「好き」と「愛している」の違い
20歳前後の頃、恋人との依存関係に悩み、「好きだ」と「愛している」の違いはなんだろう、とよく考えていました。
「あなたが好き」というと、さも相手のことを思いやる優しさがあるように感じるけど、「あなたが好き」と言いながら自分のエゴを押し付ける人をよく見ました。
異性の友達を純粋に「愛しているな」と思ったとき、そもそも異性を「好き」になる気持ちがわからなくなったりもしました。
― 一体どこまでが「好き」で、どこからが「愛」なんだ。 -
■一つの定義
そんなことを考えていたとき、ある人がこんな言葉をくれました。
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「好き」とは、自分のために相手を求める感情。自分自身のために、相手を必要としていること。自分の幸せのために相手を欲すること。一種の依存とも言えるかもしれない。
「愛」とは、自分自身のためではなく、ただ純粋に相手の幸せを願うこと。相手なしでも自分は生きていけるという意味で、自分にとって相手は必要ではない。それでも少し離れたところから相手の幸せを切に願い、そのために自分にできることを相手にしてあげること。それが愛。
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この言葉を私に授けてくれた人は、「私はあなたを必要とはしていないの。でも、あなたのことを愛してるのよ。」と言いました。
そのとき私は、嬉しい反面少し寂しいような、複雑な気持ちになりました。
「必要とはしていない」のくだりがなんとも冷たいように感じ、一瞬悲しさが込み上げてきたんですね。
「私にはあなたが必要なの。あなたを愛しているのよ。」とでも言われれば満足だったのかもしれないけど、先の定義に照らせば、これは相手からの「好き」、すなわち一種の依存を僕が欲していることに他なりません。
相手から必要とされたい。依存されたい。
そうすることで初めて自分が愛されているように感じる弱さが、その当時の自分にはあったんだと、今では思っています。
■パートナーと長期的な関係を築くために必要なもの
異性との恋愛関係の中では「好き」から関係が始まりますが、ずっと「好き」だけでは関係は長続きしないものだと思います。
いつかどこかで、お互いのエゴ(相手にこうしてほしい、などと何かを求める気持ち)がぶつかり合って、修復できない溝を生んでしまうような気がするからです。
一方で、時間をかけて付き合っていく中で「愛」が芽生えると、相手の幸せを願い、相手が一人の世界を持つことを認め、相手のためにできることをするようになる。
そうした「愛」があって初めて、長く信頼し合える関係が作れるような気がします。
ここまで考えると、誰かを「愛する」ためにはまず自分自身の精神的成熟が欠かせないと、私は思います。
「自分を愛することができて初めて、他人を愛することができる」とよく言いますが、この言葉の意味するところは本当に深くて、
「自分を愛する」
すなわち、自分で自分のことを「愛される価値のある存在だ」と心から感じ、その愛を自分自身に実践できること。
それによって真に気持ちが満たされて初めて、人は「愛する」ことの意味を学ぶのだと思います。
幼少期に愛された経験の豊富な子どもは、当然のように「自分は愛される価値のある人間だ」と潜在意識レベルで思えているから、比較的簡単にこれができると思うけど、そんな恵まれた人はきっと少数派で、
大半の人が、親や周りの大人から充分な愛を感じられないまま大人になり、言い知れぬ満たされなさに苦しみながら、愛を欲しているのではないかと思います。
でも、どんな環境で育とうと、人はいつからでも変わることができる。
だから、大人になってから自力で愛を学び、覚えて、自分を満たし、他人を満たしてあげられる人になりたいと思うし、それができる成熟した大人を私はとても尊敬しています。