ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。二度の休職を経験した筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

「ブログの毎日更新」よりも大切なこと

このブログを始めた当時、Googleで「ブログ 入門」と検索してみたときのこと。

ネット上には、
「ブログは毎日更新したほうがアクセス数が稼げる」
「それと同時に良質な記事を書き続けることがブログファンを増やすコツ」
という情報があふれていた。

僕もやっぱり一人でも多くの人に読んでもらえた方が純粋にうれしいので、「毎日更新と良質な記事の両立を実際に試みてみよう」と思って、つい先日まで3週間程ブログを毎日更新してみた。

今日は、その経験から気づいたことの記録。

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(新緑の木の幹から樹液が…!)
 

ブログを毎日更新してみて気づいたこと

毎日更新してみて気づいたこと。

それは「毎日書こうとするとどうしても記事の質が落ちる」ということ。

「質が落ちる」というのはコンテンツもそうだけど、何より「自分の表現したいことを精緻に言葉にすることが、時間の制約上できないこと」。

僕のようなビギナーにとっては特に、週5で働きながらブログを毎日更新するのはかなり難しい。

仮に文章を書くこと自体に不慣れな分を差し引いたとしても、仕事が終わって家に帰って、家事をして風呂に入って、寝る前に毎日記事を書くのは体力的にも時間的にもキツイ。(経験のある方はわかると思う)

そう思って、休日に平日5日分の記事を書き溜めてそれを毎日アップしたりもしてみたけど、休日2日で計7日分の記事を書こうとすると、かなりの時間とエネルギーを使う。
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(空の青と木々の緑はいつまでも眺めていられる)
 

すべては、「ブログを書く目的」次第

ーあれ?なんのためにブログを書いていたんだっけ?

ここまでやってみて、こんな疑問にぶつかった。笑

収益を得るため?
有名になるため?
自分の考えを表現するため?

人によって色々な目的があるだろうけど、僕の目的は「自分を表現すること」と、「自分の気づきをシェアすること」の2つだと思いだした。

yudaism.hatenablog.com

 

yudaism.hatenablog.com


その目的と、毎日のブログ更新に追いかけられて疲弊する現状が全くつながらないことに、毎日更新をしてみて初めて気がついた。

もちろん、アクセスアップからのまとまった収益を狙う人や、個人事業主として自分のブランディングを図りたい人にとっては毎日更新も有意義かもしれない。

でも、僕のような「読んでくれる人が沢山増えたらいいな、そこで読んでくれる人とのコミュニケーションが生まれたら嬉しいな」くらいの目標をもっている人であれば、必ずしも毎日更新にこだわる必要はないんだと思う。
(なんだか当たり前のことを言ってる気がしてきた。笑)

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僕が大切にしたいのは、「自分の想いを言葉で精緻に表現すること」 

毎日更新していたときは、限られた時間の中で自分の考えを精緻に言葉にしきれないことがとても辛かった。

思っていること、心や体で感じていることが100あるとしたら、文字として表現できているのが50〜60くらいしかない感じ。
でも、表現したい重要な要素は残りの40〜50にも含まれているような気がして、それを時間内で表現することが難しいから消化不良のまま公開ボタンをポチッとする。

納得のいかない記事を投稿したときの感覚は、画家などのアーティストが「自分の意に沿わない作品は、仮に高額で買い取られるとしても世に出したくない」と思うような感じに似ていると思う。

自分の中でも腹落ちしきっていないことを、世に差し出していいんだろうか?
という疑問が頭から離れない。

何を大切にブログ記事を執筆したいかは人それぞれだけど、僕は
「自分の想いを言葉で正確に表現すること」
を大切にしたい。
言葉に対して、自分の想いを表現することに対して、誠実でありたい。そしてこの価値観は、先に書いた目的と密接につながっている。

こうした自己表現の結果として、
「自分の考えが、正確に読んでくれている人に伝わる状態」
「その結果、"あの記事を読んでこう思ったよ"などの、コミュニケーションが生まれる状態」
が実現できたら、もう最高だなあ…と思う。

 

まとめ

ブログの更新に疲れてきている人。
ブログのネタ切れに困っている人。
そんな人には、きっとブログの運営以外に大切なことがあるんじゃないかと思う。

自分の幸せは、特定の何かだけでなく色々なもので作られる。

ブログの運営は、一人ひとりが「今より良くなる」ための手段の一つでしかないので、他にも沢山の手段があることは忘れないようにしたい。

ということで僕も、自分の余裕のあるときや書きたい衝動に駆られたときに、ゆるゆると書くことを続けていきたいと思います。

いつも読んでくださっている方、今日初めて読んでくださった方、
最後までお付き合いいただきありがとうございます。

人と「適切な距離感」で付き合う②

以前の記事で、人と「適切な距離感」で付き合うための方法を次の2つの側面から考えた。

  • 視点①:人から距離を詰められすぎないための方法
  • 視点②:人に踏み込み過ぎないための方法

 

yudaism.hatenablog.com


特に視点①、人から距離を詰められすぎないための方法については、書いていた当時から「何か足りないなあ」という感覚があった。

その足りない何か(人と適切な距離感で付き合うための方法)の一つを、つい最近発見したので、今日はそれを共有してみます。

 

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人から距離を詰められすぎないための方法:その③

結論から言うと、その方法は「距離を詰めてきてほしくない相手については、その人の話に過度に耳を傾けすぎない」というもの。

こちらが「あまり近づきたくないな…」と思う相手には、往々にして自分自身のことはあまり開示しないと思う。
それでも、こちらが相手の話を深く聞くだけで「距離感」は自然と近づいていってしまうもの。
ココが「適切な距離感」づくりで注意しなければいけないポイント。

相手の目線で見れば、自分の話を深く聞いて受け入れてくれた相手のことを、「この人は私のことをわかって受け入れてくれた」と感じてしまうことは、自然なことだと思う。

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気づきのきっかけとなった、僕の実体験

今回の気づきにつながった僕の実体験がある。

とある友人Yさん。
これまでのやりとりから、僕は「Yさんは他人に興味がなく、他人の痛みに共感する感性も弱いので、こちらの理解と受容を求めても無駄。求めてもこちらが傷つくだけだから、自分の話は極力せずに、彼女の話だけ聞いていればいいや。」と割り切って彼女と付き合っていた。

非常に承認欲求が強く、「聞いて聞いて」攻撃や「認めて認めて」攻撃が強いYさんに、僕は「一方的に話を聞き続ける」という関わり方をした。仕事の悩みから恋人との悩みや生い立ち、将来の目標や夢など大抵のことは聞いたと思う。

その結果起こったこと。

共感力の弱いYさんは、僕に対して失礼極まりない暴言を繰り返し吐くようになった。
Yさんからするときっと、僕はとても心理的距離の近い相手だったと思うし、僕がYさんを理解したようにYさんも僕を理解したかのような錯覚に陥ったのだと思う。

僕は、「Yさんとは少し距離を置こう」と思ったが、今思えば彼女にそこまで距離を詰められてしまったのは僕自身の関わりにも問題があったんだと、最近になって気がついた。

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心理的な「距離感」は何によって決まるのか?

1対1の関係において、心理的な「距離感」は何によって決まるんだろうか?

僕は、「距離感」はお互いが「自分のことを相手が理解し、受け入れてくれた」と感じた度合いに比例して決まるものだと思う。

たとえば、Aさんの話をBさんが深く聞き、Aさんに受容と共感を示せば、AさんにとってBさんは「自分のことをよく理解して、受け入れてくれた」非常に心理的距離の近い相手になる。

そうなれば、その「近い距離感」のままAさんはBさんの心に立ち入ろうとするだろう。
BさんがAさんにしたのと同じように、深くBさんのことを知りたがるに違いない。

この構造の中で注目すべき点は3つ。(一つ目が特に重要)

  • 実は心理的な「距離感」にも2種類ある。自分→相手への距離感と、相手→自分への距離感。
  • 相手→自分への距離感は、こちらの関わり方で決まる。受け入れすぎると、過度に距離が近くなる。
  • そもそもお互いが相手に望む距離感が異なることもある。

一点目の2種類の「距離感」は、ある種一方通行的に決まるもの。

「相手がどんな距離感を望んているか」よりも前に、「自分が相手とどんな距離感で付き合いたいか」が先に立つのが誰でも当たり前で悪いことではないけど、その分こちらが望まない距離に近寄ってくる相手がいることも心に留めておきたい。

後々自分自身が不快な思いをしないためにも、自己開示をする相手、相手の話を深く聞き入れる相手は慎重に見極めると良いのかなと(自戒を込めて)思う。

とはいえ一方で、誰に対しても自分をフルオープンにできる人や、誰の話にも深く耳を傾けて受容することができる人も魅力的なんだけども。。。

「距離感」をめぐって不快な思いをする可能性があることだけ頭に留めて、あとは「自分がどうありたいか」という"あり方"次第で決めればいいのかなと思う。 

お金をかけずに心を満たすには?

リクルートに勤めていたときのおはなし。

当時僕は東京の中央区に住んでいたのだけど、とにかく何をするにもお金がかかった。
でもお金はかかるわりに心は荒んでいたし、いつも満たされなさを抱えていたように思う。

今日は、当時と今のお金の使い方の比較から、「お金をかけずに心を満たす方法」について考えてみた。

 

 

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(↑休日の銀座。とにかく人と情報とお金の動きが多かった。)

 

都内の一人暮らしで体験したこと

リクルートで働いていた当時は終電で帰れないほど忙しく、1時間の通勤の時間と体力消費を減らすために都内での一人暮らしを始めた。

住んでいたのは銀座。
間取りは1K、21平米で家賃はジャスト10万円。
当時は、生活を切り詰めてでもすぐ帰れる場所に住みたい一心だった。

生活してみてわかったのは、外出するたびにとにかくお金がかかること。

家を出て気分転換したいと思えばカフェに行く。
銀座を出たいと思えば電車に乗る。
ご飯を作るのが面倒だと思えば外食する。

特に食事は、安く食事を済ませられるチェーン店などが多いこともあって、手間と時間をかけて料理をするモチベーションが湧かず、いつも外食で済ませていた。

当時の家計簿を見返してみると、一日の生活の様子がありありとわかるほど、あらゆる場面でお金を使っていた。

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(銀座のマンションから見た風景。緑がゼロ。笑)

 

都内から脱出して気づいたこと

銀座で一人暮らしをすること2年半。
都内の生活に疲れ、転職して収入が減ったこともあって、神奈川県に引っ越してみた結果。

今度は、お金を使う場所がない。笑

家の近所に外食の選択肢は2つしかない。
お茶ができるようなカフェもない。
あるのは、スーパーが一つと地元のパン屋、公園と駅周辺のベンチくらい。

それでも、幸福度というか、精神的な満たされ度合いはリアルに引っ越し前の5倍くらいになった。

この経験で気づいたのは、お金の消費と幸福度が必ずしもイコールにならないこと。

僕たちは幸福になろうとしてお金を使うけど、必ずしも深く満たされるわけではない。
ストレス解消に洋服を買ってみたり、自分へのご褒美に高級な外食をしてみたりしても、満たされるのはほんの一瞬だ。
時間が経つとすぐ、元の「何か満たされない感じ」に逆戻りしてしまう。

満たされない理由は、「自分の心の満たされなさの正体」、そして「何によって自分の心は満たされるのか」を把握できていないことにあるんじゃないかと思う。

多くの人はお金があれば大抵の問題が解決するように感じ、「お金さえあれば…」と思うけど、お金があってもこれを把握しないことには本当に満たされることはない。

事実、お金持ちでも満たされなさに苦しんでいたり、お金を失う恐怖に怯えていたり、決して精神的に健康でなかったりすることを、僕は銀座に住むお金持ちを見て知った。

その点僕は、幸いなことに「自分の心が求めているもの」に気がつき、それを指針に引っ越し先や今の生活スタイルを決めることができた。

求めていた自然豊かな住環境が手に入り、カフェの代わりに公園が近くにあり、朝はまぶしい日差しと野鳥のさえずりで目が覚めて、夜は満点の星がよく見えるだけで、自分自身は結構満たされることに気がついた。
幸福度5倍、は「自分の心が求めているもの」に気が付けた賜物なんだと思う。

※都内の生活を否定しているわけでは決してなく、「僕個人にはそれが合っていなかった」ということに気づいたというお話。 

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お金をかけずに心を満たす方法

どのように過ごせば心は満たされるのか?

その方法は、きっと一人一人違う。
答えは自分自身の中にしかなくて、誰かが教えてくれることはたぶんない。

それでも、まずは自分自身にこんな問いを投げかけてみたらどうだろう?

お金を使わずに楽しめる方法は何か?
お金を使わずに今日という一日を最高に楽しむ方法はなんだろう?

買い物をするのも、テーマパークに行くのも、カフェに行くのもNGだとしたら?
友達に会うことはできても、お金を使えないとしたら?

もしかしたら友達とおしゃれなカフェに行くプランは、友達とおにぎりを持って公園に行き、レジャーシートを広げて青空の下でおしゃべりすることでもっと豊かな時間にできるかもしれない。
ボウリングに行く代わりに、公園でキャッチボールやフリスビーはどうだろう。
外食する代わりに、作ったことのない料理に家でゆっくりチャレンジするのもいい。

こうした問いを置くだけで、きっと「お金を使わずに心を満たす」無数のアイデアが出てくるんじゃないかと思う。

出てきたアイデアの良し悪しは後で判断するとして、まずは10個アイデアを出してみる。
そのときのポイントは、「なんとなく考える」のではなく「真剣に考える」こと。
そうすると、意外なほど、お金を使わなくても楽しめる沢山の方法があることに気づけるんじゃないかと思う。

 

まとめ

どのように過ごせば心は満たされるのか?

その答えは、残念ながら自分の心や感性が研ぎ澄まされているときしか見つからない。

自分の状態が悪いときは、自分が真に求めているものは雲がかかったように見えにくくなり、あまり満たされないものに時間やお金をかけてしまうかもしれない。

それでも腐ることなく良い状態が来るのを待って、その答えを探し続けることが大切なんじゃないかと思う。

僕自身も悪いこと続きで泣きたくなることもあるし、考えても悪い方向にしか進まないこともあるけど、どんなときでも「最終的にはすべて良くなる」と希望をもって、自分自身と対話を続けていきたいと思う。 

小田急線の駅員さんから学んだ、「人と人のコミュニケーション」

昨日0時過ぎの終電で最寄駅に着いたときのこと。

ややこしい乗り継ぎをして窓口でSuicaの処理をしてもらうとき、笑顔で対応してくれた駅員さん(30代前半くらいの若い男性)にふとこんな疑問を持って、その場でぶつけてみた。

「この時間まで勤務したときはどうやって家に帰るんですか?」

すると、駅員さんからこんな答えが返ってきた。

「終電まで駅にいるときは、そのまま泊まりなんですよ。
ちゃんと奥にベッドがあって泊まれるようになっているので、朝までそこで仮眠します。
泊まりの日は基本的に24時間勤務なんです。
ここに表札を置いてもいいくらいですね(笑)」

小田急線だけなのかはわからないけど、終電まで勤務した駅員さんが泊まりだとは知らず、思わず僕はこう言った。

「泊まりなんですか…!大変ですね。いつもありがとうございます。
すみませんでした、変なこと聞いちゃって。」


すると駅員さん。
「そんなことないですよ(照れくさそうにニコニコ)
おやすみなさい」

最後の「おやすみなさい」で、じんわり心が温まって昨日は家路につくことができた。
言葉で表現するのは難しいけど、とにかく優しさのあふれる駅員さんだった。
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小田急線の駅員さんとのやり取りから感じたこと

このやり取りで、僕は2つのことを感じた。


①僕たちは日々、誰かの仕事によって支えられている

 一つは、僕たちが普段何気なく利用しているサービスは、すべて人の仕事によって支えられていること。

朝食に食べるパンには作り手がいて、通勤電車は電鉄会社の人々によって支えられ、昼食を提供してくれる飲食店があって、家路につく途中に立ち寄るスーパーやコンビニには店員さんだけでなく、仕入れ担当者や製造者が関わっている。

僕たちはそうした関係者と直接顔を合わせたり会話したりする機会がないだけで、そのサービスが当たり前に提供されるものだと思ってしまうけど、

「0時を過ぎても電車で家に帰ること」を可能にしてくれているのは、人だった。
その人自身が家に帰れない代わりに、僕が家に帰ることができているのだと思うと、自然と感謝の気持ちが湧いてきた。


②仕事を「無味乾燥なもの」から「血の通ったもの」にすることの大切さ

もう一つは、仕事を「無味乾燥なもの」から「血の通ったもの」にすることの大切さ。

昨日は普段会話することのない「駅員さん」という存在が、乗車サービス以外の会話をすることで何かこう、生き生きとした「ヒト」に感じられた経験だった。

コンビニやスーパーの店員さん然り、
僕たちは日頃何かのサービスを受けたり提供したりするとき、「そのサービスの提供者と受益者」という関係性を超えてコミュニケーションをとることは少ない。

それは当たり前なのかもしれないけど、無味乾燥なやり取り(コンビニ店員さんで言えば、レジを通して合計金額を伝え、お金を受け取ってお釣りと商品を渡すだけのやり取り)だけで無難に事が終わってしまったとき、僕はちょっとした寂しさを覚える。

人が目の前に「いる」はずなのに、何かロボットとやり取りしたかのような無機質さ。無味乾燥さ。少なくともそのやり取りで心が温まることはない。

それが、昨日みたいに自分から駅員さんに話しかけるだけで「サービスの提供者と受益者」の関係から「人と人」の関係に変わり、「人と人」としてお互いの思ったこと・感じたことを率直に伝え合ったことで、そこに本当のコミュニケーションが成立した気がした。

でも、僕が駅員さん話しかけることができたのは、彼がとてもにこやかに対応してくれたからだ。「Suicaの処理」という無味乾燥になりがちな仕事を、彼は気持ちのいい笑顔と誠実さで快く引き受けてくれた。

だからこそ、僕もその場で気になった疑問を投げかけてみよう、きっと話しかければ気持ちよく会話に応じてくれるだろう、と思ったのだと思う。


まとめ

どんな仕事に就いてでも、作業的な業務になるとどうしてもやり取りが無味乾燥で、無機質なものになりがち。

コンビニのレジ対応、飲食店での注文取りや配膳など、BtoCのビジネスだけでなく、
オフィスワーカーの社内でのやり取り、法人顧客とのやり取りでも、
無味乾燥なやり取りに偏ってしまう場面は多い。

僕の感覚でしかないけど、大企業で働いている人は特に心で感じたことを表現しない人が多いし、そもそも「心が感じていること」を自覚しているのかどうかも怪しいような気がする。

でも、きっとコミュニケーションはお互いが率直に感じたことを言葉にし合って、お互いの世界を交換することで初めて成立するんだと思う。
そういった対話には、有機的で人間らしい温度がある。
そしてその温度によって初めて、人の心の深いところが満たされうるような気がする。

僕は一駅員さんの対応を見て、自分自身も「機械的な仕事ロボット」になっていると客観視できたときは「人間」に戻れるよう意識したいと思った。

「人間」に戻って、感じたことをきちんと感じて、なるべくそれを言葉にして相手に伝える。
時と場合によってそれができないとき、やらないほうがいいときがあるのも現実だけど、その我慢の度合が自分の限界を超えるようなら、その仕事を続けることはきっと難しいんだろうと思う。

ビジネスマン、企業人、仕事人である前にまずは人間をやること。
自分自身もよく忘れそうになるので、今日は改めてその大切さを書いてみました。

体を鍛えることで、人にもやさしくなれる

今日はライトめのお話。

以前の記事で、「体は心の住み家であり、心を健康に保つためにも体を鍛えると良い」ということを書いた。 

yudaism.hatenablog.com

今日は、それに付随した一つの気づきのお話。

 f:id:yudaism:20170510234414j:image(道端の畑に大量のさやえんどうが…↑)
 

人にやさしくするために必要なモノ 

「自分にも、人にもやさしくありたい」と日々思っていても、心理的距離の近い人には特に、ついつい厳しく当たってしまうときがある。

そんなとき、僕たちに不足しているモノの一つは「心の余裕」だと思う。
やっぱり、自分の気持ちに余裕がなければ、人にやさしくすることは難しい。

では、自分の気持ちの余裕はどうすれば生まれるのか?
そもそもなぜ、自分の気持ちに余裕がなくなるんだろうか?

そんな問いを立てたとき、僕の中に「自分の体の調子が良くないからだ」という一つの答えが浮かんだ。

もちろん他にも色々な答えがあると思うけど、一見無関係な「体の調子」が「心の調子」に影響を与え、人にやさしくできなくなっていることがあるんじゃないだろうか。

平たく言えば、病気でめちゃくちゃ体調が悪いときに人にやさしくするのは難しいよね、ということでしかないんだけども。

体調が悪いときに、人にやさしく接しろと言うのはなんとも酷な気がする。
(逆に言うと、誰かからきつく当たられたとき、その人はもしかしたら体調が悪いのかもしれない)

 

体を鍛えることは、自分のためにも人のためにもなる

ということは、体力と免疫力があり、体調が常に安定していれば、体の不調が原因で気持ちが落ち込んだりすることはないはず。
気持ちが体に悪影響を受けない分、受けていたときと比べると心理的安定を保てる可能性も高いと思う。

僕自身はわりと思考偏重タイプで、体を動かしたり鍛えることを軽視しているところがあるので偉そうなことは言えないけど…

体を鍛えることは、自分自身の心身の健康だけでなく、人にやさしくできる(結果、人と良好な関係を保つ)ことにもつながるんじゃないかと思う。

だとすると、体を鍛えることはまさに一石二鳥。

以前、別の記事で「意識を内と外にバランスよく向けることが大切」と書いたけど、心と体も、どちらかに偏ることなくバランスよく使っていくことが大切なんだろうな。

yudaism.hatenablog.com

 

体を鍛えることのもう一つのメリット

さらに、体を鍛えることのメリットをもう一つ。

月並みかもしれないけど、僕の担当カウンセラーによると「怒りの感情は、自責的な(自分自身に向く)ものにしても、他責的(他人や環境など、外に向く)ものにしても、運動などで体を動かすことである程度発散できる」ということ。

僕は、怒りなどのネガティブな感情を発散する方法として、「自分のネガティブな感情とトコトン向き合って、沢山考えて、物事の意味付けをしたり解釈を変えたりしながらネガティブな感情が湧いてこなくなるまで消化を試みる」というプログラムしか持っていなかったのだけど、「体を動かす」という一見関係のないアプローチで一定ストレスの発散になることを学んだ。

少し話が広がるけど、会社組織の上司が部下のタイプに応じてあらゆるマネジメント手法の引き出しを持つ(この部下は懇切丁寧に指導しながら褒めて伸ばそう、この部下はある程度放置して仕事を任せよう…等)と強いのと同じように、ストレス解消法も、自分のストレスの種類や度合いによってたくさんの引き出しをもっておくと強いと思う。

と書きつつ、「体を動かしてネガティブ感情を減らす」はまだ実践していない…。
なので、実践した結果はまた改めて、違う形でまとめて記事にしたいと思います。

 

身近な人にほど多くを求めてしまうという問題

以前の記事で、「人間の心の成長には3つのステップがある」ということを書いた。

yudaism.hatenablog.com


その1ステップ目、「人と自分に"同一性"や"同質性"を求める段階」について、最近「自分と心理的距離の近い身近な人ほど自分との違いを認め、受け入れるのが難しい(≒同質性を求めがち)」ということに改めて気がついた。

今日はこのテーマについて問題点を整理をしたうえで、身近な人に過度に同質性を求めないために

  • 身近な人に関わるうえで何に注意するか
  • 自分自身の心をどう変えるか

という2つの視点から対処法を考えてみたい。

 

 

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身近な人に同質性を求めることで起きる問題

最近あった出来事

「身近な人にほど同質性を求めがち」というのは、家族との関係を思い浮かべれば「確かにそうだよね〜」とすぐ理解できる話かもしれないけど、友人などでも同じことが起きることを最近体感する出来事があった。

親しい友人とお茶をしながらお互いの恋愛観・結婚観について話していたときのこと。

テーマは「恋人と結婚相手、それぞれにどこまで自分との共通点を求めるか」という話で、僕が相手に求める基準が彼よりも高くて、考え方がすり合わなかった。

その友人と僕は元々性格があまり似ていないこともあって、ある程度考え方の違いは予測していたものの、会話が進んで恋愛観・結婚観の違いが明確になってくるほどストレスを感じている自分がいた。
きっとそれは僕の態度に出ていて彼にもストレスを与えていたと思うし、その結果会話も散漫になってしまった気がする。

僕がストレスを感じていたポイントはきっと、「自分の考えや価値観に共感してもらえなかったこと」なんだと思う。

他の友人や、もう少し心理的距離の遠い相手であればそれをストレスに感じなかったんだろうし、こちらも「あなたはそう思うんだね。俺たちは違うね。」と相手の考えを認められたような気がする。

でも、10年以上の付き合いになる親しい友人だからこそ、自分の考えに共感してもらえないことが寂しく、自分の考えの正しさを主張して相手の考えをこちらに合わせるように会話を展開してしまった。

多くを求めすぎることは、相手との関係性を冷やす

自分と共通点の多い人や、他の人よりも人一倍対話を積み重ねてきた人は、そうでない人と比べて、話していて自分の考えに共感し自分を受容してもらえたような安心感を与えてくれる。

そうして「あれも共感できる」「これも共感できる」と共感ポイントが増えていくと、相手に求めるものは次第にエスカレートし、相手が共感してくれないことがあると「どうしてわかってくれないの?」と悲しくなったり、相手が自分の期待通りに動いてくれないと「どうして気持ちを察してくれないの!?」と腹を立ててしまったりする。
(結婚相手や恋人なんかは特に、こういうことが起こりやすい気がする)

どんなに分かり合えそうな気がしても、最後まで別々の人間である以上、共感しあえないことがあるのは仕方がない。
その事実を受け入れずに相手に求めすぎることは、相手を尊重していないことそのもの。
相手を尊重しなければ、自分だけが一方的に尊重され続けることは難しい。

こうして、自分起点で相手との関係性を冷やす例は身近に沢山ある。
度合いの差はあれ、きっと多くの人が経験したことがあるんじゃないだろうか。

 

対処法①:心理的距離が近い相手こそ、自分との違いを意識する

先に挙げた過去記事のステップ2、「人と自分の"多様性"や"違い"を知り、受け入れようとする段階」は、こうした心理的距離の近い相手にこそ意識的にやらなければいけないと(自戒を込めて)思う。

僕自身、先の経験を踏まえて身近な人ほど

  • まず、自分が相手に共感を求めすぎて腹を立てているときを自覚する
  • 何かの議論になったら、「両者が合意できる一つの結論にたどり着くこと」や「相手に自分と同じ考えを持ってもらうこと」をゴールにしてしまっていないかを自問する
  • 相手の考えを、自分の考えとの共通点・相違点を意識しながら理解しようとする

の3点を意識して関わっていきたい。

実際に、先に挙げた友人とのやり取りでも途中から「あなたはそう思うんだね。僕とあなたはココが違うね。」とお互いの違いを明確にして、認めようと心がけたことで議論は穏やかに収束した。(と僕は思っている、、)

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対処法②:一番の原因は、自分の心の中にあると知る

と、ここまで「自分視点で、心理的に距離の近い相手とどう関わるか」を中心に話をしてきたんだけど、

実のところ、身近な人に多くを求めてしまう一番の原因は、自分自身の心の満たされなさにあるんだと思う。

自分の考えを自分自身が認め、受け入れられているか?
もしそうであれば、他人の共感や承認などなくても、心の平穏は乱されないんじゃないか。

自分の考えにどこか自信がなかったり不安があったりして、そうした気持ちを他者に埋めてもらおうとする弱さを、少なくとも僕は僕自身の中に感じた。

その一つの証拠に、先の友人は「自分の考えに共感してもらいたい」という気持ちを他者に対してあまり抱かないのだそう。笑
彼には安定した自己肯定感の高さを感じるし、その言葉を聞いていて僕も「本当にそうなんだろうなあ」と感じたので、きっと真実なんだと思う。

だとすると、自分自身の弱さとの向き合い方次第で、彼のように他者の共感を得られなかったとしても心が安定している状態は作れるんじゃないか?

僕自身の心の満たされなさに気がつくと同時に、満たされた後に待っている平穏な心の世界も垣間見ることができて、友人には改めて感謝…。

あまりまとまっていないけど、今日はこのへんでおしまいです。

「自然」と「人間」の関係

人・モノ・金がますます都市部に集中していく現代。
そんな時代に生きながら、たまにふと「自然と人間の関係」に思いを巡らせることがある。

このテーマではいつも、心の奥底の、言葉にならないような深いところで感じている感覚がありながら、言葉にしたことはほとんどない。
通勤電車の中、都内に近づくに従って減ってゆく自然を見ながら感じている感覚の言語化を、今日は試みてみたいと思う。

※なお、この記事でいう「自然」は、人間の手が加えられなくても自生する木々や植物などを指します。

 

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本来、人間は「自然」の一部 

今の都市部の風景を見てみると、自然に存在しているものは限りなく少なく、ほとんどが人間の手によって作られた人工物。

ビルも、道路も、住宅も。
道端の木々でさえも、後から人間が植えたものになっている。

都市からどんどん離れていくと、この風景は対象的なものになる。
人の姿はまばらで、高い建物はなく、ひたすら田んぼや畑が広がっている。
夜は街灯の明かりも少なく、星空や月明かりの明るさしかない世界。

その2つの光景を対比すると、
人間の中に自然があるのか?自然の中に人間が暮らしているのか?一体そのどっちなんだろう?
という素朴な疑問が湧いてくる。

きっとその答えは後者で、本来、人間は自然の中の一部であるべき存在なんだろうと思う。

太陽の光や水、農作物を始め、自然の恵みがなければ人間は生きていけないし、それは人間がどんな経済システムの下で生きようと変わらない構造だと思う。
人間が自然の上位に立ち、自然をコントロールする立場なのではなく、「自然」という大きな枠組みの中に「人間」という一つの生物が存在している。
「自然」がなければ「人間」は存在できないということが、当たり前なようで僕たちが忘れている、大切な本質なんじゃないだろうか。

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都市部の人工的自然を見て感じることを言葉にしてみる

自然を必要とする人間の心理を紐解く

首都圏、特に東京23区の住宅地を見ると、所狭しと住宅が立ち並んでいて、自然は申し訳程度に植えられている。

街路樹や各住宅のベランダに置かれている植木など、人工的に植えられた自然は、僕の目からすると、都市一極集中の流れへの人間の心の抗いのようであり、なにか切り崩した自然への贖罪のようにも感じる。

少なくとも都市部では、(経済合理性の要請があるとはいえ)必要以上に自然を切り崩しすぎて人々の心は渇ききっていて、そこに暮らす人々はもう一度その心を潤すために自然を求めているような気がする。

人工的に植えた自然から直接農作物などの恵みは受けなくとも、自然を求め、必要とする気持ちは、人間にとって極めて自然な反応のように思う。
僕たちは資本主義経済の檻の中で貨幣がなければ生活していけない存在である前に、人間という一つの生物なんだろう。

自然の目線から人間社会を見てみる

 

反対に、都市部に人工的に植えられていく木々の立場から見てみると、彼らはどんな目的で、どこに植えられようと、置かれた場所で懸命に生を全うしようとする。

文句を言うこともふてくされることもなく置かれた場所で咲くそのあり方は、僕にはなんだかとても健気に思えて、「どうして人間はこんなに文句ばかり言って生きているんだろう」と、少し恥ずかしいような気持ちになる。

 

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確かに木々や草花は、人間と違って心や感情を持たないのかもしれない。
それでも本能的に生きようとしている点は人間と変わらないし、仮にその本能が満たされなくても、ただ枯れて生涯を全うする。

人間には良くも悪くも心があり、感情がある。
だからこそ、自己保全のために「恐怖心」や「欲」が生まれ、そうした感情が複数の人間関係の中で複雑に絡み合って、恨んだり恨まれたり、腹を立てたりする。

「生きている」という意味では木々や草花と人間は同じ存在でありながら、「自分以外の存在に何かを求めているか・いないか」という点でこの両者はあまりにも違う。
この2つを同列に語るのがあまりに粗いことは確かだけど、少なくとも僕は、人間でいながらも自然の「あり方」に学び、それに自分の生き方やあり方を近づけていきたいと思う。


一人の人間として、自然との共生関係をどう築いていくか

資本主義経済の中で、今は人間の不安や欲に自然が飲み込まれていっている構図は、都市部に近づくほど顕著だ。

でも、本来のあり方は「自然の一部として人間が存在する」という構図であって、このパラダイムが崩れるほど自然が損なわれたとき、人間が自分の生を保つことができなくなるような反動が、自然の側からもたらされるような気がする。
温暖化は最たる例だろうけど、それ以外にも、確実に見えないところである種の"反動の蓄積"が進んでいるような気がしてならない。

 

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そんな中、一人の人間として自然との共生関係をどう築いていくか。

「人類」を主語にして、資本主義に抗い、自然を増やしたり保全しようとしたりするのも一つ。
「会社組織」を主語にして、CSR活動等で資本主義の流れに自然を飲み込もうとする動きを抑制しようとするあり方も一つ。
「自分という人間」を主語にして、自らの生活のバランスを取るために生活の中に自然を取り入れていくのも一つ。

色々な自然との向き合い方がある中で、自分自身はどんな向き合い方を選びたいだろう。

「人類」を主語にするのが立派だとか、そうあるべきだとか言うつもりは全くない。

それでも、あくまで人間は自然という大きな恵みの一部で生かしてもらっている存在であることを自覚し、自然への感謝と敬意を持って生きていくことが、人間としての最低限の勤めであるような気がする。

 

性格の「弱み」は「強み」

性格に良し悪しはあるんだろうか?

「あの人は性格が良い」とか「あの人は性格が悪いから付き合わないほうがいい」とかいう言葉はよく耳にするけど、それは「良い性格」や「悪い性格」というのが存在するということなんだろうか。

今日はそんなふとした疑問から始まった考察の記録。

 

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性格に良し悪しはない

結論から言うと、冒頭の問いへの僕なりの答えは"NO"。
僕は、性格に絶対的な良し悪しはないと思う。

どんな性格も「よく働く場面」と「悪く働く場面」があって、そのどちらかを切り取って、性格が良いとか悪いとか言われるだけの話。

たとえば、「飽きっぽい」という性格の表現は一般的にマイナスの言葉で使われるけど、「一つのことにこだわらず、次々に新しいものにチャレンジできる」というプラスの側面にもなりうる。

同じように、他にもこんなに沢山マイナスからプラスに変換できる例がある。

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繊細で傷つきやすい → 人の気持ちがよくわかる
話下手 → 話すのが苦手な人の気持ちがわかる
慎重で行動が遅い → 事前に思考を巡らせ、丁寧に物事に取り組む
マイペース → 周囲に左右されずに自分のペースを保つことができる
気分屋 → 自分の気持ちに正直に行動できる
集団行動が苦手 → 単独行動が苦にならない
人に興味がない → 人の気持ちや言動に左右されすぎない
-------------------

日本人は特に、特定の事実を挙げて一つの性格にあたかも絶対的な良し悪しがあるかのように裁定を下し、悪い性格は改めさせようとする傾向がある気がする。

元々自己肯定感の高い人ならまだしも、ありのままの自分に自信が持てていない人にとって、ありのままの自分の性格について絶対的な良し悪しを判断されるのはとても辛い。

しかし、自己肯定感の人ほど他人の評価をまともに受け止めて落ち込みやすいという悩ましい構造があるような気がする。

そんなとき、上の例に示したように自分自身で性格がプラスに働く側面を発見したり、周囲にそういう発見をしてくれる人を持っておくと、性格を一面的に捉えて苦しくなることが少なく済む。

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性格に良し悪しの意味付けをする危うさ

元々生まれ持った自分の性格で、「嫌だ」「直したい」と思うことは誰しも一つくらいあるだろう。

でも、そう思うのはなぜ?

自分の内部から発するポジティブな動機ならいいけど、周囲から言われた言葉で問題意識をもったり、ありのままの自分ではダメだと感じて「嫌だ」「直したい」と感じてはいないだろうか?

後者のように、周囲が性格に良し悪しの意味付けをすることで、本人「ありのまま」の自分の性格にOKを出せない(≒受け入れることができない、認めることができない)ようになるケースは往々にしてあり、これが本人の人生に与える影響は計り知れないほど大きい。

特に親が子どもの性格に「良し悪し」の意味付けを与えると、子どもは「ありのまま」の自分の性格、ひいては「ありのままの自分」を受け入れることができなくなり、自己肯定感は十分に育たない。

子ども自身の中に「親から褒められ、受け入れられるOKな自分」と、「親から叱責され、直さなければいけないNGな自分」が生まれると、後者の自分を見せて叱られることが怖くて自分の内側に抑圧するようになりかねない。

自分の中に「NGな自分」がいるということは、「100%ありのままの自分」を受け入れることができていない、「100%ありのままの自分」に自信を持てていないということ。

子どもの自己肯定感を育みたいのなら、子どもがこのように感じないように細心の注意を払い、叱る場合でも叱る対象を「子どもの性格」ではなく「子どもの行動」に絞らなければいけない。
子ども自身にも、「性格ではなく行動について叱られているんだな」と伝わるような叱り方を心がけなければいけない。

仕事で部下を育てる場合も同じこと。
部下に自信を持って生き生きと働いてもらうためには、同じように叱り方に注意しなければいけないと思う。

 

まとめ

日本に生まれ日本で育った人は「周囲からどう見えるか」を非常に気にする。
それ自体は悪いことではなくても、度合いが強すぎると意識が外に外に向き、自分自身の中から育つはずの何かを失うような気がする。

その一つが「自信」や「自己肯定感」だと、僕は思う。

これまでの生い立ちの中で周囲からの見え方を過度に気にする癖がついている場合、それを手放すのは容易ではないかもしれない。

それでも、周囲からの「性格」へのマイナス評価を受けて落ち込みそうになったときには

  • 性格に絶対的な良し悪しはないこと
  • 今、目の前の相手は「特定の場面(仕事など)において」「相手の価値観のフィルターを通して」「一面的な」意味付けをしているにすぎないこと
  • 今、マイナスの評価を受けている自分の性格は、かならずプラスに働くときがあること

の3点は忘れないようにして、自分自身の心を守っていけるといいと思う。

 

「癒される」のはどんなとき?

最近「癒された~」と思ったのはいつだろうか?

心地良い音楽を聴いたとき。
かわいい動物と触れ合ったとき。
子どもと遊んだとき。

色々な場面で感じる「癒される感じ」は、自分たちが思っている以上に大切なものなのかも…と最近思う。

今日は、そんな「癒やし」で生活を豊かにするヒントについて考えてみた。

 

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「癒される」は「楽しい」よりも深い感覚

僕たちが「癒される」と思うとき、心の中にはどんな変化が起きているんだろう?

どうも、「楽しいとき」と「癒やされるとき」は性質が違うような気がする。

何か肩の力が抜けるような、心が温まるような、緩むような、心が何かで満たされるようなあの感じ。
「癒される」と感じるときは、何か自分にとって大切なものを思い出したような感覚になる。

「楽しい」と感じるのが、「脳が快感を感じているとき」だとすれば、
「癒される」は、「心のもっと深いところで、自分の存在が満たされているように感じるとき」のような気がする。

心の奥深いところで感じるものだけあって、僕たちという存在にとって「癒される」という感覚はとても大事なものなんだと思う。

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自分が「癒されるなあ…」と思ったときを思い出してみる

きっと、どんなときに癒されるかは人によって違うと思う。

僕は、散歩をして季節の変化を感じるときや、子ども(自分の子はいないけど)と遊んでいるとき、晴れた日の空を見上げているときに「癒されるなあ…」と思う。

でも、僕たちは自分がどんなときに癒やされるのかをよくわかっていないし、「癒されるとき」を自分の生活に意識に取り入れようとはあまりしない。

大切なのは、まず自分がどんなときに癒やされるのかを知ること、そしてそんな瞬間を自分の生活の中に少しでも多く取り入れていくことなんじゃないだろうか。

 

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僕の実体験を話すと、都内に3年弱一人暮らしをしていて(当時仕事も大変で)心の渇きが限界に達したとき、気がつくと頻繁に緑の多い公園に行くようになっていた。

その頻度が高くなるにつれて、僕は自分の心が明確に自然豊かな環境を求めていることに気がついて、都心から離れてはいるけど自然の多く残る環境に引っ越すことに決めた。

引っ越してから毎日のように家の近辺を散歩しているけど、散歩しながら自然の風景を眺めていると、都内でするどんな遊びや娯楽よりも深く心が満たされる感覚がある。
心になんとも言えない充足感が広がって、「なんかいい感じ」になれる。


「癒やされる時間」を生活に取り入れる上での一番のハードルは…?

美味しいご飯を食べているとき、
熱いお風呂に使っているとき、
仮に自分が癒やされるときを見つけられたとしても、意外と生活の中にその瞬間を増やそうとする人は多くないような気がする。

「癒される時間」よりも、皆仕事の時間であったり、人と会う約束であったり、何か他の時間を優先してしまう。

理由は「癒される時間」をそれほど大切に思っていないか、それ以外の時間の優先順位が必要以上に高くなっているかのどちらかだけど、感覚的に「他にもっと大切なことがある」という錯覚に陥っていることが多い

その焦りにも似た錯覚は、大抵の場合何かの不安感情に根ざしていることが多いんじゃないか。

「仕事をしないと、必要とされなくなってしまうんじゃないか」
「前から約束していた予定だから、キャンセルしたら相手に嫌われるんじゃないか」
そんな不安を解消するために、いわばマイナスに触れている心の状態をプラスマイナスゼロにするために、僕たちは日々色々なことに追われているような気がする。

でも実際、恐れていることは9割方実現しないんだよね。
だったら、心をプラスの状態にする「癒される時間」の優先順位を上げてみたらどうだろう?と思うわけです。

僕もまだまだ試行錯誤を繰り返している最中だけど、仕事も仕事以外の時間も、起きている時間のうちなるべく多くを心満たされる時間にしていけたらいいなあ。

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情報をシャットアウトしてみよう

こちらは最近行った埼玉県秩父市のカフェ、「空&閑」。
このカフェで素敵なお話を聞いたので、今日はその共有をしたい。

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カフェ「空&閑」との出会い

日帰り旅行で秩父を訪ねた際、友人との待ち合わせまでに時間があったのでカフェを探していたときのこと。

その日は仕事でひどく疲れていて、心も体もヘロヘロ。
ネットで適当なカフェを探して秩父駅から歩いてみる。
そして、見事に迷って「ここどこだ…」と立ち止まっていたとき、たまたま僕のすぐ横に「空&閑」はあった。

時間が早かったこともあってか、二階に案内されるとお客さんは自分だけ。

店内はとにかく静かで、カフェにしては珍しくBGMが一切かかっていない。

消化器・循環器にやさしいという中国茶をいただきながら、スタッフさんがお湯を沸かす音だけが聞こえてくる静かな空間を楽しむ。
本を読もうと思っていたけど、なぜかそんな気が起こらず、持ってきた本を机に伏せてひたすらボーッと過ごした。

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現代人は情報過多のストレスにさらされ続けている

 「素敵な空間ですね」とスタッフさんに声をかけてみた。
すると40代くらい?清楚なスタッフのお姉さんがこんな話を聞かせてくれた。

「うちのカフェは、オーナーが"お客さんにとにかくくつろいでもらいたい"という想いで作ったんです。
色々な方にくつろいでいただけるように、置いてある家具はあえてテイストを統一せず、幅広く多様なものを揃えています。そうして、お客さんには自分の好きなデザインの席でくつろいでもらいたいからです。

BGMをかけていないのは、オーナーの"現代人は情報にさらされ過ぎて疲れている。音楽や音も一つの情報だから、耳に入ると処理しようとしてエネルギーを使う。だから、なるべくくつろいで休んでもらうために、BGMは一切かけない空間にしたい。"という考えからです。

ぜひ、家のようにゆっくりくつろいでいってください。」 

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この言葉を聞いて、オーナーさんやスタッフさんの心遣いという栄養が、疲れ切っていた僕の心に染みていくような気がした。

と同時に、「確かに、自分も含めて現代人は情報にさらされ過ぎているし、自分自身でも自覚できないほどそれによって疲弊しているのかもしれない」という気づきがあった。

僕たちは生活の中でスマートフォンなどを通じてインターネット情報、メールやLINEなどのコミュニケーション情報にひっきりなしに触れている。
電車に乗れば中吊り広告があり、テレビをつければCMや番組から一方的に情報が流されていて、それとは別に日常の人との関わりでも情報に触れ続けている。

僕たちの脳は、情報をキャッチした時点で「自分の身に危険が及ばないかな?」とか、「自分はどう行動するべきか?」とか、無意識に情報処理を始める。

無意識にやっている情報処理でもエネルギーは使うし、疲労は着実に溜まっていく。

情報の種類によっては反射的に何かの感情が発生することもあるだろうけど、その感情を自覚する間もなく、次の情報がまた流れてくるような時代。

そんな中、僕たちはただ気づいていないだけで、きっと自分が思っている以上に疲れているんだと思う。

 

情報を断つことで、心と体は休まる

現代は無意識に生活しているとかなりの情報を受け取ってしまうので、意識的に「入ってくる情報量」を減らしてみたらどうだろう。
断捨離でいう、「断」をやってみたらどうなるだろう。

「空&閑」に行ってからそんな疑問を持って、意識的にこんな行動をとってみた。

  • 家にいるとき、BGMをかけるのをやめる
  • 散歩をするときはスマホをオフラインにする
  • なんとなくテレビをつけるのをやめる
  • なんとなく本を読むのをやめる
  • なんとなくネットニュースを見るのをやめる

試してみた結果。

以前より確実に疲れにくい。
余計なことに頭を使わなくなって、頭がスッキリしている気がする。
今までなんとなく受け取っていた情報の大半は、まったく必要がないことに気がついた。

音楽も含め、ついつい情報を受け取り「ながら」何か別のことをやってしまいがちになるけど、意識的に情報を遮断することで意識は目の前の一つのことに集中することができ、それによって心身は過度に疲れなくて済むんだと思う。

どんな風に情報を遮断するかは人それぞれ適した方法があると思うし、それを見つける作業もきっと楽しい。
もしそこに何かのヒントを投げかけられるとすれば、
情報収集をする前に
「なんでこの情報を得ようとしてるんだろう?」
「この情報って、本当に必要?ないと困る?」
と自分に問いかけてみてはどうだろう。

それか、騙されたと思って
・一日音楽を聞かない日
・一日ネットニュースを見ない日
なんかを作ってみてほしい。

 

まとめ

僕たちの活動エネルギーには一人ひとり限りがあって、その限られたエネルギーを使って僕たちは必要な情報を得、活動して一日一日を生きている。

情報の多い世の中だからこそ、限られたエネルギーを「自分にとって価値の高いもの」に投入して、価値の低いもので自分を疲れさせないようにしたい。

体は心の住処であり、体が疲れると心も疲れる。
幸せは心で感じるもの。
心を疲れさせないためにも、自分を疲れさせるものからは意識的に離れたい。

ここ10年ほどで「携帯を持ち歩くのをやめよう」とか「インターネットから離れよう」なんて話もよく聞くようになったけど、その意味するところを今回こういったカタチで理解することができて、僕にはとても有意義だった。

あらためて、「空&閑」との出会いと、オーナーさん、スタッフさんに感謝!

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