「自分をわかってもらいたい」気持ちの向けどころ
人とのコミュニケーションで孤独を感じるのはどんなときだろう。
きっと、自分が辛い状況の中で相手が自分のことをわかってくれていない、自分のことを受け入れてくれていないと感じたときは孤独を感じるんじゃないだろうか。
今日は、そんな風に孤独を感じたり、理解されない苦しみを感じなくて済むような対処法について考えてみたい。
他人に自分を100%理解してもらうのは難しい
以前のエントリーに書いたように、そもそも他人に自分を100%理解してもらうのはとても難しい。
ただ、「他人の痛みへの共感・理解ができる度合い」は人それぞれ異なっていて、100%は難しくても60%は共感できる人もいれば、10%しか共感できない人もいる。
その共感・理解度合いの違いは聞き手の資質だけでなく、
- 話し手との相性の良さ(感覚や感性、性格の共通度など)
- そもそも話し手の話に共感・理解をしようとするかという「姿勢」
によっても左右されると思う。
聞き手がこの3要素のいずれも持ち合わせていないとすると、その人に共感や受容を求めても満たされない可能性が高い。
共感・受容を求めるこちらの気持ちが強いほど、その気持ちは裏切られて、傷ついたり孤独を感じることになりかねない。
重要なのは、相手を選んで受容と共感を求めること
重要なのは、先の3要素の観点で「相手が自分の話に共感・理解をしてくれそうかどうか」を見極めようとすることだと思う。
「見極めること」とせずに「見極めようとすること」としたのは、見極めること自体がとても難しいから。
完璧に見極めることは無理でも「この人に話してわかってもらえるかな…」と一瞬立ち止まって考えることが大切なんじゃないだろうか。
ただ、ここで悩ましい問題が1つある。
それは、「誰かに話を聞いて受容・共感してほしい」という気持ちになっているときは自分の心の状態が良くないときが多く、相手がその期待に応えてくれるかどうかを見極める心理的余裕が持ちづらいこと。
この問題に関しては、「とにかく、自分の話を聞いて、受容・共感をしてくれる人を最低1人持っておく」という対処法に尽きると思う。
少し粗い考えかもしれないけど、1人だけでも信頼できる話し相手がいれば相手の見極めをする必要はないし、見極めに失敗して傷付くこともない。
最も重要なのは、誰かから全受容してもらった経験をすること
ここまで書いてみて思うのは、そもそも「誰かに理解してほしい、共感してほしい」と思うかどうか、どれくらいそう思うか自体、人によって千差万別だということ。
その期待の大きさは自己肯定感の強さと相関があって、自己肯定感の低い人ほど他者に受容と共感を求める気持ちは強くなるのではないかという気がする。
それでも、一度誰かに弱った自分を見せて受け入れてもらった経験を積んでいくことで、少しずつ自己肯定感は育っていくんじゃないかと思う。
そんな経験の積み重ねで、身の回りのあらゆる人に理解と共感を求めてしまっていた状態から、人を選んで理解と共感を求めることができる状態に徐々に変わっていけると僕は思う。
自己肯定感はあらゆる問題に共通するテーマだと思うので、それ単体でもどこかで記事にしたい。
ではでは今回はこの辺で。