ココロを自由にするブログ ~自信を育て、しなやかな自分を創る~

不安に振り回されず、自由に生きる。3度の休職を乗り越えた筆者が考える、心の自由を手に入れ、幸せな人生を歩むための、考え方と行動のヒント集。

「心の余裕」を作るヒント

今日は、よく行くカフェの店主から素敵な言葉をもらいました。

「心に余裕がないときほど、余裕があるときにとるような行動をするのがいい。」

「たとえば、忙しくてご飯を作る時間がないとき。出来合いの惣菜を食べるにしても、“洗い物が増えるから…”と袋からそのまま食べるのではなくて、一度お皿に移して食べた方が気持ちがいい。」

この言葉を聞いて、私は2つのことに気が付きました。


■”幸せ”の正体

一つは、人の“幸せ”とは、内的に湧き上がる温かい感情のことを指す」ということです。

惣菜をお皿に移して食べることは、一見洗い物を増やすだけの無意味な行動です。
しかし、惣菜の袋に箸を突っ込んで中身を食べたとき、どんな気持ちになるか想像してみてください。
「食べる」という、空腹を満たし命をつなぐうれしいはずの行為が、なんだかとても無機質で味気なく感じられないでしょうか。

本当は、誰しも器にきれいに盛り付けられた、作りたてで温かいおかずを口にしたいはずです。それを口にしたとき、無条件で幸せを感じるはずです。
そんなちょっとしたことで幸せを感じられるのだから、効率を重視して手間を省くのではなく、あえて手間をかけて「満たされる感情」を取った方が賢いのではないかと思います。

似たような例は、他にもいくつもあります。
・コンビニで100円で飲めるコーヒーを、あえて自宅で淹れる。コーヒーミルで豆を挽き、お湯を沸かして挽いた豆を丁寧にドリップし、お気に入りのカップで淹れたてのコーヒーを飲む。
・外食より中食。中食より完全自炊。食事により、手間と時間をかける。
・クリーニングに出していたワイシャツを、あえて自分でアイロン掛けする
・ちょっとした家具は、完成品を買わずに、ホームセンターで材料を買って自作してみる
・ネットショッピングを控え、あえてお店に現物を見に行って商品を実際に手に取って見る

これらを実際にやってみると、これまで“無駄”として切り捨てていた作業が、実は心に静寂と安らぎをもたらしてくれていたことが実感できると思います。


■行動こそが、意識を変える

もう一つは、意識が行動を変えるのではなく、行動が意識を変えることもあるということ。

よく言われる話ですが、悲しいときこそ無理にでも笑うと、本当に楽しい気持ちになってきます。
どんなに気分の良いときでも、声に出して「何もかも嫌だ」と繰り返せば誰でも、何もかも嫌になってきます。

脳科学の世界でも、このように行動が意識を変えることが、論理的に証明されています。


■まとめ

とはいっても、本当に何一つする気になれないくらい消耗してしまうこともあると思います。
そういうときは、過去記事「仕事の“焦燥感”で苦しまないために」にも書いたように体が「休まないと命が危ない!」とアラームを出している証拠なので絶対に休んだ方がいいです。

今日書いた「あえて手間をかけることで、心に余裕が生まれる」という考え方は、あくまで体に少し活動する余力が残っているときの方法だと考えてください。

仕事の“焦燥感”で苦しまないために

突然ですが、あなたは以下の質問にいくつ当てはまりますか?

□休日でも仕事のことばかり考えてしまう
□仕事や、仕事につながる勉強に一切手を付けなかった休日は罪悪感が残る
□仕事や、仕事につながる勉強をしなければと思いつつ、休日はだらだらしてしまう
□常に仕事に追われている感じがして、安心感がない
□休日でも、休む暇があれば仕事が一人前にできるように努力しなければいけないと思う

誰しも一度は、
「休日に仕事なんてしたくないけど、やらなければいけない」
という場面にぶつかったことがあると思います。

でも、そう思いつつ、どうしてもやる気が起きないときってありませんか?
「やらなきゃ、やらなきゃ…」と思いながら、結局一日が終わる。
せいぜい、夜になって少しごまかす程度に仕事に手を付ける。
そして翌朝鬱々とした気持ちで会社に向かっていく…。

こうした恒常的な不安や焦燥感は、見えないところで確実に心身を疲れさせます。
先のチェック項目が多く付いた人ほど要注意です。
今回は“焦燥感”に苛まれないための考え方のヒントについて書いてみます。

■そもそも、なぜ“焦燥感”で苦しんでしまうのか

その原因には以下の3つがあります。

①周囲の期待に100%応えられる自分でないと、自分にOKを出せない(≒幼少期にそのような認知が出来上がるような経験をした)
②直近で、一刻も早く仕事で成果を出さなければ身の危険を感じる経験(ex.上司からの激しい叱責や攻撃など)をしたため、それを本能的に避けようとしている
③自分に自信がない。自分に「あるもの」に目がいかず、「ないもの」ばかりに目がついて、「ないもの」を必死に身に付けて完璧になろうとしている。

①については心理療法的アプローチが有効ではないかと思いますが、②、③についてはある程度対処療法的な方法で克服することができます。

■仕事の焦燥感で苦しまないために

理想の状態は、焦燥感の代わりに安心感を感じながら過ごせることです。
具体的対策として、3つの方法をお勧めします。

まずは、自分に「あるもの」、すなわち自分の長所や特技を5つ書き出すことです。
「ないもの」ばかりに目が向いて、「ないもの」を(まるで塗り絵でも塗りつぶすかのように)完璧に補完しようとする背景には、強い不安感情があります。
その不安に振り回されないためには、何の努力をしなくても自分にある資質に目を向けることです。

誰しも他人から褒められたことのある長所や特技があるはず。
それを思い出して5つ紙に書き、その紙に書かれている言葉が自分自身の中にあるということが実感できるまで、何度も読み返すのがお勧めです。

次に、自分の心が、魂が素直に喜ぶことに時間を使うことです。
私の場合でいうと、例えば
・晴れた日に、外の空気を吸いながらボーっと青空を眺めて深呼吸する
・丁寧に植物の世話をする
・ベランダの外にいる野鳥を観察する
・自然の中を散歩をする
・美味しいコーヒーやハーブティーを飲む
などです。私の場合、深呼吸をしながら全身でこれらのことを味わうだけで、深い幸福感と安心感に包まれます。心理学的にも、「何かに集中することで不安から気をそらす」というのは有効とされていますので、ぜひ自分に合った“魂の喜ぶ行動”を探してみてください。

最後にお勧めするのが、休むことにプラスの意味づけをする、という方法です。

焦燥感に苦しむ人には、非常に真面目で頑張り屋さんが多いです。
冒頭の質問で「仕事や、仕事につながる勉強をしなければと思いつつ、休日はだらだらしてしまう」にチェックが付いた人は、実はもうかなり疲れています。

疲れているから、仕事や仕事に関係する勉強に費やすエネルギーがない。
心ではやらなければと思う気持ちと休みたいと思う気持ちが葛藤を起こす中、体には頑張るエネルギーが残っていないからこそ「だらだらしてしまう」のです。
頑張れなくなるのは「これ以上エネルギーを使うと生命の危険だ」という体のサインなので、頑張れない自分を責めるのではなく、むしろが頑張れなくなるくらいまで頑張った自分自身を褒めてあげてください。

競泳のイアン・ソープ選手は著書の中で
「休むことは、自分を一段階上のレベルに引き上げる行為だ」
と言っています。
トレーニングの量と質がモノを言うアスリートの世界でさえこうなのです。

まずは休むことができた自分を褒められるようになるだけでも心がラクになります。その先に、気付いたら罪悪感を感じるどころか「休むのを楽しみにしている自分」がいたら最高ですね。

「感情の抑圧」を甘く見るな

社会人なら誰しも、やりたくない仕事でも給料をもらっている以上やらなければいけない、反対意見を言うと攻撃されそうで言えない、など気持ちを抑える場面があると思います。
子どもでも、「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」などと言われて我慢する場面などがあるでしょう。

今回はこの、「感情を抑えることの危険性」について書いてみたいと思います。

 

■「感情を抑えること」は大人の必然だと思っていたが… 

少し前まで、私はこの「感情を抑える」という行為は生きていく上で必要な、仕方のないことだと思っていました。

それに、感情を抑えたところでさして問題はないだろう、自分が感情を抑えることで物事がうまく進むなら安いものだ、などという考えもありました。

ところが、結果的に私は心を病み、合計で1年以上の時間を全く働くことができずに棒に振りました。

その原因は「過度な感情の抑圧」にあったというのが、後々になってわかったことです。

 

■感情の抑圧の先に待っている2種類の結末

感情を過度に抑圧していくと、見えないところで着実にストレスが溜まっていきます。
誰しも、程度の差はあれそのストレスは溜めていますが、その度合いが一定以上になると2種類の反応が出ます。

①行動化(周囲への攻撃)

1つは、周囲への攻撃です。
たまにイライラが限界に達するとキレる人や、ストレスが溜まると攻撃的になる人がいますが、これは周囲を攻撃することによって溜まった感情を発散し、心身のバランスを保とうとする行為です。

周囲の人からすればいい迷惑ですが、本人はコツコツ溜めたマイナスの感情を爆発させることで、一挙に抑圧した感情のエネルギーと発散した感情のエネルギーのバランスを取っています。

このタイプの人は、一定のストレスを溜めても最後は発散することができる(ある意味それによって自分の安全を守ろうとしている)ので、後述するタイプに比べると社会生活に支障が出るまでには至らないのではないかと思います。

私の父は、まさにこのタイプでした。
父は家庭に仕事の話を一切持ち込まない人ですが、仕事でのストレスが臨界点を超えると、家庭ですぐキレる、家族を攻撃するなどして、手のつけようがありませんでした。


②身体化(体の不調)

もう1つは、抑圧した感情がすべて体の不調として跳ね返ってくるタイプです。
感情発散の手段を持っていないのでマイナスの感情は溜まる一方で、それが限界を迎えると、体調不良を起こして物理的に活動できなくすることで、これ以上ストレスを受けるのを避けようとします。(この、体調不良を引き起こすことでストレスを避けることを「疾病利得」と言います)

この状態において起こるのは、義務に応えようとする自分とストレス要因を避けたがる自分の、感情の対立です。
ここまで感情を抑圧している時点で、前者の自分が後者を押さえつけるのが習慣化しているケースが多いため、疾病利得を取ろうとしている場面ではしばしば「心では活動しなければと思っている、しかし体が動かない」という心と体のねじれが生まれます。

私の場合もまさに、「心では会社に行きたい・行かなければならないと思っている。しかし体が言うことを聞かない」という理由で何度も会社を休んでいました。

今思えばこれは、「心は会社に行く義務を果たそうとしている」ということを示すことで欠勤を責められないようにする防衛本能だったのかもしれません。
悪いのはすべて自分の体であり、それが自分でコントロールできる範囲を超えている以上、周囲も私を責めようがないだろう…、もちろん無自覚ですが、本能レベルではそんなことを思っていたのかもしれません。

このタイプの人は社会生活を営むことすら困難になるケースがありますが、だからといって1つ目のタイプのように周囲を攻撃するほうがいいということではありません。

いずれのタイプにしても他人か自分を傷付けるわけなので、心身のバランスを保つ手段を何かしら身につける必要があります。

 

■感情の抑圧をやめるには?

以下は私が経験から見い出した方法ですが、私は
①まず、自分の感情を把握すること
②次に、感情を表現するか・しないかを都度意識的に選ぶように訓練すること
③②を繰り返して「感情を表現する」を選択する割合を高めていくことで、過度な感情の抑圧を防ぐこと
の3つが大切だと考えています。

それぞれ具体的に説明すると、
①についてはまず、気持ちがモヤモヤしたときに自分の気持ちを言語化する訓練がオススメです。

ポイントは、自分に具体的な質問を投げかけてみることです。
・今の自分の感情の種類は何か?悲しみ?怒り?
・具体的に何が悲しいのか/腹立たしいのか?
・なぜそれが悲しい/腹立たしいのか?
・相手にどうしてもらえば満足だったのか?

こうして、自分の気持ちを少しずつ絞り込んでいきます。
この作業は、自分のセルフトーク(無意識の独り言)に耳を澄ませることでより精度を高めることができます。

気持ちがモヤっとしたときは何か抑圧している可能性が高いので、特に見逃さないようにしたいところです。モヤっとしたら言語化、を習慣にしてみましょう。

次に②について。さらに自分に質問を続けます。

・今、自分はなぜこの感情を表現できないでいるのか?何を恐れているのか?
・この感情を表現しないことで待っている結果は何か?
・この感情を表現することで待っている結果は何か?
・それらを踏まえて、自分は感情を表現する/しない、どちらを選ぶか?

ここで重要なのは、必ずしも「感情を表現する」という選択をしなくてもいいということです。ここではまず、感情を出すか出さないかな2択が頭に思い浮かぶことが目標です。

最後に③ですが、ここでも100%「感情を表現する」を選ぶ必要はありません。完璧を目指す必要はなく、これまで0勝10敗で抑圧を選んでいたところを、1勝9敗でいいから解放を選んでみようくらいの気持ちで十分です。

時として場の状況を考えて感情を出さないほうが得策であるケースもあるでしょうから、場の状況や自分のストレス状態を考慮して柔軟に“選択できる”ようになることを、ここでは目指します。

3つの中で最も重要なプロセスは①で、①を飛ばして②、③に進むことはできません。
身の回りで感情の抑圧癖がある人がいたら、ぜひこの方法を参考に、本人の本当の気持ちを掴むための質問を投げかけてみてください。

 

■最後に

私自身は上記の方法を試して明らかにストレスが減り、状態が改善しました。上記に付け加えて、紙やパソコンに言語化した気持ちを書き残したのが特に効果的でした。

しかし一方で、この解決法が対処療法に過ぎないのも事実です。
人によっては感情の抑圧が完全な無意識レベルで行われていることがあり、その場合はいくら自問自答しても本当の感情を探り当てることができず、①のステップさえ踏むことができないケースがあるのです。

その場合の対処法はまた別途まとめたいと思います。(また長文になりそう…)
ココロを自由にするために「感情の抑圧」からの卒業は避けて通れないテーマです。
私もまだ成長途上ですが、一緒にがんばっていきましょう。

自己否定が止まらない人にかける言葉

物事がうまくいかないとき、反射的に自分を責めてしまう人がいます。
「自分を責めなくていいんだよ」と声をかけても、“自分を責めてしまう自分”をまた責めてしまう…というように、自己嫌悪は際限なく進んでしまうことがあります。

目には見えませんが、この“自分を責める”という行為、心理的・肉体的に非常に大きなストレスをもたらします。

こんな人が身近にいたとき、何と声をかけていいかわかりませんよね。
決して正解ではありませんが、私は最近次のような言葉をかけるようにしています。

 

■存在(being)そのものを肯定する

「私にとっては、あなたが生きていてくれるだけで十分だよ」
「仕事の評価と人間としての価値はまったく無関係」
「生きているだけで100点だよ」
「仕事でいくらうまくいかないことがあっても、人間としての価値は一切変わらないよ」

意識するポイントは2つ。
まず、
doing(行動や、その結果)でも、
having(何を持っているか)でもなく、
“being(存在そのもの)”を肯定するということです。

実際に、私たちは何億分の1という可能性の中で生まれてきています。
その確率を見れば、純粋に生きていること自体が奇跡に近いと言えます。

ある意味選ばれてきたこの“命”には、価値がないはずがないんです。
生きているだけでとても尊い。
あなたは気づいていなくても、あなたが生きているだけで嬉しい人は沢山いる。(皆照れくさくて直接言わないだけ)
あなたが生きているだけで周囲の人を幸せにしている。

それは希望的観測ではなく、事実です。
何もかも自己否定につながってしまう人には、最後の最後で存在そのものを肯定することで、存在そのものへの罪悪感を持たせずに済みます。

もう1つは、正解・不正解の枠組みで相手を裁かないことです。

「自分を責めるのはよくない」
「こうした方がいい。こう考えたほうがい」
「そんなに自分を責めているあなたを見て、私もつらい(=こっちがつらいから、そんなに自分を責めないでくれ)」
などなど、相手のdoingについてこちらの価値観で良い・悪いを裁くと、相手に「やっぱり私はダメなんだ」と思わせかねません。

本当に相手のためを思うのであれば、相手の考え方を変えようとするよりも、今目の前にいる相手のすべてを受け入れることのほうが何倍も力になります。

 

■罪悪感を手放す

先ほどの言葉を、まずは落ち込んでいる人にかけてみてください。
それを繰り返していると次第に、自分が落ち込んだときでも自分自身に同じ言葉をかけることができるようになります。
仮に心の底から存在を肯定できなかったとしても、声に出して繰り返し言ってみるだけで間違いなく心が楽になります。

生きていく上で一番辛いのは
自分の存在に価値を感じなくなること
それどころか、存在に罪悪感を感じてしまうこと
だと思います。

逆に言えば、罪悪感を手放すだけで生きるのはずっとラクになるはずです。

今回ご紹介した方法は、繰り返し相手に伝え続けることで確実に相手の心は楽になります。自己否定から来る罪悪感は薄れます。
自己否定を手放す方法は他にも色々ありますが、それはまた別記事でまとめます。

なぜ体を鍛えることが必要か?

バリバリ仕事をこなす人には、体を鍛えている人が多くいます。
素朴に「なんでそこまで?」と思い本人にその理由を聞くと、大抵「体力をつけないと体が仕事についていかないから」、「健康を保ちたいから」という内容でした。

ですが長年、私はこれに納得がいかなかった。
ジムなどで体を鍛えることの「肉体的苦痛」や「時間」「コスト」と、それによって得られる「健康」「体力」を天秤にかけると、どうしても割に合わない気がしていました。

私は中学・高校と運動部に所属していましたが、何らかの目標(全国制覇!など)を目指して行うスポーツと違い、社会人になると何かの競技で結果を出すのでない限り、スポーツをする意味を見失っていました。


■転機

しかし、社会に出てから私はあることに気が付きます。

「どうやら自分は普通より体力がないらしい…」

そう思ったきっかけは、長時間残業でした。
毎日終電近くまで残業する同期に負けたくない気持ちもあり、黙々と仕事に打ち込んでいたとき、残業が一定時間を超えると決まって体調を崩しました。
そういう場合は大抵、「心は働きたいと思っているのに体がついていかない」という、心と体のアンバランスを感じていました。

結局、その後も仕事が忙しくなるたびにちょこちょこ体調を崩し、最終的にはブレーカーが落ちたように体が動かなくなり、私は長期間の休職を余儀なくされました。


■気づいたこと

結局そこで気づいたのは、
「体は、心の住む家である」
「心を健康に保つためにも、体を健康に保たなければいけない」
ということでした。

私は心の成長ばかりを追い求めて、仕事や人間関係であれこれ考え、悩み、焦って、ひたすら心に体を従わせてきました。
しかし、そうしたことに必要なエネルギーは体から供給されているので、体のエネルギーが切れて再起動できなくなったとき、私の心は体と同じように下降の一途をたどっていきました。
問題の本質は、体の声を聞かなかった(というより体の声がわからなかった)こと、体の健康を軽視して心を暴走させすぎたことにあるのですが、一方で日頃から体を鍛える(心の住み家を整える)ことによって心の健康も維持しやすいことに気づいた経験でした。


■行動を変えた結果

今では、嫌いだった筋力トレーニングやウォーキング、サイクリングに加え、駅でも一切階段を使わないなど、体を鍛えることを意識して生活しています。
始めてみて、色々な気づきや得たものがありました。

・間違いなく、以前より体調がいい。日々の体調が底上げされた感覚。
・自分の体が引き締まったのを見て、自分に少し自信が持てるようになった。
・体を鍛えることは一時的なストレスも伴うが、それを乗り越えて目的に向かって努力することで心も鍛えることができた。

私の場合、「体は心の住み家である」ということを理解してから、行動を変えることができました。
何がスイッチとなって意識や行動が変わるかは人それぞれだと思いますが、この話が何かの参考になればと思います。

ここまでのブログの振り返り

十数本記事を書いてきて、モヤモヤすることが非常に多いです。


理由は、毎回「文章を通じて伝えることの難しさ」を感じているからです。
今日は今感じている記事を書く上での問題点とその原因、今後の改善策について考えてみます。


■ブログを書いてみて感じた問題点(What)

毎回記事を書くたびに起きる現象として、
・書き終わってみると我ながら中身が薄い
・一番伝えたいことが書けていない気がする(言いたいことはここじゃないんだよな…となる)
・それを書こうとすると文章が長くなりすぎる
・書いている途中でテーマが広がってしまう
・1記事書くのに時間がかかりすぎる(30分以上かかる)
などがあります。

ちなみに私が理想としている記事の状態は、
・構想から書き終わりまで、1記事30分以内で済ませられている
・1記事あたり5分程度で読めるボリュームにおさまる
・一番伝えたいことがシャープに読者に伝わる
の3つが実現できている状態です。

■原因(Why)

詰まるところ、上記の問題が起きる原因は、
・自分自身、何が一番伝えたいポイントなのかを整理できていない。
・文章を書きながら頭の中を整理している(だから脱線するし無駄も生まれる。時間もかかる)
の2点に絞ることができそうです。

■解決策(How)

となると、今後やるべきことは2つです。
①書く前に、一番伝えたいポイントが何かを整理する。
②一番伝えたいポイントをどういう論理構成で伝えるか、書く前に文章構造を練る

この2つを5分ほどで整理することができれば、十分に1記事30分以内で書くことができそうです。

先人が書いた文章の書き方に関する書籍なども山ほどありますが、本人が実践する中で帰納法的に学ぶことに最上の価値があると思っているので、引き続き走りながら(=記事を書き続けながら)適宜振り返りをし、文章を磨いていきたいと思います。

【書評】メディアの情報から本質を見抜くチカラ。 ~『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』~

「どんな環境でも生き抜ける“強くしなやかな自分”をつくる。」

これは、私の中でずっと意識しているテーマです。
変化の激しい中でも自信を持って生き抜ける自分を作ることができれば、政治や経済などの自分ひとりの力では変えられない外部要因があろうとも、不安に振り回されることなく生き抜くことができるはずです。

具体例を挙げると、メディアリテラシー」を持つことは自分をつくることの一側面だと思います。

私自身、以前からメディアから流れてくる情報を鵜呑みにしている自分、それ以前に社会に無関心な自分、社会を良くするために何も行動を起こせていない自分に、ずっと物足りなさを感じてきました。メディアリテラシー」を身につけることによって情報に向き合う姿勢が変われば、自分の力で社会を生き抜いていける強さを自分に感じ、自己肯定感は増し、ココロがより自由になるのではと思います。

前置きが長くなりました。
今回はそんな気持ちから手に取った一冊の本の感想です。

 

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

 

 
結論から言うと、この本は間違いなく一読の価値があります。
今までボーっと日本経済新聞を読み、そこに書かれている記事の内容をそのまま信じ、取り上げられている物事の背景や問題点、解決策について考えることもなく通り過ぎていった時間を悔いました。

おそらく私のような人は多数派だと思います。それが無理のないことであることも、この本を読んで認識しました。
ですがそこにこそ、日本の国民とメディアの関係性の問題の本質があることも教えてもらいました。

本来ジャーナリズムが果たすべき役割は何か、日本のメディアの評価、日本のメディアが権力者の代弁ばかりする構造的原因、今後日本の新聞はどう生き残るべきか。
多くの具体的ニュースを取り上げながら、これらが論じられています。
アメリカで生まれ、アメリカのメディア各社を渡り歩いた著者だからこそ持てる視点を随所に感じました。

自分なりの意見を持つためには、立場やバックグラウンドの異なる様々な人の意見に耳を傾けることも必要だと思います。
具体的な意見を聞いて「確かにそうだな」、「いや、何か違うな」など感じる過程で、自分自身の考えを具体化しやすくなるからです。

そういう意味でも、この本は日本の新聞や報道に新しい視点からの示唆を与えてくれますし、当たり前に飲み込んでいた日本の報道そのものに疑義を抱かせてくれることで「自分の頭で考えるきっかけ」を与えてくれる良い本です。
読み終わった後は間違いなく、新聞の情報の見え方が変わります。

「自分をつくることの大切さ」
「その手段としての、メディアリテラシーの習得」
というテーマについては、「自分を創る」カテゴリの中で継続的に発信していきます。

ではでは。

「ないもの」ではなく「あるもの」に目を向けよう

仕事で怒られたり批判されたりしたとき、落ち込む人と全く意に介さない人がいます。

彼らの違いはどこにあるのか?
と、怒られると死ぬほど落ち込むタイプである私は考えました。
(できることなら、必要以上に落ち込まずに早く回復したい…)

■問題意識

ここでの問題は、
①そもそもなぜ、叱られるだけで必要以上に落ち込んでしまうのか
②落ち込みやすい人が落ち込みづらくなるためには、どうすればいいのか
の2点でしょう。順を追って考えてみます。

■そもそもなぜ、叱られるだけで必要以上に落ち込んでしまうのか

結論から言うと、「自己肯定感の低さ」が原因だと私は考えています。

自己肯定感が低い原因は幼少期の育てられ方にあることが多く、自己肯定感の低い人は
「ありのままの自分では価値がない」
「完璧でいなければ、自分は必要とされない」
「だからこそ、努力して欠点を補わなければいけない」
などと、常に自己無価値観に苦しみ、不安のドライブがかかって行動を起こします。

彼らは、叱られると必死に隠そうとしてきた弱点を突かれたように感じ、失格の烙印を押されたような気分になって、
「やっぱりありのままの自分では価値がないんだ」
「やっぱり私は必要のない人間なんだ」
「私にまた一つ、ダメな部分が見つかった。やっぱり自分はダメなんだ。」
などと、叱られたという事実を拡大解釈します。

元々持っていた「自分はダメだ」「自分には欠点がたくさんある」という思い込みに「叱られた」という事実が重なることで、さらに思い込みを強固なものにしていってしまいます。

■では、落ち込みやすい人が落ち込みづらくなるためには、どうすればいいのか

こんなときは、「叱られたポイント」に集中せずに「自分ができること」に目を向けると気持ちがラクになります。

「自分ができること」などというポジティブな側面を意識することで、ネガティブな思い込みを強めるのを止めることができます。

ただ、困ったことに、「ないもの」に意識が向いて落ち込んでいるときほど「あるもの」に目が向きづらい。

なので、平常時に
・自分ができること
・自分が得意なこと
・自分の長所(または長所だと人から褒められた経験のあること)
・人から感謝された経験
を書き溜めておき、いつでも見返せる状態にしておくことを強くオススメします。
そして、それを繰り返し音読すればさらに、どん底からちょっと気持ちが回復します。
ぜひ一度、やってみてください。

この他にも、自己肯定感の低さや自己無価値感から解放されるには様々な方法があると思います。
そちらはまた別記事で書きます。

尊敬する友人

僕には誰よりも尊敬している友人が一人います。

彼は僕より7つ年上なのですが、最も尊敬しているのは、僕はもちろん、年齢や立場がどれだけ異なる人でも対等に接し、いつでも謙虚に人の意見を受け止める点。

会うたびに尊敬するのは、「あなたを一人の人として尊重しています。私はあなたの意見にきちんと耳を傾け、受け止めます。」という“心”が、言葉にしなくても話している相手に伝わることです。

彼の領域は、口先で話す言葉や思考を変えるだけでたどり着けるものではなく、真正面から心を磨くことで初めて行き着く境地なのだと思います。
豊かな人間性が、体から染み出している感じ。

どんな仕事をしていても、最後の成果を左右するのは“心”だし、
豊かな人生を歩めるかどうかも、やはり“心”に懸かっていると最近思います。

「いかにして心を磨くか」については考察中なので、また別記事にて書きます。

愛のある人と、社会に興味のある人

中島美嘉さんの「雪の華」という曲の中に、

“誰かのために何かを
したいと思えるのが
愛ということを知った”

というフレーズがあります。
シンプルだけど、考えさせられる素敵な歌詞です。

「自分のために」じゃなくて「誰かのために」という部分が重要で、
一見相手のためにしているように見える行為でも、
実際は自分を守ろうとしたり自分が必要とされるためにやっていること。

少し厳しいけど、それは相手への「愛」ではないんだと思います。

話は変わりますが、身の回りにいる「社会に興味のある人」と「社会に無関心な人」っていますよね。

ある人のツイッターに、「自分に関係のないことにも興味を持てるか否かが、社会に興味のある人とない人の違い」という言葉がありました。

これを読んで、僕は「社会に興味のある人が必ずしも愛のある人だとは言えないけど、愛のある人は高い確率で社会に興味を持っているのでは」と思いました。

身の回りにいる「愛があり、社会の問題への感度が高い人」を思い浮かべると、とても魅力的で、周囲の人から尊敬され、信頼され、その結果強い影響力を持って人の上に立つような人がとても多い。

翻って今の自分を省みると、自分の問題で精一杯で、自分と無関係な周囲の事象に興味を持てていないと感じます。(せいぜい関わりのある周囲の人の世話を焼くぐらい)

そんな状態の中で無理に自分と関係のないことにも興味を持とうとするのも違いますが、私自身もできるだけ早く「社会に興味のある人」に成長したいと思いました。

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