どうすれば人に"やさしく"在れるのか?
以前のエントリーで、「“やさしい”人は相手がありのままで"在ること"を認め、相手を自由にする」と書いた。
そんなことを考えていた矢先、人との新しい出会いを通じて新たな気付きがあった。
それは、「どうすれば人に“やさしく”在ることができるのか」。
今日は、その方法について書いてみたいと思う。
22歳の新社会人から受けた影響
先日、出会った人は僕より7つ年下で、今年新社会人になる男性。
彼は思春期を海外で過ごしたこともあり、ものの考え方に「檻」のようなものがなかった。
彼の発言で最も驚いたのは、
「僕は日本で仕事に疲れたり、日本で行き詰まったら、最悪海外に逃亡すればいいと思うんですよ。たとえばカンボジアなんて、お金がなくても心が豊かな人がたくさんいて、愛情を感じながら幸せに暮らしていけますよ。」
という言葉だった。
これを聞いて、僕の頭は
「海外で仕事に疲れて最悪日本に帰ればいいや、だったらまだわかるけど逆って…」
「そこで国境越えちゃうという発想すごい…」
など、ツッコミで満載だった。
そしてこのツッコミそのものが、僕がどのような「檻」(≒心理的な囚われ)を持っているかを教えてくれた。
「日本でやっていけないなら、海外に行ったら余計難しいだろう」
「日本で仕事に行き詰まったら、日本国内で別の仕事を探すしかない」
など、僕の頭は色々な囚われでいっぱいだったのだ。
心理的な囚われのない人は、相手の心を自由にする
彼と話していて、僕は自分の中にあった「檻」や「境界」がググッと押し拡げられるような感覚を覚えた。
心理的に自由になったような、自由であることを許されたような、不思議な感覚。
実際に心理的自由を手にしている(と見える)人と触れ合うことで、「自分自身の心も自由にしていいんだよ」と許可をもらったような感覚があって、それは心地よいものだった。
ここから学べるのは、人の心を自由にできるような「やさしい」存在であるためには、まず自分自身の心を自由にできなければいけないということ。
それにはまず、自分の持っている心理的な檻(囚われ)に気付かなくちゃいけない。
そして、恐れを乗り越え、その檻を手放す必要がある。
檻はある意味「この中にいればあなたは安全だよ」と自分の安全を確保してくれてきた防衛役なので、実際に手放そうとすると不安や怖れを感じると思う。
それでも、自分の中に心理的な檻が存在する限り、失うのが怖い大切な誰かに対しても、その檻を当てはめようとして
「それをやったら危険だ」
「こうした方がいい」
などと口を出して相手を縛り付けてしまいがち。
(親の子どもに対する叱責を思い浮かべれば、想像しやすいと思う)
これは“相手が傷つくのを見たくない”という自分の恐怖心ゆえであり、ある意味”相手が傷つくまい、失敗するまい”とする優しさなのだけど…
これが結果的に相手の自由を奪ってしまうのだから、なんともやるせない。
真に相手を尊重したいと思うのならば、相手への小手先の言動・行動を変えるのではなく、自分自身の心理的な檻を手放すのが本質的アプローチなんだと思う。
自分が「できること」でしか、人には影響を与えることができない
先の通り、人の心を自由にできるような「やさしい」存在であるためには、まず自分自身の心を自由にできている必要がある。
この話は、人前で講演する講師や、研修講師の話と似ている。
よく言われる話なのだけど、研修講師は、受講者に教えるコンテンツを誰よりも身につけている存在でなければいけない。
受講者が「この人の話を聞こう」とマインドセットできるのは、何より研修講師自身がコンテンツの一番の使い手であり、それを使いこなして成果を出していること。
営業スキルの研修で言えば、その営業スキルを完璧に身につけ、実践して、実際に営業成果を出した経験のある講師は、言葉の重みや醸し出す説得力が全く違う。
何が言いたいかというと、
「自分自身の持っているものしか、人前で表現することができない。」
「自分自身の持っているものでしか、人に影響を与えることができない。」
ということだ。
頭で理解している「知識」を言葉にするだけでは、相手には影響を与えられない。
体に血肉となって身についているものだけが、全身からにじみ出る雰囲気となり、相手に影響を与えるのだと思う。
このブログのタイトルは「心を自由にするブログ」。
そのコンテンツの発信者である僕自身が、まず自分の心を自由にできるよう精進していきたいと改めて思った。
今回、自分の持っている心理的な檻(囚われ)を手放す方法について詳しく考えることはしないけど、それはまた別記事で取り上げたいと思う。