ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を乗り越えた筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

仕事を辞めました。

一つ前の記事に書いたコールセンターの仕事に耐えきれず、5月末で会社を退職しました。

yudaism.hatenablog.com

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クレーム対応の仕事に適応しやすい人

クレーム対応の仕事は、

  • 仕事が終わったら、仕事のことを忘れられる(切り替えが上手)
  • クレームを受けても「責められているのは自分じゃなくて会社だ」と考えられる
  • 物事を深く考えすぎない

の3つの要素を備えていると適応しやすい、と同僚や上司から聞いていました。
実際にクレーム対応をしてみて、非常に核心を突いている分析だと思いました。

その点、3つとも真反対の性格の僕には、もともとストレスの大きすぎる仕事だったのかもしれません。

もう一度復帰して、乗り越えようと努力する選択肢はありました。
数をこなすうちに「クレームに慣れる」という世界があることは聞いていましたし、そこまで到達したい気持ちもありました。

ですが、過去の職場ではそうして復帰した結果、さらにエネルギーと時間を浪費する結果になったこともあり、今回は早めに見切りをつけることにしました。
(きっと、クレームに慣れる前に潰れてしまっていたと思います)

早く諦めることも、僕に自分にとっては初めての経験でした。

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1ヶ月は短期アルバイトで生活予定

6月からはひとまず、派遣会社の紹介で短期のアルバイトで食いつなぎます。

5月末に一つ正社員採用の面接を受けましたが、正社員の仕事の内容が想定していたものと全く違うハードなもので僕には持ち堪えられそうにありませんでした。
ですが、辞退するまでもなく結果は不合格。笑
面接官にも、仕事のプレッシャーに耐えきれない弱さがあることが伝わったのかもしれません。

この半年間、書類選考や面接で何社も落ちたせいか、一つ選択肢が消えても「また新しく選択肢を見つければいいや」「視野を広げて、他の仕事も考えてみよう」と前を向ける柔軟性は備わってきました。

人は追い詰められているときほど視野が狭くなり、目の前の選択肢が消えた途端すべての希望が絶たれたような気になります。

でも、良い選択肢は大抵、自分の意識の外側に転がっていたりします。
「そうか、そんな手があったのか!」という風に。

目の前にそれを掴むチャンスが訪れたときに逃さないように、追い詰められても、柔軟で前向きな志向は持ち続けたいと思っています。
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今後に向けて、1つ思ったこと

不本意ながら自分にとって4社目の会社を辞めたことで、今回1つの大きな気付きを得ました。

それは、「仕事が長続きしない原因の半分は、自分自身にある」ということ。

履歴書や職務経歴書を書く過程で過去の転職理由について振り返ったとき、そこに労働環境の劣悪さ、社風との相性、仕事の量的負荷など、外部要因があったことは確かです。

ですが一方で、

  • 不安な気持ちから完璧主義に陥り、人一倍働いてしまう
  • 仕事の悩みを抱え込み、同僚・上司になかなか相談しない
  • つい良い顔をしすぎて自分の本当の感情を押し殺してしまう
  • ビジネスライクに割り切る(人としての感情を捨てる)ことが苦手
  • 物事をなんでもかんでも深く考えすぎる

などといった自分の性格が、自分自身の首を締めていることを今回の退職で強く感じました。

どれだけ自分と合う仕事、自分と合う職場に出会えたとしても、こうした性格が少しマイルドに変わっていかなければ、どんな仕事をしてもきっと疲弊すると思います。

「自分がダメなんだ」と100%自責に走るのは危険です。
でも、「仕事が合わない」「社風が合わない」と100%他責に走っても問題は解決しません。

自分と仕事・環境の相性は冷静に見極め、自分の顧みるべきところは顧みて、自責と他責の間でバランスを取りながら、自分自身が変わっていかなければと強く思いました。

現在、転職先の候補はゼロ。
1ヶ月先の仕事は全くの未定という中で、自分自身どうなっていくのか。
そのプロセスを、不安に殺されず、むしろ楽しみ味わいながら進んでいきたいと思っています。 

コールセンターの仕事で見たリアル

前回投稿からだいぶ間が空いてしまいました。

近況ですが、2月後半から会社に行けなくなったり復帰したりを繰り返して、今もまだ心身ともに不安定な状況が続いています。

とりあえず、と短期で始めたオフィス機器のコールセンターの仕事。
当初は仕事にもスムーズに適応でき、周囲から高く評価されていましたが、最近は「クレーム対応」が苦しくて仕方がありません。

その経験から考えたこと、感じたことを今日はざっくばらんに書きたいと思います。

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初めてリアルに対峙したクレーマー 

噂には聞いていましたが、本当にいました、クレーマー
電話の向こうの消費者に怒られることもありますが、その中には健全な消費者もいれば、ただ因縁を付けてくるクレーマー、とにかく人を罵倒しにかかるクレーマーなど様々います。

例えば、操作案内の途中で、
「てめえ、俺が悪いって言いてえのかこの野郎!!」
と罵倒してくる人。

電話の冒頭、数十秒話しただけで
「は?お前じゃ話にならん!上の奴を出せ!!」
と怒鳴りつける人。

「もっとわかりやすく説明できねえのかこの野郎!コールセンターだろ?」
と強い口調で非難する人。

こうしたクレーマーに対峙するのが初めてだった僕は、見事に真正面からダメージを喰らいました。
電話の最中は、全身から汗が吹き出て、緊張で声が震え、頭が働かなくなります。
電話が終わった後は自信を失い、途方もない悲しみが押し寄せてきて、「また傷つけられるのでは…」と電話を取るのが怖くなります。

コールセンターの辛いところは、どんなに揉めても相手の言動を否定したり、電話を途中で切ったりできないこと。
なんとか怒りを鎮めてもらおうと1時間以上話し続け、その間ずっと罵倒され続けたこともあります。

もちろん、僕自身にも反省すべきところはあったと思います。
不慣れで説明が足りなかったり、わかりにくかったり、言い回しがおかしいときもあったでしょうし、それについては十分に謝罪したつもりです。

それでも、「クレーマー」(≠健全な消費者)は許してくれません。
こちらの心が折れるまで、全力で非難と罵倒を繰り返してきます。

同僚の中にも、電話が終わった後にトイレに駆け込む人、泣き出してしまう人、怖くて次の電話が取れなくなる人など、苦しんでいる人が沢山いました。

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「消費者」という立場を利用して相手を支配したがる人々

クレーマーと健全な消費者の境界線は、「批判の目的をどこに持っているか」にあります。

健全な消費者が商品やサービスを批判する背景には、「期待を裏切られた怒りをぶつけ、受け止めてもらいたい」や、「今後の商品やサービスを改善してほしい」といった目的があります。

一方で、クレーマーは「相手を攻撃して屈服させること、自分の優位性を示すこと」に批判の目的を置いています。
自分が正しいこと、優れていることを誇示し、オペレーターを攻撃して破壊することでその支配欲を満たそうとするのがクレーマーです。

クレーマーがいくら心を破壊しに来ても、オペレーターは「企業のブランドを守る」という役割上、絶対に反撃することができない。
このことをクレーマーはよく知っています。
絶対に反撃できないとわかっているからこそ、強気に出てくるんです。

オペレーターは一方的に殴られ続け、反撃することも、自分の感情を表現することもできないまま、電話が終わった後にそのショックと向き合うことになります。
仕事とはいえ、この構造はどう考えても不公平であり、理不尽です。

いくら資本主義の世の中であっても
「お金を払う側=強者、正しい」
「お金を貰う側=弱者、間違っている」
という論理は成り立たないし、その論理を振りかざして他者を傷つけることは倫理的に許されないと僕は思います。
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競争社会の論理に飲み込まれて生きる辛さ

それでも、クレーマーのことを僕はとても気の毒に思います。

クレームを受けた直後はショックで茫然自失になりますが、時間が経ってからは
「相手を屈服させることでしか満足感を得られないんだろうな…」
「オペーレーターしか八つ当たりする対象がいないんだろうな…」
「自分の物事の捉え方が原因で、仕事をしていてもストレスばかりだろうな…」
など、色々な想像をします。

物事の価値を金銭でしか判断できなかったり、関わる人々を「自分より優れているか、劣っているか」でしか捉えられなかったり、「自分が正しい、相手が間違っている」と思い込んで生きていたり。

そんな生き方は、資本主義や競争社会に飲み込まれてしまった、とても苦しい生き方に思えます。

なぜなら、
いつも競争に勝てるとは限らず、
自分が弱者や敗者になることもあり、
そのたびに憎しみや恨みが心を支配して、
自分が強者や勝者であるときにだけ一瞬心が満たされる、
そんな不安定な生き方のように、僕には感じられるからです。

コールセンターの仕事が包含する「一方的に心を傷つけられることもある」という精神的苦痛を考えると、一般的に支払われている報酬はあまりに少ないのが現実です。
なにか、その苦痛を超えるやりがいや希望、目標などを持っていないと、なかなか継続していくのは難しい仕事だと思いました。

そして、自分がどんなに苦しい境遇に置かれても、人を攻撃したり、支配しようとしたり、屈服させることで満足感を得るような人にはなりたくないと、今回の経験を通じて強く思いました。

でも、人にやさしく、心を失わないで生きるためには強い信念が必要です。
その強さ、強さを形作る信念を、僕もひとつずつ積み上げていきたいと思います。

魂のカタチ

今日はいつもより短文を。

いつも論理的なつながりや整合性が気になって、つい長文になってしまうのですが、
最近友人から
「ブログには、普段のあなたの"らしさ"が表しきれてない気がする」
と意見をもらいました。

自分自身納得するところがあったので、普段会話の中でつぶやいているようなことを、「エッセイ」というカテゴリの中にまとめてみることにしました。

今日はその1回目の投稿。
テーマは「魂」という言葉です。

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~『魂のカタチ』~

「魂」という言葉は、「その人の存在そのもの」を指す言葉だと思う。

「個性」や「性格」、「心」という言葉では表しきれない、存在そのもの。
存在と、そこに含まれている性質まで示すのが「魂」という言葉。

だとすると、一人ひとりの人間の魂には、きっと1つ1つの形がある。

その形を目に見えるカタチに具現化できたとしたら、
自分自身は、大切なあの人は、どんなカタチをしているんだろう。

人は、きっと持って生まれた魂のカタチを、ありのまま表現したいと願っている。
自分の生命を、余すところなく表現したいと願っていると思う。

でも、残念なことにそれはとっても難しい。
好きなように振る舞えば、周りから批判されることもある。

だから、みんな自分の魂を世の中の型や枠組みに押し込めて生きている。
魂は、何かを我慢しながら窮屈な思いをしている。

でも、世の中がどうであっても、
自分自身は、誰かの魂の表現を否定する人ではいたくないと思う。

その表現がその人自身と誰かの生命や心を傷つけるものでない限り、
誰かの存在や性質そのものを、ありのまま尊重できるような人でありたい。

自分自身と、自分の大切な人たちの、ありのままの魂のカタチを、
見てみたいし、感じてみたい。
そして、つながってみたい。

お互いの存在と性質を尊重できるような、そんな人のつながりを、
生きている中でたくさん感じられたらいいよね。

働きながらも、心を失わないでいること

会社を休んで3週間。
体調も少しずつ回復し、今週は後半から少し出勤しました。

久しぶりに出勤した際、上司Kさん(直属の上司でない)から
「突然だけど明日、飲みに行かない?
会社には来れなくてもいいから、体調的に外に出れそうだったらご飯だけでも行こうよ。俺、そういうの全然気にしないから。」
と声をかけてもらいました。

役職のある人が、会社に来なくても夜会おうと言ってくれるなんて…
Kさんの気遣いと思いやりに胸が熱くなりました。

今日は、そんな上司Kさんとの会話で心を動かされたテーマについて書きたいと思います。

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現代に働くことで、失われるもの

僕たちは、資本主義社会で働く上で、「効率性」というテーマに縛られています。
同じ成果を出すならより早く、より安く済ませ、それによって多くの利益を確保することが求められます。

会社組織において、効率性を追求した組織編成や社内ルール、システムの下で働く一人ひとりの従業員は、置かれた環境に一生懸命自分を適応させようとします。
組織に必要とされ、自分の生活を確保するためです。

その中でないがしろになりがちなのは、一人の、生きた魂を持った人間の感情であり「心」です。

「社内のシステムが前近代的で使いにくく、ストレスが溜まる」
「仕事上の悩み・不満を上司や組織に打ち明けても、聞く耳を持ってもらえない」
「売上を上げるためとはいえ、あまりに強引な営業手法に嫌気が差す」

働きながら生じる様々な感情や違和感。
それは、周囲に表現しても、受け止めてもらえないことが多い。
組織に意見が聞き入れられるかどうかは「経済合理性があるかどうか」一点のみによって判断されるからです。

そのうち「どうせ言っても無駄だから…」と感情を出さないようになります。
そうして我慢に我慢を重ねるストレスから逃れるため、最後には自分が感じたはずの感情は、蓋をして感じなかったことにします。

こうして感情を失っていくこと。
そこに経済合理性を求める社会の影で人間らしい心が失われていく危うさを感じます。

前回の記事で書いたとおり、僕もこうして心を失いかけて体調を崩しました。
これまでの3度にわたる休職も、この記事と同じ構造でストレスを溜めたことが一因です。

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人の心を持ち続けている上司Kさんの言葉

冒頭に挙げた上司Kさんは、僕が会社を休んでいる最中もこまめにメールをくれました。

メールに並んでいたのは業務に一切関係のない、
「体調はどうだー?」
「前々から言おうと思ってたんだけど、体調が戻ったら今度飲みに行こう!」
といった僕のプレッシャーにならない言葉ばかりでした。

形式的な心配ではなく、人として気にかけてくれていることが伝わってくる、本当に嬉しいメールでした。

そのKさんは、食事の席で僕にこう言いました。
 

「結局、俺たちは人間だってことが大事だと思うんだよ。
コールセンターの仕事でも、技術的な知識とか社内ルールとか、そういうものを完璧に覚えてお客さんに説明することより、”目の前の人にどんな姿勢で向き合うか”が大事だと思うの。

マニュアル通りの対応なんてロボットでもできる。
いちばん大事なのは、マニュアル通りにいかないイレギュラーな問題だと思うんだよ。
その対応は人間じゃなきゃできないことで、どう対応するかに人としてのスタンスが現れるじゃない?」 


その言葉を聞いて、いわばKさんと僕の食事の時間も、業務と切り離された「イレギュラーな」時間であり、Kさんは人間としてその時間を大切にしてくれているのだと感じました。

さらにKさんはこう続けました。 

「もちろん、いくら人間であることを大切にしたくても、感情的な判断が許されないときはあるよ。
感情ではどんなに部下の意見に共感できても、それを本人に伝えられないとき、バッサリとダメなものはダメ、と言い切らなきゃいけないときはある。

でも、自分の中では色々と考えるよね。
結論としては、相手の気持ちに寄り添えなかったことについて-。
他に方法はなかったのか、とかさ。」 

 

俺、18歳のときにバイト先の店長から言われたことをずっと覚えててさ。
「人の縁は大切にしろ」って。
それがずっと心に残ってるんだよね。
君と俺も不思議な縁で11月から一緒に働けてる。
だから、この縁を大事にしたいと思ってるんだ。


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心を失わずにい続けようと、葛藤し続けること

Kさんの言葉から、僕は2つのことを感じました。

一つは、僕たちは仕事人である前に、一人の人間であるということ。

働くことというのは、1つの手段でしかありません。
生活の糧を得ること、自己実現、社会と関わりを持つこと、幸せになること…

様々な目的を達成するための手段であるはずの仕事で、感情を失い、心を失くすことはとても勿体無いことなのだと思います。

その点、Kさんはあらゆる場面で人の心を持ち続けています。
直属の部下でない僕の体調を気にかけてくれたこと。
食事に誘ってくれたこと。
人の縁を大切にしていること。

そこでもう一つ感じたのは、効率化の社会の中で「一人の人間であり続けようと模索すること」の大切さと、難しさです。

コールセンターでも、仕事の目標は基本的に数値化されたものばかりです。
いかに少ない人員で沢山の案件を捌くかが重視される世界で、効率とは正反対の「やさしさ」を失わずにいること。

Kさんがこれをできているのは、ひとえに日々の葛藤の積み重ね、そして自分のあり方を模索し続けてきた結果なのだと思います。

会社のルールやシステムに則った判断をしたときでも、
「人として、今の判断は正しかったのか」
「自分はこの”あり方”で間違っていないのか」
と自問自答し続けること。

組織に所属している以上、その組織で生きていくためには、もしかしたら感情を失ったほうが楽なのかもしれません。
でも、社会の要請を前にしても「自分がありたいあり方」を希求し続け、苦しい葛藤を繰り返しながら日々を積み重ねていく強さを、僕も持ち続けたいと思いました。

きっとそれができている素敵な仕事人は、世の中にたくさんいるのだと思います。

まっすぐ、純粋に、自分に正直に。
どんなに社会が無味乾燥なものになろうとも、人としての温度は忘れずに生きていけたらと思っています。

「自分」を「社会」に近づけすぎるリスク

2週間ほど前から体調を崩し、会社を休む日々が続いています。

休職するまではいかないものの、発熱、全身倦怠感、不眠など、休職当時を思い出させるような症状が出ています。
1年以上カウンセリングを受けてもなお繰り返してしまうところを見ると、一生こんなことを繰り返していくのかな…とある種の覚悟をしています。

少し外出できるくらいのエネルギーは溜まったので、今日は今回無理が祟った原因と今後の対策について考えてみます。

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ポイントは、「自分」と「自分自身」の距離感

端的にいうと、今回体調が悪くなるまで無理をした原因は「過剰に環境適応しようとするあまり、自分自身のペース・キャパシティを見失ったこと」にあります。

社会に適応しようとするあまり、自分自身の感情を抑圧したり、自分の持っている体力・精神力以上のエネルギーを消費したりして倒れてしまったのだと思っています。
心療内科いわく「過剰適応」と呼ぶそうです)

ここで重要なのは、「自分」と「社会」、「自分」と「自分自身」の距離感です。

以前読んだ本に、「”自分”とは、”社会”と”自分自身”の間に立って、両者を調停する役割を担う存在である」という定義がありました。

自分自身 ⇔ 自分(調停役) ⇔ 社会

この定義によれば、よく言う「自分を大切に」というフレーズは、自分と自分自身の対話を大切にし、自分自身が感じている感情、感覚を重視した意思決定をしましょう、という意味合いになります。

このモデルにおいて、社会からの要請、たとえば仕事上の役割や責任、組織からの期待に応えることを優先すれば、「自分」は「社会」の側に寄っていき、相対的に「自分」と「自分自身」の距離は遠くなります。

今回、自分の仕事との付き合い方を振り返ってみると、
「働き始めたばかりの職場で、期待に応えようと必死になりすぎた」
「それによって、自分の体力・精神力を超えて努力しすぎてしまった」
と痛感しています。

社会の要請ばかり耳に入ってきて、自分自身の体や心の声はあまり聞こえなくなっていました。感情も抑圧していたと思います。
その無理が限界を超えたとき、意思の力ではどうにもできない体調不良という形で、体が悲鳴を上げるのが僕の陥ったパターンでした。

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「自分自身」との対話のための手段を持つ

上のモデルで、調停役である「自分」は、「自分自身」と「社会」のどちらに寄りすぎることもなく、バランスを取り続けていくことが求められます。

難しいのは、「社会」の要請は年を重ねるごとに増えていく点です。

「社会」は職場だけとは限りません。
仕事の責任に加え、家庭での役割、家族を守る責任など、「社会」からの要請が年々増えていく中で、その変化に適応しようとするほど、「自分自身」は疎かになっていきがちです。

だからこそ、定期的に「自分自身」と対話する時間が必要なんだと思います。

アプローチは色々あります。
たとえば、週一回を目安にこんな時間を過ごしてみてはどうでしょうか。

  • 「自分自身」が1週間で感じたこと(たとえば仕事で感じた違和感や負の感情)を、紙に書き出してみる
  • 「自分自身」が素直にやりたい(≠やるべき)と思うことを行動に移してみる
  • ネット環境や一切の情報から離れ、一人でボーっとする時間を作る

過去記事で書いた「自分の定点観測」も、同じような効果があると思います。

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こうして「自分」を「自分自身」の側に引き寄せていく作業は、真面目で、周囲の期待に応えようとする性格で、自分のことをないがしろにしがちな人にとっては特に重要です。


残念なことに、職場や他人は自分を守ってはくれません…。
自分で自分を守り、バランスを保っていくしかない以上、何かしらか自分なりの方法を見つけられると良いのではと思います。

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まとめ 

今回は僕自身の自戒を込めてこの記事を書きました。
心療内科に通っていた頃、主治医の先生から

「自分を社会に適応させることばかり考えてはダメ。むしろ逆よ。
あなた自身の人生に必要なものを手に入れるために、あなたが会社を選ぶの。
会社にあなたを利用させるんじゃなくて、あなたの人生のために会社を利用するのよ。」

とアドバイスを貰いました。

今思えば、これは非常に重要な示唆を含んだアドバイスでした。

この言葉を実現できているとき、心の底にあるのはきっと「社会の要請に応えなければ必要とされなくなる」という恐怖ではなく、「自分の人生をこうやって生きていきたい」という希望と主体性なのだと思います。

言い換えれば、「自分」が「社会」の側ではなく、「自分自身」の側に歩み寄れている状態が、この言葉の根底にはあります。

周囲の期待に応えることを最優先にしてしまう性格は、すぐには変えられないかもしれません。
でも、どうせ生きるなら社会の要請ではなく、自分自身の内から湧き上がる要請に重きを置いて生きてみたいものです。

そんな人生を送ることができればきっと、深い充足感を得て生を終えられるような気がします。

つらいときは、時間軸を延ばす

今の職場で契約社員として働き始めて2ヶ月。
順調だった仕事に、少しだけ陰りが見え始めました。

少しずつ職場に慣れ、周りの人も僕に慣れてくる中で仕事の全体像が見えてきた中で、最近仕事の難しさや厳しさも感じ始めました。

例えば、コールセンターの仕事は3つの観点で難しいと感じています。

  1. 相手の顔が見えない中で多くの情報を察知し、相手に合わせた対応を取る難しさ
  2. 激しいクレームを受けたとき、精神的ダメージを負わずに消化する難しさ
  3. エネルギーを過度に消耗しないような「セルフマネジメント」の難しさ

正直今は、3つともうまく出来ずに苦労しています。
ストレスも溜まるし、1日の消耗の度合いも激しく、休日だけでうまく回復できずに疲労が徐々に蓄積してしまっています。

毎日「つらい」と感じていますが、今日はそんなときに辛さを軽減する考え方のヒントについて書いてみます。

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ヒトが「つらい」と感じるときの共通項

ヒトが仕事や人間関係などで「つらい」と感じるとき、そこにはこんな共通項がある気がします。

  • 精一杯頑張ってきたのに、問題に直面してしまった
  • 今の状態をどう解決していいか、わからない
  • 今の状況に、精神的または物理的な不安、恐怖を感じている
  • 自分自身の力不足を感じている
  • 「今の環境から逃げる」という選択肢はない、と感じている

この状況を言葉でまとめると、「❝今の環境から逃げ出すことはできない❞という前提条件のもと、目の前に自分の安全を脅かす問題があり、それを解決する方法が見えない状況」、と言えそうです。

想像しただけでつらいですね。

状況を改善するためには行動を起こすしかないのですが、それができないこともあります。

心が傷を負ってエネルギーが湧かなかったり、弱音を吐きたいとき、誰かに話を聞いてほしいとき、慰めてほしいときもあると思います。
そうした時期を経て、前向きに行動を起こすエネルギーを蓄えることは、きっと重要かつ必要なプロセスではないかと思います。

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ポイントは、「時間軸を延ばして考える」こと

前置きが長くなりましたが、周囲の力を借りずにストレスを低減し、エネルギーを蓄えることのできる考え方があります。

それは、「今の問題を、時間軸を延ばして考える」という方法です。

具体的な実践方法は、こんなイメージです。

  • 今の問題は、◯年後も引き続き存在しているのか?を問うてみる
  • 「時間さえ経てば、今の問題は解決しているのでは…?」と思えるくらい先の未来を想像してみる
  • 「今すぐこの問題を解決できなくても、いつかは解決できる」と信じる
  • 「極端に言えば、この問題を解決できずに◯年後を迎えたとしても自分は死なない」と考える。

目の前の現実から感じるストレスは、「今この瞬間」や「直近の数日間だけ」に意識が向いているとより強く感じられるようになります。

「今この瞬間に解決しなければ安全が脅かされる」「そんな状況なのに、今すぐ解決する方法を持ち合わせていない」と思えば、不安な気持ちが増幅するのは想像できると思います。

冒頭に書いたような僕の仕事のつらさも、
「今感じているつらさは、今だけのものだ」
「いずれは仕事にも慣れて、 今よりストレスを感じずにこなせるようになるだろう」
などと考えることで、未来に少し希望を感じ、今の不安が相対的に小さくなるような感覚があります。

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自分自身への期待も、時間軸を延ばしてあげる

今感じているつらさが「自分の力不足」によるものだと感じているときは、自分自身への期待も時間軸を延ばして考えます。

  • 「今の自分にはできなくても、◯ヶ月後の自分ならきっとできる」
  • 「だから、今すぐできるようにならなければ、と焦って自分を追い詰める必要はない」
  • 「周囲もきっと、今すぐ十分な能力を身につけろとは言わない。長い目で見てくれる」

などと考えてみると、少しだけ心が軽くなると思います。

仕事などで周囲の期待に答えられないとき、「自分の力不足」だと考えてしまうタイプの人にはきっと効果てきめんです。

なぜかというと、そう考える人にはまず、「周囲の期待に応えたいと思う気持ち」があるからです。
その気持ちは、具体的な努力を積み重ねるための原動力になります。
具体的な努力を積み重ねていけば、時間はかかっても、いつか必ず周囲の期待値まで自分の能力が引き上がるときが訪れるはずです。

そんな風に未来の自分を信じてあげると、
自己否定するよりもはるかに不安は減り、安心感は増して、
ストレスに心を支配されにくくなるのではないかと思います。

僕自身、こうして言葉で整理することで自分自身を励ましています。
この記事を読んでくれている方も、きっとそれぞれ辛いことを抱えていると思いますが、一緒にがんばっていけたらと思っています。

過去を肯定できることの意味

自分の過去の経験の中で、
「あのときは辛かった」
「不運だった」
と思う出来事はないでしょうか。

プラスの意味付けが難しい嫌な経験は誰にでもあると思います。
そして、良い思い出より嫌な思いのほうが深く記憶に刻まれていたりします。

今日は、そんなネガティブな経験がプラスの財産に変わる、1つの気づきについて書いてみます。

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自分の過去を無意識に否定していないか

1つ前の記事に書きましたが、僕は前職の会社でなぜか借金を背負いました。
必死で働いたことの対価はお金という形で得られず、心身にも深いダメージを負いました。

それでも、心の中では
「これほどひどい職場は今後そう出会えないだろう」
「ここまでひどい経験をすれば、今後の人生、何でも"恵まれている"と感じられる」
などとプラスの意味付けをしていました。
そんな会社を選んでしまったことへの後悔も、全くしていないつもりでした。

でも、それは強がりでした。

派遣先こ仕事で、初対面の方から「ここに来る前はどんな仕事をしてたの?」と聞かれるたびに、僕は前職の理不尽な経験を語っていました。
そのときの僕の心の中には、たしかに会社への不満や怒り、そんな会社を選んでしまったことへの強い後悔、休職経験を2回も積み増ししてしまったことへの悔しさがありました。

顕在意識でどんなに前を向こうとしても、潜在意識では後悔や怒りが残っている経験。
きっと誰にでもあるんじゃないかと思います。

この経験から「後ろを向いてクヨクヨしても仕方ないとはいえ、無理に前を向こうと意識しても心が頭についていかないことがある」と学びました。

一番つらいのは、自分自身が自分を否定すること

そうした後悔や怒りの感情は、今この瞬間や、未来に向かうプラスのエネルギーを削いでしまいます。

ネガティブな感情の矛先が自分自身に向かうと、その傾向はさらに顕著になります。

「なんで自分はあんな選択をしてしまったんだろう」などと自分自身を否定すると、今後の自分の選択に自信が持てなくなるばかりでなく、意識「今」や「未来」ではなく「過去」に向かってしまいます。

人間にとって一番辛いのは、他人に否定されることではなく、
自分が自分自身を否定すること、
自分が自分自身を信頼できなくなることです。

大勢の人に否定され続けても、自分が自分を信頼している状態。
大勢の人に認められてはいるが、自分が自分を否定し続けている状態。
極端な二択ですが、後者のほうがきっとより辛いのではないかと思います。

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点と点は、いつか線になる

僕自身も潜在意識下では自分の選択を深く後悔していましたが、
最近、そんな意識がガラリと変わる出来事がありました。

それは、今契約社員として従事している仕事で、今までの経験やそこで得たスキルが全て生きている実感を得られたことです。
その結果、会社にも仕事ぶりを評価してもらうことができています。

直近の2年間は仕事の進め方も、能力も、成果も、何一つ認められず否定され続けた毎日でしたが、会社からの期待に応えようと必死に努力していました。
それでも否定は止まらず、心が折れて休職もしました。
結局退職するまで一度も褒められることなく終わり、退職のときには「自分はなんて仕事ができないんだ」と完全に自信を失っていました。

ですが、その間に積み重ねた努力が知らぬ間に自分の血となり肉となって、今になって初めて、身につけたものが評価され始めました。

確かに「お金」という形で報酬は得られませんでしたが、「仕事のスキル」という財産を身につけることができた2年間だったんだと、初めて心からプラスの意味付けをすることができました。

自分の否定していた過去が、肯定できるようになること。
その意識の転換が起きたとき、心には未来に向かう前向きなエネルギーが湧きます。

過去の自分も含めて肯定できることが、こんなに未来に向かう意欲ややる気を湧き上がらせてくれるのかと、実感した瞬間でした。

3度にわたる休職の経験も、無駄ではありませんでした。
苦しんだからこそ心の健康のありがたみがわかるし、人の痛みに寄り添うことの難しさも理解することができました。

スティーブ・ジョブズスタンフォード大学でのスピーチで言っていたように、「点と点が線になる」ということ。
大袈裟ですが、そんな感覚を齢30にして初めて感じ始めました。

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まとめ

とはいっても、自分が否定している過去を、意思の力だけで肯定できるようになるのはとても難しいことです。

その意識の転換には、少なくとも何かしらのリアルな実体験が必要です。
今回はたまたま身を置いた環境が良かったのですが、自分から行動を起こしてその意識転換をできる方法はまた別記事で書きたいと思います。

また、中には肯定することができない過去もあります。
すべてを肯定すべきだとも思いませんし、そんな必要もないと思います。

ただ、大切なことは、過去も今も未来も含めて自分自身を信頼することなんだと思います。
良い出来事もも悪い出来事も含めて無駄なものは1つもない、いつか1つの果実となって実を結ぶことを信じること。

このことを忘れずにいられたら、きっと安心して過ごしていけるような気がします。

いろいろあった3ヶ月

久々の更新。
今更ですが、あけましておめでとうございます。

この3ヶ月、実に色々ありました。

ざっとこんな感じです。

  1. 退職に一苦労
  2. つい先日まで同居していた祖母が、脳梗塞で2回倒れる
  3. 人生初の短期の仕事を始める
  4. 転職活動で連戦連敗
  5. 人生初の日雇派遣

書きたいテーマは沢山溜まっていますが、今日はまず近況を書きたいと思います。

 

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1.退職に一苦労

まずは、心身がボロボロになった会社を11月に退職しました。
理不尽な借金を背負いましたが、転職活動のエネルギーまで失う前に避難を試みました。

事前に緻密な用意をして退職交渉をし、こちらはうまくいきました。
会社を許せない気持ちをグッと押し殺して、自分自身を悪者にすることでなんとか揉めずに退職することができました。

ですが、退職日まで仕事をやりきるのに苦労しました。
ドが付くくらいのベンチャー企業のため、自分自身の退職に必要な一切の手続きをすべて自分でやらなければならず、加えて自分が抜けても会社が回るよう完璧なマニュアルを残すように求められました。
その他に担当していた業務も、引き継ぎが必要ないくらいにやりきって退職しました。

まあ、ベンチャー企業を選んだので仕事をやりきること、多少の理不尽は仕方ないのですが。従業員に対して通常会社がやってくれる手続きの一切を自分でやらなければいけないというのが、心身がボロボロだった自分には堪えました…。

とにかく、残っている体力気力を使い果たしてなんとか退職することができました。

2.つい先日まで同居していた祖母が、脳梗塞で2度倒れる

一番きつかったのはこれです。
10月末に一度、12月頭に一度祖母が倒れ、年内いっぱいバタバタしていました。

僕はたまたま2度とも倒れた現場に居合わせたので、母と一緒に入退院の手続き、介護保険の申請と認定調査、介護施設探しと契約、親族への連絡、家族間での役割分担、退院後の準備などに追われました。

幸い後遺症がほとんど残らずに済みましたが、ただでさえショッキングな出来事に会社の退職時期が重なったことで、かなりいっぱいいっぱいの状態で2ヶ月を過ごしました。

祖母の命が助かっただけで本当によかったのですが、、
「介護」という問題を当事者として身近に感じ、ライフステージが変わってきたことを実感した出来事でした。

3.人生初の短期の仕事を始める

祖母の入院中に急いで探したコールセンターの仕事を、11月の後半から始めました。

「初めての短期の仕事だ…」と緊張しながら応募した仕事は、
蓋を開けてみると大手自動車メーカーのリコール対応窓口でした。

どんな人が働いているのか、仕事にはきちんと馴染めるか不安でしたが、幸い同僚の派遣社員たちは皆優しく、就業先の社員も皆仕事熱心で最高の職場でした。
クレームの電話も受けましたが、思っていたほどのストレスは感じずに済みました。

2週間でリコール窓口の仕事は終わりましたが、12月からは同じ就業場所で別のコールセンター業務を紹介してもらえました。

今はコールセンターの契約社員という身分で、12月に引き続き働きながら生計を立てています。

4.転職活動で連戦連敗

隙間時間を縫って転職活動もしていました。
いろいろ考えた結果法律事務所で働いてみたいと思い至り、何件も手書き履歴書を送りましたが、ことごとく書類選考で落ちてしまいました。

男性で、30歳という年齢に加え、法律事務所勤務の経験がなかったことがネックになったようなのですが、全力を注ぎ込んだ応募書類が1件も通らないのはなかなか辛いものがありました。

ただ、幸いなことに1月に入ってコールセンターの会社から「次の仕事が決まるまででもいいから、なるべく長く働いてほしい」と言ってもらい、食いっぱぐれる心配はなくなりました。

転職活動については、焦らずに情報収集を続けながら継続していくつもりです。

 

5.人生初の日雇派遣

とはいえコールセンターの契約社員だけでは食べて行けず、先週から週末に日雇い派遣の仕事を始めました。

とある製造工場で8時間立ったままひたすら単純作業を繰り返す仕事で、正直なところ、仕事の内容にも一緒に働く人にも、正社員以外を経験したことのない自分には衝撃がありました。

ですが、短期のコールセンターも日雇い派遣も、これまで全く知らなかった世界が広がっており、そこで出会う人々も新たな刺激をくれるので意外と楽しめています。

「自分はなんて世間知らずだったんだ…」と毎日思いますし、
今の環境を自ら選んだことに全く後悔はありません。

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まとめ 

祖母も年末に無事退院し、僕自身もとりあえず日々の仕事を探すストレス、職場での圧倒的なストレスから開放されたのでこうして久々に記事を更新しています。

収入は以前の会社の半分近くまで落ち込みましたが、今のほうが幸福度は断然高いから不思議です。

このブログのタイトル、「ココロを自由にする」の通り、
心が自由に羽ばたいていて、安心して日々を過ごしていける日々に勝る価値はないような気がいます。

端から見ると正社員から契約社員派遣社員への転落かもしれないし、
金銭面でも低所得者層になったのかもしれません。

でも、今はお金や社会的地位よりも、自分の心と体の健康を最優先にしてしばらく過ごしていきたいと思います。

2、3年後ですら自分がどうなっているのかは全く予測できませんが、適度に肩の力を抜いて、まずは安心して毎日を過ごしていけたらと思っています。

3度目の復職から2ヶ月。会社を辞めることにしました。

9月に3度目の休職から復活していましたが、
2ヶ月弱働いた結果、今の会社を辞めることを決意しました。 

yudaism.hatenablog.com

 
結局今日まで書かずじまいで来てしまいましたが、今日は
・そもそも、今の会社で3度目の休職をした理由
・9月に復職を決意した理由
・今このタイミングで退職することにした理由
を書いてみたいと思います。

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今の会社で3度目の休職をした理由

元々3度目の休職に突入してしまった最大の原因は、上司のパワハラ的関わりでした。

僕を含めて3人しかいない会社で、毎日嵐のようにダメ出しを受け続け、仕事のプロセスをすべて監視されながら、一つでもミスがあったり上司のやり方に沿わない方法で仕事を進めればその場で叱責される毎日でした。
辛かったのは、「行動」ではなく「性格」「能力」を否定され続けたこと。
僕以外の2人は役員なので、その辛さを吐き出す人もいませんでした。

「なんでそういうことするかなあ。普通はこうやるだろ。」
「お前にはこの仕事は向いていないな。」
「営業もできない、作業はミスする。お前には何の仕事ができるんだ?」

そんな関わりが数ヶ月続いた上、これまで約100万円分ものタダ働きを強要されていました。
「お前をウチが雇っていなかったら、今頃休職中の手当ももらえていないだろう。」
「会社に恩があるんだから、その恩を返せ。」
と、2度目の休職中に迫られ、断ることもできずに2度目の復職後しばらくはタダ働きをしていました。

毎日の叱責で自分の能力に対する自信が日に日に目減りしていき、
働いても給料がもらえず親にお金を借りて胸が締め付けられるような日々を送っていた4月のある日のこと。

上司に集中的に暴言を浴びせられたことで心がポキっと折れてしまいました。
帰りの電車で涙が止まらず、翌朝になっても泣きっぱなしで、久しぶりの完全自己否定モードに突入。
不眠や発熱、食欲不振や無気力状態になり、会社に行けなくなりました。

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一度は辞めようと思ったものの、復職を決意。

しばらくは自己否定モードに苦しみましたが、正気に戻るとあまりの理不尽さに怒りが湧き上がり、「転職してやる!!」と強く思いました。

5月、6月は会社への怒りがむしろエネルギーとなって、仕事探しに精を出したりしました。
しかし、複数の転職エージェントから「休職状態のままの転職活動は非常に不利だし、仮に転職できたとしても、自分自身が新しい職場で安定して働ける体調を取り戻さないと行けない。だから一度復職したほうがいい。」と助言を受けます。

上司とは顔も合わせたくない、絶対に許せない、
当時の僕はそう思っていたので、会社を辞めたい気持ちと転職活動に失敗する恐怖の板挟みで何週間も悩みました。

結局最後は、休職可能期間の満了を迎えて復職せざるを得なくなりました。
情けない話ですが・・・。

このとき僕は、初めて自分の一つの誤りに気づきました。

いくら上司の関わりで傷ついたとはいえ、
僕は「自分が正解。上司が間違っている。」と強く思い込んでいたこと。
それは、上司に「上司たるものこうあるべき」という期待を持っていたということ。
自分の期待と真逆の振る舞いをする上司に怒りが湧いてしまっていたこと。

僕が感じていたストレスの一部は、自分自身の考え方の偏りにあるのだと気づきました。
上司は悪くないという意味ではなく、「俺のコピーのように仕事ができるようになれ」と言わんばかりの上司の偏った行動と、「上司は部下を信頼して仕事を任せるべき」等という僕の偏った考え方が掛け合わさってストレスが増幅していたんだと思いました。

だからこそ、「もしこの上司を許すことができたら、受け入れることができたら、今後どんなに偏った人と働くことになっても大丈夫なんじゃないか」と考え直すことにしました。

もう一度だけ、僕を傷つけた張本人である上司に向き合い、自分自身の捉え方を変えるチャレンジをしようと思って復職を決意しました。

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2ヶ月弱働いた結果、退職を決意。

復職後、僕は意識して「上司に期待しないようにしよう」「自分の上司像をこの人に押し付けないようにしよう」と努力しました。

その試みはある程度、実践できたと思います。
目を見て普通に会話することもできたし、以前と同じような振る舞いをされても、淡々と身を守るための対処(ときには反抗)をしてしばらくはうまくやっていました。

ですが、9月から1週間、また1週間と過ごすたびにまた体調が悪化し始めました。
どれだけ休んでも、ストレス対処法を実践しても、確実に毎週疲労が溜まっていきました。

カウンセラーと話し合った結果、「上司に傷つけられた当時のことを心と体が覚えていて、上司と同じ空間で働いているときは無意識に常に緊張状態になっていること」が疲労の原因であることがわかりました。

頭では上司を許していても、体が反応してしまう。
それはきっと、「この人から身を守らなきゃ」という生物としての防衛本能が作り出した緊張状態なんだと思います。

そんな状態ではまた体調が悪化しきるのも時間の問題だと思い、事態が深刻化する前に退職を決意しました。f:id:yudaism:20171021011711j:image


今後について

11月前半での退職を決めたものの、次の仕事は何も決まっていません。笑
決断するときは怖かったですが、また倒れることのほうが怖かったので今の状況はやむなしです。

経済的に余裕がなく間を空けずに次の仕事に移る必要もあるので、今は必死に仕事探しをしている毎日です。

不安はありますし、仕事探しでも悩むこと・迷うことの連続ですが、
「きっと大丈夫!なんとかなる!」
と言い聞かせながら頑張っていきます。

どんなに不安があっても、自分の未来への希望だけは持ち続けたいと思います!

今日も最後まで読んでいただいてありがとうございます! 
ではでは。

秋を告げるキンモクセイの香り

今日は真面目な話を少しお休み。

頭で考えてばかりだとバランスが偏るし、純粋に疲れてしまうので。笑

最近、毎日の散歩コースを歩いているとキンモクセイがいい香りがしてきます。
「ああ、秋になったんだなあ」と感じる、ほっとする匂いです。

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1年前の今頃はまだ東京都のマンション群の中に住んでいたので、こうしてキンモクセイの香りに毎日触れるのは今年が初めて。

実は、「これがキンモクセイの匂いか!」と知ったのは去年の秋でした。

昨年、今の場所に引っ越すキッカケになった近所ののカフェのマスターが、
「今年もキンモクセイのいい匂いがしてきたねえ」
と教えてくれたおかげで、今年は「はっ!この匂いはもしや…!」と気づくことができました。

恥ずかしいですが、去年最初に嗅いだときは「トイレの芳香剤みたいな匂いだな」と思いました。

本当はキンモクセイの香りを真似て、トイレの芳香剤が作られるようになったそうです。僕の感想は順番が逆でした。笑
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(オレンジの小さな花も、一つひとつが小さくてかわいい)

でも、キンモクセイの花はすぐに散ってしまうのでこの色と香りを楽しめるのもあとわずか…

花って本当に儚いなあ…
けど、そんな儚さが美しくて愛おしい。

四季の移ろいや時間の経過を、草花や樹木の変化から感じられるようになると、
「あ、去年もこの花咲いてたな」とか、
「この花、よく見かけるけどなんていう名前なんだろう」とか、
色々と知りたくなってきます。
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そして名前や種類がわかるようになると、
「今年も◯◯が咲く季節になったか~」
なんて思って、より季節が濃く感じられるようになる気がします。

毎年秋はあっという間に過ぎて冬になってしまう気がするけど、
キンモクセイの香り、
茶色く色づいた栗の実、
オレンジ色に熟れた柿の実、
日常にそんな“秋”を見つけながら、季節を存分に味わいたいなと思います。

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