けなくなるまで追い詰められて初めてわかること、初めて学べることが沢山あるからです。

僕の場合、学べたことは

  • 自分の考え方の癖や偏り
  • 自分の性格のどの部分が、どのように問題か
  • その性格が形成された背景
  • 心を楽にする考え方
  • 自分に合うストレス対処法
  • 同じ仕事環境に戻ったときの、人や仕事への対処の仕方

などなど…書き出したらキリがないくらいです。

中には向き合うのが辛いものも沢山あったけど、「向き合って、乗り越えなければ社会に適応できない」という状況になったからこそ、向き合い切ることができたような気がしています。

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失敗したっていい。人生の価値は、「何を学んで死んでいくか」次第。

体調を崩して、働けなくなって、
働いているはずの平日の昼間、
外に出れば、自分とは違ってきちんと働いてお金を得て自活している人がいる。

かたや自分は…と考えては自信を失った日々も相当長かったですし、
一生懸命守ってきたピカピカの経歴に、「休職」という傷が何度もついてしまったような気がして、将来が不安になったときもありました。

それでも今思うのは、こんな経験をできてよかったなあ、ということ。

たぶん自分くらい辛い思いをしている人は少数派だし、その経験の中でしか考えなかったこと、感じなかったこと、気づけなかったことがたくさんあるはず。

同級生には、順調に出世して、結婚して、家を買って、僕よりもライフステージを何段も早く駆け上っている人も多いけど、

お金や家や地位みたいな目に見えるものは、あの世に持っていけない。
最後に人生に充実感をもたらすのは、「たくさんのものを見て、たくさんのことを考えて、気づいて、一生懸命成長した」という実感なんじゃないかと思います。

ただ、これは、あくまで僕の価値観です。
その価値観に基づけば、今のところいい人生を歩んでいるなあ…と、やっと思えるようになってきました、というお話。


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今後の更新予定 

書きたいテーマは山ほど溜まっているのですが、
今の僕の中での優先順位は「毎日仕事に行くこと」「心身の健康を保つこと」なので、それを保てる範囲で更新していこうと思っています。

「このブログについて」のカテゴリにある記事では色々暑苦しいことを書いていますが、
日々を通して気づいた、なんだかフッと心が楽になる考え方のヒントみたいなものを気楽に書き溜めていくつもりです。

今日はこのへんでおしまい。
ではでは。

 

「ブログの毎日更新」よりも大切なこと

このブログを始めた当時、Googleで「ブログ 入門」と検索してみたときのこと。

ネット上には、
「ブログは毎日更新したほうがアクセス数が稼げる」
「それと同時に良質な記事を書き続けることがブログファンを増やすコツ」
という情報があふれていた。

僕もやっぱり一人でも多くの人に読んでもらえた方が純粋にうれしいので、「毎日更新と良質な記事の両立を実際に試みてみよう」と思って、つい先日まで3週間程ブログを毎日更新してみた。

今日は、その経験から気づいたことの記録。

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(新緑の木の幹から樹液が…!)
 

ブログを毎日更新してみて気づいたこと

毎日更新してみて気づいたこと。

それは「毎日書こうとするとどうしても記事の質が落ちる」ということ。

「質が落ちる」というのはコンテンツもそうだけど、何より「自分の表現したいことを精緻に言葉にすることが、時間の制約上できないこと」。

僕のようなビギナーにとっては特に、週5で働きながらブログを毎日更新するのはかなり難しい。

仮に文章を書くこと自体に不慣れな分を差し引いたとしても、仕事が終わって家に帰って、家事をして風呂に入って、寝る前に毎日記事を書くのは体力的にも時間的にもキツイ。(経験のある方はわかると思う)

そう思って、休日に平日5日分の記事を書き溜めてそれを毎日アップしたりもしてみたけど、休日2日で計7日分の記事を書こうとすると、かなりの時間とエネルギーを使う。
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(空の青と木々の緑はいつまでも眺めていられる)
 

すべては、「ブログを書く目的」次第

ーあれ?なんのためにブログを書いていたんだっけ?

ここまでやってみて、こんな疑問にぶつかった。笑

収益を得るため?
有名になるため?
自分の考えを表現するため?

人によって色々な目的があるだろうけど、僕の目的は「自分を表現すること」と、「自分の気づきをシェアすること」の2つだと思いだした。

yudaism.hatenablog.com

 

yudaism.hatenablog.com


その目的と、毎日のブログ更新に追いかけられて疲弊する現状が全くつながらないことに、毎日更新をしてみて初めて気がついた。

もちろん、アクセスアップからのまとまった収益を狙う人や、個人事業主として自分のブランディングを図りたい人にとっては毎日更新も有意義かもしれない。

でも、僕のような「読んでくれる人が沢山増えたらいいな、そこで読んでくれる人とのコミュニケーションが生まれたら嬉しいな」くらいの目標をもっている人であれば、必ずしも毎日更新にこだわる必要はないんだと思う。
(なんだか当たり前のことを言ってる気がしてきた。笑)

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僕が大切にしたいのは、「自分の想いを言葉で精緻に表現すること」 

毎日更新していたときは、限られた時間の中で自分の考えを精緻に言葉にしきれないことがとても辛かった。

思っていること、心や体で感じていることが100あるとしたら、文字として表現できているのが50〜60くらいしかない感じ。
でも、表現したい重要な要素は残りの40〜50にも含まれているような気がして、それを時間内で表現することが難しいから消化不良のまま公開ボタンをポチッとする。

納得のいかない記事を投稿したときの感覚は、画家などのアーティストが「自分の意に沿わない作品は、仮に高額で買い取られるとしても世に出したくない」と思うような感じに似ていると思う。

自分の中でも腹落ちしきっていないことを、世に差し出していいんだろうか?
という疑問が頭から離れない。

何を大切にブログ記事を執筆したいかは人それぞれだけど、僕は
「自分の想いを言葉で正確に表現すること」
を大切にしたい。
言葉に対して、自分の想いを表現することに対して、誠実でありたい。そしてこの価値観は、先に書いた目的と密接につながっている。

こうした自己表現の結果として、
「自分の考えが、正確に読んでくれている人に伝わる状態」
「その結果、"あの記事を読んでこう思ったよ"などの、コミュニケーションが生まれる状態」
が実現できたら、もう最高だなあ…と思う。

 

まとめ

ブログの更新に疲れてきている人。
ブログのネタ切れに困っている人。
そんな人には、きっとブログの運営以外に大切なことがあるんじゃないかと思う。

自分の幸せは、特定の何かだけでなく色々なもので作られる。

ブログの運営は、一人ひとりが「今より良くなる」ための手段の一つでしかないので、他にも沢山の手段があることは忘れないようにしたい。

ということで僕も、自分の余裕のあるときや書きたい衝動に駆られたときに、ゆるゆると書くことを続けていきたいと思います。

いつも読んでくださっている方、今日初めて読んでくださった方、
最後までお付き合いいただきありがとうございます。

人と「適切な距離感」で付き合う②

以前の記事で、人と「適切な距離感」で付き合うための方法を次の2つの側面から考えた。

  • 視点①:人から距離を詰められすぎないための方法
  • 視点②:人に踏み込み過ぎないための方法

 

yudaism.hatenablog.com


特に視点①、人から距離を詰められすぎないための方法については、書いていた当時から「何か足りないなあ」という感覚があった。

その足りない何か(人と適切な距離感で付き合うための方法)の一つを、つい最近発見したので、今日はそれを共有してみます。

 

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人から距離を詰められすぎないための方法:その③

結論から言うと、その方法は「距離を詰めてきてほしくない相手については、その人の話に過度に耳を傾けすぎない」というもの。

こちらが「あまり近づきたくないな…」と思う相手には、往々にして自分自身のことはあまり開示しないと思う。
それでも、こちらが相手の話を深く聞くだけで「距離感」は自然と近づいていってしまうもの。
ココが「適切な距離感」づくりで注意しなければいけないポイント。

相手の目線で見れば、自分の話を深く聞いて受け入れてくれた相手のことを、「この人は私のことをわかって受け入れてくれた」と感じてしまうことは、自然なことだと思う。

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気づきのきっかけとなった、僕の実体験

今回の気づきにつながった僕の実体験がある。

とある友人Yさん。
これまでのやりとりから、僕は「Yさんは他人に興味がなく、他人の痛みに共感する感性も弱いので、こちらの理解と受容を求めても無駄。求めてもこちらが傷つくだけだから、自分の話は極力せずに、彼女の話だけ聞いていればいいや。」と割り切って彼女と付き合っていた。

非常に承認欲求が強く、「聞いて聞いて」攻撃や「認めて認めて」攻撃が強いYさんに、僕は「一方的に話を聞き続ける」という関わり方をした。仕事の悩みから恋人との悩みや生い立ち、将来の目標や夢など大抵のことは聞いたと思う。

その結果起こったこと。

共感力の弱いYさんは、僕に対して失礼極まりない暴言を繰り返し吐くようになった。
Yさんからするときっと、僕はとても心理的距離の近い相手だったと思うし、僕がYさんを理解したようにYさんも僕を理解したかのような錯覚に陥ったのだと思う。

僕は、「Yさんとは少し距離を置こう」と思ったが、今思えば彼女にそこまで距離を詰められてしまったのは僕自身の関わりにも問題があったんだと、最近になって気がついた。

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心理的な「距離感」は何によって決まるのか?

1対1の関係において、心理的な「距離感」は何によって決まるんだろうか?

僕は、「距離感」はお互いが「自分のことを相手が理解し、受け入れてくれた」と感じた度合いに比例して決まるものだと思う。

たとえば、Aさんの話をBさんが深く聞き、Aさんに受容と共感を示せば、AさんにとってBさんは「自分のことをよく理解して、受け入れてくれた」非常に心理的距離の近い相手になる。

そうなれば、その「近い距離感」のままAさんはBさんの心に立ち入ろうとするだろう。
BさんがAさんにしたのと同じように、深くBさんのことを知りたがるに違いない。

この構造の中で注目すべき点は3つ。(一つ目が特に重要)

  • 実は心理的な「距離感」にも2種類ある。自分→相手への距離感と、相手→自分への距離感。
  • 相手→自分への距離感は、こちらの関わり方で決まる。受け入れすぎると、過度に距離が近くなる。
  • そもそもお互いが相手に望む距離感が異なることもある。

一点目の2種類の「距離感」は、ある種一方通行的に決まるもの。

「相手がどんな距離感を望んているか」よりも前に、「自分が相手とどんな距離感で付き合いたいか」が先に立つのが誰でも当たり前で悪いことではないけど、その分こちらが望まない距離に近寄ってくる相手がいることも心に留めておきたい。

後々自分自身が不快な思いをしないためにも、自己開示をする相手、相手の話を深く聞き入れる相手は慎重に見極めると良いのかなと(自戒を込めて)思う。

とはいえ一方で、誰に対しても自分をフルオープンにできる人や、誰の話にも深く耳を傾けて受容することができる人も魅力的なんだけども。。。

「距離感」をめぐって不快な思いをする可能性があることだけ頭に留めて、あとは「自分がどうありたいか」という"あり方"次第で決めればいいのかなと思う。 

お金をかけずに心を満たすには?

リクルートに勤めていたときのおはなし。

当時僕は東京の中央区に住んでいたのだけど、とにかく何をするにもお金がかかった。
でもお金はかかるわりに心は荒んでいたし、いつも満たされなさを抱えていたように思う。

今日は、当時と今のお金の使い方の比較から、「お金をかけずに心を満たす方法」について考えてみた。

 

 

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(↑休日の銀座。とにかく人と情報とお金の動きが多かった。)

 

都内の一人暮らしで体験したこと

リクルートで働いていた当時は終電で帰れないほど忙しく、1時間の通勤の時間と体力消費を減らすために都内での一人暮らしを始めた。

住んでいたのは銀座。
間取りは1K、21平米で家賃はジャスト10万円。
当時は、生活を切り詰めてでもすぐ帰れる場所に住みたい一心だった。

生活してみてわかったのは、外出するたびにとにかくお金がかかること。

家を出て気分転換したいと思えばカフェに行く。
銀座を出たいと思えば電車に乗る。
ご飯を作るのが面倒だと思えば外食する。

特に食事は、安く食事を済ませられるチェーン店などが多いこともあって、手間と時間をかけて料理をするモチベーションが湧かず、いつも外食で済ませていた。

当時の家計簿を見返してみると、一日の生活の様子がありありとわかるほど、あらゆる場面でお金を使っていた。

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(銀座のマンションから見た風景。緑がゼロ。笑)

 

都内から脱出して気づいたこと

銀座で一人暮らしをすること2年半。
都内の生活に疲れ、転職して収入が減ったこともあって、神奈川県に引っ越してみた結果。

今度は、お金を使う場所がない。笑

家の近所に外食の選択肢は2つしかない。
お茶ができるようなカフェもない。
あるのは、スーパーが一つと地元のパン屋、公園と駅周辺のベンチくらい。

それでも、幸福度というか、精神的な満たされ度合いはリアルに引っ越し前の5倍くらいになった。

この経験で気づいたのは、お金の消費と幸福度が必ずしもイコールにならないこと。

僕たちは幸福になろうとしてお金を使うけど、必ずしも深く満たされるわけではない。
ストレス解消に洋服を買ってみたり、自分へのご褒美に高級な外食をしてみたりしても、満たされるのはほんの一瞬だ。
時間が経つとすぐ、元の「何か満たされない感じ」に逆戻りしてしまう。

満たされない理由は、「自分の心の満たされなさの正体」、そして「何によって自分の心は満たされるのか」を把握できていないことにあるんじゃないかと思う。

多くの人はお金があれば大抵の問題が解決するように感じ、「お金さえあれば…」と思うけど、お金があってもこれを把握しないことには本当に満たされることはない。

事実、お金持ちでも満たされなさに苦しんでいたり、お金を失う恐怖に怯えていたり、決して精神的に健康でなかったりすることを、僕は銀座に住むお金持ちを見て知った。

その点僕は、幸いなことに「自分の心が求めているもの」に気がつき、それを指針に引っ越し先や今の生活スタイルを決めることができた。

求めていた自然豊かな住環境が手に入り、カフェの代わりに公園が近くにあり、朝はまぶしい日差しと野鳥のさえずりで目が覚めて、夜は満点の星がよく見えるだけで、自分自身は結構満たされることに気がついた。
幸福度5倍、は「自分の心が求めているもの」に気が付けた賜物なんだと思う。

※都内の生活を否定しているわけでは決してなく、「僕個人にはそれが合っていなかった」ということに気づいたというお話。 

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お金をかけずに心を満たす方法

どのように過ごせば心は満たされるのか?

その方法は、きっと一人一人違う。
答えは自分自身の中にしかなくて、誰かが教えてくれることはたぶんない。

それでも、まずは自分自身にこんな問いを投げかけてみたらどうだろう?

お金を使わずに楽しめる方法は何か?
お金を使わずに今日という一日を最高に楽しむ方法はなんだろう?

買い物をするのも、テーマパークに行くのも、カフェに行くのもNGだとしたら?
友達に会うことはできても、お金を使えないとしたら?

もしかしたら友達とおしゃれなカフェに行くプランは、友達とおにぎりを持って公園に行き、レジャーシートを広げて青空の下でおしゃべりすることでもっと豊かな時間にできるかもしれない。
ボウリングに行く代わりに、公園でキャッチボールやフリスビーはどうだろう。
外食する代わりに、作ったことのない料理に家でゆっくりチャレンジするのもいい。

こうした問いを置くだけで、きっと「お金を使わずに心を満たす」無数のアイデアが出てくるんじゃないかと思う。

出てきたアイデアの良し悪しは後で判断するとして、まずは10個アイデアを出してみる。
そのときのポイントは、「なんとなく考える」のではなく「真剣に考える」こと。
そうすると、意外なほど、お金を使わなくても楽しめる沢山の方法があることに気づけるんじゃないかと思う。

 

まとめ

どのように過ごせば心は満たされるのか?

その答えは、残念ながら自分の心や感性が研ぎ澄まされているときしか見つからない。

自分の状態が悪いときは、自分が真に求めているものは雲がかかったように見えにくくなり、あまり満たされないものに時間やお金をかけてしまうかもしれない。

それでも腐ることなく良い状態が来るのを待って、その答えを探し続けることが大切なんじゃないかと思う。

僕自身も悪いこと続きで泣きたくなることもあるし、考えても悪い方向にしか進まないこともあるけど、どんなときでも「最終的にはすべて良くなる」と希望をもって、自分自身と対話を続けていきたいと思う。 

小田急線の駅員さんから学んだ、「人と人のコミュニケーション」

昨日0時過ぎの終電で最寄駅に着いたときのこと。

ややこしい乗り継ぎをして窓口でSuicaの処理をしてもらうとき、笑顔で対応してくれた駅員さん(30代前半くらいの若い男性)にふとこんな疑問を持って、その場でぶつけてみた。

「この時間まで勤務したときはどうやって家に帰るんですか?」

すると、駅員さんからこんな答えが返ってきた。

「終電まで駅にいるときは、そのまま泊まりなんですよ。
ちゃんと奥にベッドがあって泊まれるようになっているので、朝までそこで仮眠します。
泊まりの日は基本的に24時間勤務なんです。
ここに表札を置いてもいいくらいですね(笑)」

小田急線だけなのかはわからないけど、終電まで勤務した駅員さんが泊まりだとは知らず、思わず僕はこう言った。

「泊まりなんですか…!大変ですね。いつもありがとうございます。
すみませんでした、変なこと聞いちゃって。」


すると駅員さん。
「そんなことないですよ(照れくさそうにニコニコ)
おやすみなさい」

最後の「おやすみなさい」で、じんわり心が温まって昨日は家路につくことができた。
言葉で表現するのは難しいけど、とにかく優しさのあふれる駅員さんだった。
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小田急線の駅員さんとのやり取りから感じたこと

このやり取りで、僕は2つのことを感じた。


①僕たちは日々、誰かの仕事によって支えられている

 一つは、僕たちが普段何気なく利用しているサービスは、すべて人の仕事によって支えられていること。

朝食に食べるパンには作り手がいて、通勤電車は電鉄会社の人々によって支えられ、昼食を提供してくれる飲食店があって、家路につく途中に立ち寄るスーパーやコンビニには店員さんだけでなく、仕入れ担当者や製造者が関わっている。

僕たちはそうした関係者と直接顔を合わせたり会話したりする機会がないだけで、そのサービスが当たり前に提供されるものだと思ってしまうけど、

「0時を過ぎても電車で家に帰ること」を可能にしてくれているのは、人だった。
その人自身が家に帰れない代わりに、僕が家に帰ることができているのだと思うと、自然と感謝の気持ちが湧いてきた。


②仕事を「無味乾燥なもの」から「血の通ったもの」にすることの大切さ

もう一つは、仕事を「無味乾燥なもの」から「血の通ったもの」にすることの大切さ。

昨日は普段会話することのない「駅員さん」という存在が、乗車サービス以外の会話をすることで何かこう、生き生きとした「ヒト」に感じられた経験だった。

コンビニやスーパーの店員さん然り、
僕たちは日頃何かのサービスを受けたり提供したりするとき、「そのサービスの提供者と受益者」という関係性を超えてコミュニケーションをとることは少ない。

それは当たり前なのかもしれないけど、無味乾燥なやり取り(コンビニ店員さんで言えば、レジを通して合計金額を伝え、お金を受け取ってお釣りと商品を渡すだけのやり取り)だけで無難に事が終わってしまったとき、僕はちょっとした寂しさを覚える。

人が目の前に「いる」はずなのに、何かロボットとやり取りしたかのような無機質さ。無味乾燥さ。少なくともそのやり取りで心が温まることはない。

それが、昨日みたいに自分から駅員さんに話しかけるだけで「サービスの提供者と受益者」の関係から「人と人」の関係に変わり、「人と人」としてお互いの思ったこと・感じたことを率直に伝え合ったことで、そこに本当のコミュニケーションが成立した気がした。

でも、僕が駅員さん話しかけることができたのは、彼がとてもにこやかに対応してくれたからだ。「Suicaの処理」という無味乾燥になりがちな仕事を、彼は気持ちのいい笑顔と誠実さで快く引き受けてくれた。

だからこそ、僕もその場で気になった疑問を投げかけてみよう、きっと話しかければ気持ちよく会話に応じてくれるだろう、と思ったのだと思う。


まとめ

どんな仕事に就いてでも、作業的な業務になるとどうしてもやり取りが無味乾燥で、無機質なものになりがち。

コンビニのレジ対応、飲食店での注文取りや配膳など、BtoCのビジネスだけでなく、
オフィスワーカーの社内でのやり取り、法人顧客とのやり取りでも、
無味乾燥なやり取りに偏ってしまう場面は多い。

僕の感覚でしかないけど、大企業で働いている人は特に心で感じたことを表現しない人が多いし、そもそも「心が感じていること」を自覚しているのかどうかも怪しいような気がする。

でも、きっとコミュニケーションはお互いが率直に感じたことを言葉にし合って、お互いの世界を交換することで初めて成立するんだと思う。
そういった対話には、有機的で人間らしい温度がある。
そしてその温度によって初めて、人の心の深いところが満たされうるような気がする。

僕は一駅員さんの対応を見て、自分自身も「機械的な仕事ロボット」になっていると客観視できたときは「人間」に戻れるよう意識したいと思った。

「人間」に戻って、感じたことをきちんと感じて、なるべくそれを言葉にして相手に伝える。
時と場合によってそれができないとき、やらないほうがいいときがあるのも現実だけど、その我慢の度合が自分の限界を超えるようなら、その仕事を続けることはきっと難しいんだろうと思う。

ビジネスマン、企業人、仕事人である前にまずは人間をやること。
自分自身もよく忘れそうになるので、今日は改めてその大切さを書いてみました。

体を鍛えることで、人にもやさしくなれる

今日はライトめのお話。

以前の記事で、「体は心の住み家であり、心を健康に保つためにも体を鍛えると良い」ということを書いた。 

yudaism.hatenablog.com

今日は、それに付随した一つの気づきのお話。

 f:id:yudaism:20170510234414j:image(道端の畑に大量のさやえんどうが…↑)
 

人にやさしくするために必要なモノ 

「自分にも、人にもやさしくありたい」と日々思っていても、心理的距離の近い人には特に、ついつい厳しく当たってしまうときがある。

そんなとき、僕たちに不足しているモノの一つは「心の余裕」だと思う。
やっぱり、自分の気持ちに余裕がなければ、人にやさしくすることは難しい。

では、自分の気持ちの余裕はどうすれば生まれるのか?
そもそもなぜ、自分の気持ちに余裕がなくなるんだろうか?

そんな問いを立てたとき、僕の中に「自分の体の調子が良くないからだ」という一つの答えが浮かんだ。

もちろん他にも色々な答えがあると思うけど、一見無関係な「体の調子」が「心の調子」に影響を与え、人にやさしくできなくなっていることがあるんじゃないだろうか。

平たく言えば、病気でめちゃくちゃ体調が悪いときに人にやさしくするのは難しいよね、ということでしかないんだけども。

体調が悪いときに、人にやさしく接しろと言うのはなんとも酷な気がする。
(逆に言うと、誰かからきつく当たられたとき、その人はもしかしたら体調が悪いのかもしれない)

 

体を鍛えることは、自分のためにも人のためにもなる

ということは、体力と免疫力があり、体調が常に安定していれば、体の不調が原因で気持ちが落ち込んだりすることはないはず。
気持ちが体に悪影響を受けない分、受けていたときと比べると心理的安定を保てる可能性も高いと思う。

僕自身はわりと思考偏重タイプで、体を動かしたり鍛えることを軽視しているところがあるので偉そうなことは言えないけど…

体を鍛えることは、自分自身の心身の健康だけでなく、人にやさしくできる(結果、人と良好な関係を保つ)ことにもつながるんじゃないかと思う。

だとすると、体を鍛えることはまさに一石二鳥。

以前、別の記事で「意識を内と外にバランスよく向けることが大切」と書いたけど、心と体も、どちらかに偏ることなくバランスよく使っていくことが大切なんだろうな。

yudaism.hatenablog.com

 

体を鍛えることのもう一つのメリット

さらに、体を鍛えることのメリットをもう一つ。

月並みかもしれないけど、僕の担当カウンセラーによると「怒りの感情は、自責的な(自分自身に向く)ものにしても、他責的(他人や環境など、外に向く)ものにしても、運動などで体を動かすことである程度発散できる」ということ。

僕は、怒りなどのネガティブな感情を発散する方法として、「自分のネガティブな感情とトコトン向き合って、沢山考えて、物事の意味付けをしたり解釈を変えたりしながらネガティブな感情が湧いてこなくなるまで消化を試みる」というプログラムしか持っていなかったのだけど、「体を動かす」という一見関係のないアプローチで一定ストレスの発散になることを学んだ。

少し話が広がるけど、会社組織の上司が部下のタイプに応じてあらゆるマネジメント手法の引き出しを持つ(この部下は懇切丁寧に指導しながら褒めて伸ばそう、この部下はある程度放置して仕事を任せよう…等)と強いのと同じように、ストレス解消法も、自分のストレスの種類や度合いによってたくさんの引き出しをもっておくと強いと思う。

と書きつつ、「体を動かしてネガティブ感情を減らす」はまだ実践していない…。
なので、実践した結果はまた改めて、違う形でまとめて記事にしたいと思います。

 

身近な人にほど多くを求めてしまうという問題

以前の記事で、「人間の心の成長には3つのステップがある」ということを書いた。

yudaism.hatenablog.com


その1ステップ目、「人と自分に"同一性"や"同質性"を求める段階」について、最近「自分と心理的距離の近い身近な人ほど自分との違いを認め、受け入れるのが難しい(≒同質性を求めがち)」ということに改めて気がついた。

今日はこのテーマについて問題点を整理をしたうえで、身近な人に過度に同質性を求めないために

  • 身近な人に関わるうえで何に注意するか
  • 自分自身の心をどう変えるか

という2つの視点から対処法を考えてみたい。

 

 

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身近な人に同質性を求めることで起きる問題

最近あった出来事

「身近な人にほど同質性を求めがち」というのは、家族との関係を思い浮かべれば「確かにそうだよね〜」とすぐ理解できる話かもしれないけど、友人などでも同じことが起きることを最近体感する出来事があった。

親しい友人とお茶をしながらお互いの恋愛観・結婚観について話していたときのこと。

テーマは「恋人と結婚相手、それぞれにどこまで自分との共通点を求めるか」という話で、僕が相手に求める基準が彼よりも高くて、考え方がすり合わなかった。

その友人と僕は元々性格があまり似ていないこともあって、ある程度考え方の違いは予測していたものの、会話が進んで恋愛観・結婚観の違いが明確になってくるほどストレスを感じている自分がいた。
きっとそれは僕の態度に出ていて彼にもストレスを与えていたと思うし、その結果会話も散漫になってしまった気がする。

僕がストレスを感じていたポイントはきっと、「自分の考えや価値観に共感してもらえなかったこと」なんだと思う。

他の友人や、もう少し心理的距離の遠い相手であればそれをストレスに感じなかったんだろうし、こちらも「あなたはそう思うんだね。俺たちは違うね。」と相手の考えを認められたような気がする。

でも、10年以上の付き合いになる親しい友人だからこそ、自分の考えに共感してもらえないことが寂しく、自分の考えの正しさを主張して相手の考えをこちらに合わせるように会話を展開してしまった。

多くを求めすぎることは、相手との関係性を冷やす

自分と共通点の多い人や、他の人よりも人一倍対話を積み重ねてきた人は、そうでない人と比べて、話していて自分の考えに共感し自分を受容してもらえたような安心感を与えてくれる。

そうして「あれも共感できる」「これも共感できる」と共感ポイントが増えていくと、相手に求めるものは次第にエスカレートし、相手が共感してくれないことがあると「どうしてわかってくれないの?」と悲しくなったり、相手が自分の期待通りに動いてくれないと「どうして気持ちを察してくれないの!?」と腹を立ててしまったりする。
(結婚相手や恋人なんかは特に、こういうことが起こりやすい気がする)

どんなに分かり合えそうな気がしても、最後まで別々の人間である以上、共感しあえないことがあるのは仕方がない。
その事実を受け入れずに相手に求めすぎることは、相手を尊重していないことそのもの。
相手を尊重しなければ、自分だけが一方的に尊重され続けることは難しい。

こうして、自分起点で相手との関係性を冷やす例は身近に沢山ある。
度合いの差はあれ、きっと多くの人が経験したことがあるんじゃないだろうか。

 

対処法①:心理的距離が近い相手こそ、自分との違いを意識する

先に挙げた過去記事のステップ2、「人と自分の"多様性"や"違い"を知り、受け入れようとする段階」は、こうした心理的距離の近い相手にこそ意識的にやらなければいけないと(自戒を込めて)思う。

僕自身、先の経験を踏まえて身近な人ほど

  • まず、自分が相手に共感を求めすぎて腹を立てているときを自覚する
  • 何かの議論になったら、「両者が合意できる一つの結論にたどり着くこと」や「相手に自分と同じ考えを持ってもらうこと」をゴールにしてしまっていないかを自問する
  • 相手の考えを、自分の考えとの共通点・相違点を意識しながら理解しようとする

の3点を意識して関わっていきたい。

実際に、先に挙げた友人とのやり取りでも途中から「あなたはそう思うんだね。僕とあなたはココが違うね。」とお互いの違いを明確にして、認めようと心がけたことで議論は穏やかに収束した。(と僕は思っている、、)

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対処法②:一番の原因は、自分の心の中にあると知る

と、ここまで「自分視点で、心理的に距離の近い相手とどう関わるか」を中心に話をしてきたんだけど、

実のところ、身近な人に多くを求めてしまう一番の原因は、自分自身の心の満たされなさにあるんだと思う。

自分の考えを自分自身が認め、受け入れられているか?
もしそうであれば、他人の共感や承認などなくても、心の平穏は乱されないんじゃないか。

自分の考えにどこか自信がなかったり不安があったりして、そうした気持ちを他者に埋めてもらおうとする弱さを、少なくとも僕は僕自身の中に感じた。

その一つの証拠に、先の友人は「自分の考えに共感してもらいたい」という気持ちを他者に対してあまり抱かないのだそう。笑
彼には安定した自己肯定感の高さを感じるし、その言葉を聞いていて僕も「本当にそうなんだろうなあ」と感じたので、きっと真実なんだと思う。

だとすると、自分自身の弱さとの向き合い方次第で、彼のように他者の共感を得られなかったとしても心が安定している状態は作れるんじゃないか?

僕自身の心の満たされなさに気がつくと同時に、満たされた後に待っている平穏な心の世界も垣間見ることができて、友人には改めて感謝…。

あまりまとまっていないけど、今日はこのへんでおしまいです。

「自然」と「人間」の関係

人・モノ・金がますます都市部に集中していく現代。
そんな時代に生きながら、たまにふと「自然と人間の関係」に思いを巡らせることがある。

このテーマではいつも、心の奥底の、言葉にならないような深いところで感じている感覚がありながら、言葉にしたことはほとんどない。
通勤電車の中、都内に近づくに従って減ってゆく自然を見ながら感じている感覚の言語化を、今日は試みてみたいと思う。

※なお、この記事でいう「自然」は、人間の手が加えられなくても自生する木々や植物などを指します。

 

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本来、人間は「自然」の一部 

今の都市部の風景を見てみると、自然に存在しているものは限りなく少なく、ほとんどが人間の手によって作られた人工物。

ビルも、道路も、住宅も。
道端の木々でさえも、後から人間が植えたものになっている。

都市からどんどん離れていくと、この風景は対象的なものになる。
人の姿はまばらで、高い建物はなく、ひたすら田んぼや畑が広がっている。
夜は街灯の明かりも少なく、星空や月明かりの明るさしかない世界。

その2つの光景を対比すると、
人間の中に自然があるのか?自然の中に人間が暮らしているのか?一体そのどっちなんだろう?
という素朴な疑問が湧いてくる。

きっとその答えは後者で、本来、人間は自然の中の一部であるべき存在なんだろうと思う。

太陽の光や水、農作物を始め、自然の恵みがなければ人間は生きていけないし、それは人間がどんな経済システムの下で生きようと変わらない構造だと思う。
人間が自然の上位に立ち、自然をコントロールする立場なのではなく、「自然」という大きな枠組みの中に「人間」という一つの生物が存在している。
「自然」がなければ「人間」は存在できないということが、当たり前なようで僕たちが忘れている、大切な本質なんじゃないだろうか。

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都市部の人工的自然を見て感じることを言葉にしてみる

自然を必要とする人間の心理を紐解く

首都圏、特に東京23区の住宅地を見ると、所狭しと住宅が立ち並んでいて、自然は申し訳程度に植えられている。

街路樹や各住宅のベランダに置かれている植木など、人工的に植えられた自然は、僕の目からすると、都市一極集中の流れへの人間の心の抗いのようであり、なにか切り崩した自然への贖罪のようにも感じる。

少なくとも都市部では、(経済合理性の要請があるとはいえ)必要以上に自然を切り崩しすぎて人々の心は渇ききっていて、そこに暮らす人々はもう一度その心を潤すために自然を求めているような気がする。

人工的に植えた自然から直接農作物などの恵みは受けなくとも、自然を求め、必要とする気持ちは、人間にとって極めて自然な反応のように思う。
僕たちは資本主義経済の檻の中で貨幣がなければ生活していけない存在である前に、人間という一つの生物なんだろう。

自然の目線から人間社会を見てみる

 

反対に、都市部に人工的に植えられていく木々の立場から見てみると、彼らはどんな目的で、どこに植えられようと、置かれた場所で懸命に生を全うしようとする。

文句を言うこともふてくされることもなく置かれた場所で咲くそのあり方は、僕にはなんだかとても健気に思えて、「どうして人間はこんなに文句ばかり言って生きているんだろう」と、少し恥ずかしいような気持ちになる。

 

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確かに木々や草花は、人間と違って心や感情を持たないのかもしれない。
それでも本能的に生きようとしている点は人間と変わらないし、仮にその本能が満たされなくても、ただ枯れて生涯を全うする。

人間には良くも悪くも心があり、感情がある。
だからこそ、自己保全のために「恐怖心」や「欲」が生まれ、そうした感情が複数の人間関係の中で複雑に絡み合って、恨んだり恨まれたり、腹を立てたりする。

「生きている」という意味では木々や草花と人間は同じ存在でありながら、「自分以外の存在に何かを求めているか・いないか」という点でこの両者はあまりにも違う。
この2つを同列に語るのがあまりに粗いことは確かだけど、少なくとも僕は、人間でいながらも自然の「あり方」に学び、それに自分の生き方やあり方を近づけていきたいと思う。


一人の人間として、自然との共生関係をどう築いていくか

資本主義経済の中で、今は人間の不安や欲に自然が飲み込まれていっている構図は、都市部に近づくほど顕著だ。

でも、本来のあり方は「自然の一部として人間が存在する」という構図であって、このパラダイムが崩れるほど自然が損なわれたとき、人間が自分の生を保つことができなくなるような反動が、自然の側からもたらされるような気がする。
温暖化は最たる例だろうけど、それ以外にも、確実に見えないところである種の"反動の蓄積"が進んでいるような気がしてならない。

 

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そんな中、一人の人間として自然との共生関係をどう築いていくか。

「人類」を主語にして、資本主義に抗い、自然を増やしたり保全しようとしたりするのも一つ。
「会社組織」を主語にして、CSR活動等で資本主義の流れに自然を飲み込もうとする動きを抑制しようとするあり方も一つ。
「自分という人間」を主語にして、自らの生活のバランスを取るために生活の中に自然を取り入れていくのも一つ。

色々な自然との向き合い方がある中で、自分自身はどんな向き合い方を選びたいだろう。

「人類」を主語にするのが立派だとか、そうあるべきだとか言うつもりは全くない。

それでも、あくまで人間は自然という大きな恵みの一部で生かしてもらっている存在であることを自覚し、自然への感謝と敬意を持って生きていくことが、人間としての最低限の勤めであるような気がする。

 

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