「自分」を「社会」に近づけすぎるリスク
2週間ほど前から体調を崩し、会社を休む日々が続いています。
休職するまではいかないものの、発熱、全身倦怠感、不眠など、休職当時を思い出させるような症状が出ています。
1年以上カウンセリングを受けてもなお繰り返してしまうところを見ると、一生こんなことを繰り返していくのかな…とある種の覚悟をしています。
少し外出できるくらいのエネルギーは溜まったので、今日は今回無理が祟った原因と今後の対策について考えてみます。
ポイントは、「自分」と「自分自身」の距離感
端的にいうと、今回体調が悪くなるまで無理をした原因は「過剰に環境適応しようとするあまり、自分自身のペース・キャパシティを見失ったこと」にあります。
社会に適応しようとするあまり、自分自身の感情を抑圧したり、自分の持っている体力・精神力以上のエネルギーを消費したりして倒れてしまったのだと思っています。
(心療内科いわく「過剰適応」と呼ぶそうです)
ここで重要なのは、「自分」と「社会」、「自分」と「自分自身」の距離感です。
以前読んだ本に、「”自分”とは、”社会”と”自分自身”の間に立って、両者を調停する役割を担う存在である」という定義がありました。
自分自身 ⇔ 自分(調停役) ⇔ 社会
この定義によれば、よく言う「自分を大切に」というフレーズは、自分と自分自身の対話を大切にし、自分自身が感じている感情、感覚を重視した意思決定をしましょう、という意味合いになります。
このモデルにおいて、社会からの要請、たとえば仕事上の役割や責任、組織からの期待に応えることを優先すれば、「自分」は「社会」の側に寄っていき、相対的に「自分」と「自分自身」の距離は遠くなります。
今回、自分の仕事との付き合い方を振り返ってみると、
「働き始めたばかりの職場で、期待に応えようと必死になりすぎた」
「それによって、自分の体力・精神力を超えて努力しすぎてしまった」
と痛感しています。
社会の要請ばかり耳に入ってきて、自分自身の体や心の声はあまり聞こえなくなっていました。感情も抑圧していたと思います。
その無理が限界を超えたとき、意思の力ではどうにもできない体調不良という形で、体が悲鳴を上げるのが僕の陥ったパターンでした。
「自分自身」との対話のための手段を持つ
上のモデルで、調停役である「自分」は、「自分自身」と「社会」のどちらに寄りすぎることもなく、バランスを取り続けていくことが求められます。
難しいのは、「社会」の要請は年を重ねるごとに増えていく点です。
「社会」は職場だけとは限りません。
仕事の責任に加え、家庭での役割、家族を守る責任など、「社会」からの要請が年々増えていく中で、その変化に適応しようとするほど、「自分自身」は疎かになっていきがちです。
だからこそ、定期的に「自分自身」と対話する時間が必要なんだと思います。
アプローチは色々あります。
たとえば、週一回を目安にこんな時間を過ごしてみてはどうでしょうか。
- 「自分自身」が1週間で感じたこと(たとえば仕事で感じた違和感や負の感情)を、紙に書き出してみる
- 「自分自身」が素直にやりたい(≠やるべき)と思うことを行動に移してみる
- ネット環境や一切の情報から離れ、一人でボーっとする時間を作る
過去記事で書いた「自分の定点観測」も、同じような効果があると思います。
こうして「自分」を「自分自身」の側に引き寄せていく作業は、真面目で、周囲の期待に応えようとする性格で、自分のことをないがしろにしがちな人にとっては特に重要です。
残念なことに、職場や他人は自分を守ってはくれません…。
自分で自分を守り、バランスを保っていくしかない以上、何かしらか自分なりの方法を見つけられると良いのではと思います。
まとめ
今回は僕自身の自戒を込めてこの記事を書きました。
心療内科に通っていた頃、主治医の先生から
「自分を社会に適応させることばかり考えてはダメ。むしろ逆よ。
あなた自身の人生に必要なものを手に入れるために、あなたが会社を選ぶの。
会社にあなたを利用させるんじゃなくて、あなたの人生のために会社を利用するのよ。」
とアドバイスを貰いました。
今思えば、これは非常に重要な示唆を含んだアドバイスでした。
この言葉を実現できているとき、心の底にあるのはきっと「社会の要請に応えなければ必要とされなくなる」という恐怖ではなく、「自分の人生をこうやって生きていきたい」という希望と主体性なのだと思います。
言い換えれば、「自分」が「社会」の側ではなく、「自分自身」の側に歩み寄れている状態が、この言葉の根底にはあります。
周囲の期待に応えることを最優先にしてしまう性格は、すぐには変えられないかもしれません。
でも、どうせ生きるなら社会の要請ではなく、自分自身の内から湧き上がる要請に重きを置いて生きてみたいものです。
そんな人生を送ることができればきっと、深い充足感を得て生を終えられるような気がします。