ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を乗り越えた筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

「自然」と「人間」の関係

人・モノ・金がますます都市部に集中していく現代。
そんな時代に生きながら、たまにふと「自然と人間の関係」に思いを巡らせることがある。

このテーマではいつも、心の奥底の、言葉にならないような深いところで感じている感覚がありながら、言葉にしたことはほとんどない。
通勤電車の中、都内に近づくに従って減ってゆく自然を見ながら感じている感覚の言語化を、今日は試みてみたいと思う。

※なお、この記事でいう「自然」は、人間の手が加えられなくても自生する木々や植物などを指します。

 

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本来、人間は「自然」の一部 

今の都市部の風景を見てみると、自然に存在しているものは限りなく少なく、ほとんどが人間の手によって作られた人工物。

ビルも、道路も、住宅も。
道端の木々でさえも、後から人間が植えたものになっている。

都市からどんどん離れていくと、この風景は対象的なものになる。
人の姿はまばらで、高い建物はなく、ひたすら田んぼや畑が広がっている。
夜は街灯の明かりも少なく、星空や月明かりの明るさしかない世界。

その2つの光景を対比すると、
人間の中に自然があるのか?自然の中に人間が暮らしているのか?一体そのどっちなんだろう?
という素朴な疑問が湧いてくる。

きっとその答えは後者で、本来、人間は自然の中の一部であるべき存在なんだろうと思う。

太陽の光や水、農作物を始め、自然の恵みがなければ人間は生きていけないし、それは人間がどんな経済システムの下で生きようと変わらない構造だと思う。
人間が自然の上位に立ち、自然をコントロールする立場なのではなく、「自然」という大きな枠組みの中に「人間」という一つの生物が存在している。
「自然」がなければ「人間」は存在できないということが、当たり前なようで僕たちが忘れている、大切な本質なんじゃないだろうか。

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都市部の人工的自然を見て感じることを言葉にしてみる

自然を必要とする人間の心理を紐解く

首都圏、特に東京23区の住宅地を見ると、所狭しと住宅が立ち並んでいて、自然は申し訳程度に植えられている。

街路樹や各住宅のベランダに置かれている植木など、人工的に植えられた自然は、僕の目からすると、都市一極集中の流れへの人間の心の抗いのようであり、なにか切り崩した自然への贖罪のようにも感じる。

少なくとも都市部では、(経済合理性の要請があるとはいえ)必要以上に自然を切り崩しすぎて人々の心は渇ききっていて、そこに暮らす人々はもう一度その心を潤すために自然を求めているような気がする。

人工的に植えた自然から直接農作物などの恵みは受けなくとも、自然を求め、必要とする気持ちは、人間にとって極めて自然な反応のように思う。
僕たちは資本主義経済の檻の中で貨幣がなければ生活していけない存在である前に、人間という一つの生物なんだろう。

自然の目線から人間社会を見てみる

 

反対に、都市部に人工的に植えられていく木々の立場から見てみると、彼らはどんな目的で、どこに植えられようと、置かれた場所で懸命に生を全うしようとする。

文句を言うこともふてくされることもなく置かれた場所で咲くそのあり方は、僕にはなんだかとても健気に思えて、「どうして人間はこんなに文句ばかり言って生きているんだろう」と、少し恥ずかしいような気持ちになる。

 

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確かに木々や草花は、人間と違って心や感情を持たないのかもしれない。
それでも本能的に生きようとしている点は人間と変わらないし、仮にその本能が満たされなくても、ただ枯れて生涯を全うする。

人間には良くも悪くも心があり、感情がある。
だからこそ、自己保全のために「恐怖心」や「欲」が生まれ、そうした感情が複数の人間関係の中で複雑に絡み合って、恨んだり恨まれたり、腹を立てたりする。

「生きている」という意味では木々や草花と人間は同じ存在でありながら、「自分以外の存在に何かを求めているか・いないか」という点でこの両者はあまりにも違う。
この2つを同列に語るのがあまりに粗いことは確かだけど、少なくとも僕は、人間でいながらも自然の「あり方」に学び、それに自分の生き方やあり方を近づけていきたいと思う。


一人の人間として、自然との共生関係をどう築いていくか

資本主義経済の中で、今は人間の不安や欲に自然が飲み込まれていっている構図は、都市部に近づくほど顕著だ。

でも、本来のあり方は「自然の一部として人間が存在する」という構図であって、このパラダイムが崩れるほど自然が損なわれたとき、人間が自分の生を保つことができなくなるような反動が、自然の側からもたらされるような気がする。
温暖化は最たる例だろうけど、それ以外にも、確実に見えないところである種の"反動の蓄積"が進んでいるような気がしてならない。

 

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そんな中、一人の人間として自然との共生関係をどう築いていくか。

「人類」を主語にして、資本主義に抗い、自然を増やしたり保全しようとしたりするのも一つ。
「会社組織」を主語にして、CSR活動等で資本主義の流れに自然を飲み込もうとする動きを抑制しようとするあり方も一つ。
「自分という人間」を主語にして、自らの生活のバランスを取るために生活の中に自然を取り入れていくのも一つ。

色々な自然との向き合い方がある中で、自分自身はどんな向き合い方を選びたいだろう。

「人類」を主語にするのが立派だとか、そうあるべきだとか言うつもりは全くない。

それでも、あくまで人間は自然という大きな恵みの一部で生かしてもらっている存在であることを自覚し、自然への感謝と敬意を持って生きていくことが、人間としての最低限の勤めであるような気がする。

 

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