一日を生きる
「明日の予定は……」
僕らが当たり前のように想像する「明日」は、
もしかしたら誰かが生きたくても生きられなかった一日かもしれない
今日、突然命が終わってしまう可能性だってあるのに、
自分に明日が訪れることを前提にして
僕らは日々の選択に優先順位をつけてる
自分の人生にとってとても大切なものを、
「今度でいいや」って
後回しにしているかもしれない
死を身近に感じることってとても大事
忘れがちだけど、僕らは毎日死に向かって生きている
人生の有限性を意識して過ごすだけでも
ありふれた日常は、ずっと濃い時間になる
目の前のことに一生懸命になることも大事だけど
時折立ち止まって、問いかけてみたい
今、自分は本当に大切なものを大切にできているんだろうかって
見守ること
大切な人の進もうとしている道が、
少し違うと感じたとき
つい口を出したくなる
「そっちに行くと危ないよ」
「こう考えてみたらどうだろう」
相手が辛い思いをしなくて済むように言葉をかける
相手のためを思ってのことでもあるし、
大切な人が辛い思いをするのを見たくない、自分のためでもある
でも、見守るだけで十分なのかもしれない
方向を変えさせる言葉は必要ないのかもしれない
たしかに、見ているだけで、何もしなければ、
大切な人がつらい思いをすることもある
それを見てあなたもつらくなるだろう
それでも、その経験を通して本人がかけがえのない学びを得られたとしたら、
つらい思いも含めて「よかった」と言えるかもしれない
一時的にはつらくても、後々、全体を通して「よかった」と言えることって結構多いから
人って、ちゃんと見守ってくれる人がいると
安心して、自分の力で良い方向に進んでいける
誰も皆平等に、その能力を持っている
もちろん口を出すことがあってもいい
思いっきり相手に踏み込むことが必要なときもある
でも、「ただ見守る」という引き出しも持っておきたい
見守るって、本人の意思を尊重するってことだから
そして、結構覚悟のいることだから
不安で人をコントロールしようとするんじゃなく、
相手に何があっても受け止める覚悟だけを持って、
ただ、良い方向に行くといいことだけを切に願いながら見守ること
それができる強い人に、私もなりたい
"感謝"の本質
「ほら、"ありがとう"って言いなさい」
誰もが幼少期に親に言われた言葉
この言葉にずっと違和感がある
–感謝は「しなければならないもの」–
そう覚えてしまうと、
人からの好意や親切は「当たり前にもらえないもの」「特別にもらえたもの」になる
自尊心の育っていない子どもは、
「自分は本来、この好意や親切をもらうほどの価値はない存在なんだ」
と思ってしまいかねない
だから、言わされた「ありがとう」は
「こんな価値のない私に親切にしてくれてありがとう」という贖罪の言葉になってしまう
感謝って、「自分の内側から泉のように湧き上がってくる感情」のことだと思うんだ
それって、人としてかなり高次の感情で
子どもに求めるにはあまりに難しい
形から覚えこませるのはやっぱり違う
子どもはある意味、大人から受け取ることができて当たり前の存在
だって、まだ自力で生きていくことができないから
守られて当たり前の存在なんだ
当たり前に、感謝も要求されず、
与えられて、与えられて、
その結果「自分は愛されているんだ」と感じることができて、自尊心が育つ
そうして自尊心が育っていった先に、
人からの好意や親切が「当たり前ではない」ということが、
自然と、しみじみと感じられるステージが来る
義務感や罪悪感で感謝をしなくて大丈夫
「ありがたいなあ」とじんわり感じたときに口をついて出る「ありがとう」
そんな、自然で、実のある感謝をしたい
ちゃんと感じる
悲しいとき
傷ついたとき
ちゃんとその気持ちを感じているだろうか
本当は悲しいのに、傷ついたのに
フッとそれを我慢して、ニコニコしちゃってないか
大きな悲しみや苦しみは感じられると思う
なかったことにしがちなのは、小さな悲しみや苦しみ
その蓄積は、信じられないくらい心から栄養を吸い取ってしまう
小さなことでも、もっと悲しんでいい
傷つきやすくたっていい
ちゃんと感じるって、すごく大事
ちゃんと感じるって、人として自然なこと
ちゃんと感じる暇もないくらい
名前も知らない誰かが情報を流し続ける時代
真に受けなくていい
一番耳を澄まさなきゃいけないのは
自分の心がどう感じたか?
ただそれだけ
ちゃんと感じるって、最初はつらい
でもその先には、本当の意味で満たされる世界が待っている
ちゃんと感じられる自分が選んだものは、
自分にとって本当に必要なものだから
生きる姿勢
自分のダメさに落ち込んだとき
絶対にダメと自分に禁じていたことをしてしまったとき
自分で自分を受け入れられないとき
つらいよね
人間にとってこれほどつらいことはない
そんなとき、私が自分に言ってあげる言葉
「これが今の自分の現在地なんだね」
「でもこれで大丈夫。人間らしくて素敵だよ」
「これで終わり」では決してない
仮に今の自分がダメだったとしても、
自分の未来に希望はあると信じよう
自分がダメだと落ち込むのは、もっとよくなりたいと願っているから
前向きな気持ちがあるからこそなんだ
その気持ちがあれば、「今」はスタートラインに過ぎない
ここから、まだまだよくなっていける
自分の生きる姿勢を評価してあげてほしい
その姿勢は何よりも尊い
これで終わりじゃない
今は見えづらくても、道はちゃんと続いてる
絶好調→過労→復活
詩はちょっとお休みして、今日は近況を。
昨年7月に仕事を変えてから、環境に適応しよう、正社員に戻りたい、評価されたい、と半年間120%の力を出し続けた結果、4月にまたまたダウン。
ダウン寸前は会社からの評価もうなぎ登りでしたが、やっぱり無理は長くは続かない…
幸い(?)今回は身体の限界が来ただけで済んだのですが、4月は営業日の半分くらいしか出勤できず、身体と勤怠はボロボロ。
思うように身体が回復しない苛立ちがストレスになって、だんだん気持ちも落ち込む始末。
でも数回カウンセリングに通い、試行錯誤の結果なんとか回復基調に乗れました。
思えば社会人になってからの9年間、行く先々でずっとこんなことを繰り返してる…
今までの4回の転職ではすべて、入社直後から組織のトラブルに見舞われてきたこともあり「環境的に頑張らざるを得なかったんだ、倒れて当然だ」と周りのせいにしてきましたが、どうやら神様は頑張り過ぎグセが治るまで同じ試練を与えてくる模様。
しかし!
今回のダウン→復活の過程では、自分の中で革命とも言える大きな気づきがありました。
「もう二度と同じ轍は踏まない!」とまでは言い切れませんが(言い切ったらそれはそれで危うい気もする)、我ながらかなりの前進でした。
詳細を書くと相当な長編になるので小分けに連載していきますが、キーワードは「自分の帰る場所」。
今後は疲弊しきることなく、心身の健康を保ちながら持続的に働くことができるかも、神様の試練は今回で最終回では?と少し希望を感じています。
と、会社帰りの電車内で書けたのはここまで。
続きはまた今度書くことにします。
ゆっくりでいい
人はなぜ急ぐんだろう。
急ぐって、本来の速さよりもさらに速く進もうとすること。
急ぐって、ちょっと無理をすること。
だから、急ぐって、結構疲れる
「急がなきゃ」
誰もが思っているけれど、本当にそうなのか
急がなくたって大丈夫なんじゃないか
焦らなくたって生きていけるんじゃないか
そんな気がする
自然な速度でいいと思うんだよ
無理せず、焦らず、ゆっくりと
自分の速度で、一つずつ積み重ねていけばいい
不安になるとつい焦って、急いでしまうけど
急ぎすぎて、疲れてしまったり、
大切なものが見えなくなるくらいなら、
大切なものを守るために、場所を変えよう
人生は、好きな速度で歩めばいい
急ぐのに疲れたら、ゆっくりでいい